【第三話】「灰街の情報屋」

ミルザン峠を越えると、空気は一変した。

 冷たい雪風は止み、代わりに鼻をつく獣脂と香辛料の匂いが漂う。

 道沿いには商人や旅人だけでなく、あからさまに武器を携えた傭兵たちが行き交っている。


「ここが……人間界……」

「まだ入口だ。ここからが本番だ」


 ルナの目は好奇心と警戒が入り混じっている。

 俺はフードを深く被り、道を外れて裏路地へと入った。


 そこが――灰街だった。


 石畳はひび割れ、雨水と血で黒ずんでいる。

 左右の建物はボロ布や板で繋がれ、上階同士が細い橋で結ばれていた。

 そして、通りのあちこちで怪しい取引や殴り合いが繰り広げられている。


「絶対、正面から歩きたくない場所ね……」

「だが、情報はここにしかない」



---



 俺たちが目指すのは、《赤灯のアデル》と呼ばれる情報屋だ。

 人間界でも魔界でも噂になるほどの腕前で、金さえ積めば王族の寝室の情報すら売ると言われている。


 ただし――買う側が生きて帰れるとは限らない。


「……あそこだ」

 ネオンのように赤い灯籠が吊るされた二階建ての店。

 入口には無表情の巨漢が立ち、通行人を睨みつけている。


 俺は銀貨を取り出し、巨漢に見せた。

 魔王の顔が刻まれたその銀貨を、巨漢はしばらく見つめ……無言で頷き、扉を開けた。



---



 店内は香と煙草の匂いが混ざり、薄暗い。

 奥のテーブルに、赤いドレスを着た女が脚を組んで座っていた。

 彼女こそ、赤灯のアデル。


「まあ……珍しいお客だこと。魔界の右腕様が、こんな汚れた街までいらっしゃるなんて」

「黒いフードの男を探している。肩に『千眼の印』を持っているはずだ」

「千眼ね……それは高くつくわ」


 アデルは薄く笑い、爪先でテーブルを叩いた。

 次の瞬間、周囲の客たちが一斉に席を立ち、俺たちを囲む。


「……情報料の前払い、いただけるかしら?」

「金は払う。だが、これは脅しと受け取っていいのか」

「いいえ、歓迎の印よ。ただ……あなたが本物かどうか確かめたいの」


 その瞬間、背後から椅子を振り下ろされる――が、俺は身を沈めてかわし、振り向きざまに相手の腕を掴んだ。

 床に叩きつけ、刃先を喉に突きつける。


「……これで足りるか」

「ふふ、十分。本物ね」


 アデルは指を鳴らし、取り囲んでいた者たちを下がらせた。



---



「黒いフードの男……今は《黒檀の宿》に潜伏してるわ。灰街の南端よ」

「なぜ教える」

「魔王様には一度借りがあるの。あの人が死んだと聞いて……少しだけ恩を返したくなったのよ」


 彼女の表情には嘘がない。だが、瞳の奥には計算高い光が潜んでいる。


 俺は短く礼を言い、席を立った。

 だが出口で、アデルが小声で告げる。


「気をつけなさい、ゼファード。……その男を追っているのは、あなただけじゃない」


---



 灰街の南端は、北側よりさらに暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。

 街灯代わりのランプはほとんどが割れ、道端には酔い潰れた男が転がっている。


「……ここ、本当に宿があるの?」

「ある。だが普通の宿じゃない」


 路地を曲がると、漆黒の木材で作られた三階建てが現れた。

 扉には目のような彫刻があり、その視線が侵入者を試すように感じられる。


 ――《黒檀の宿》。



---


 中に入ると、空気は一転して重苦しい沈黙に包まれていた。

 客はほとんどいない。受付の男が、俺たちを値踏みするように見た。


「二人部屋だ。三泊」

 俺は銀貨を二枚、音を立ててカウンターに置いた。


 鍵を受け取り、三階の廊下を進む。

 目的は部屋ではない。黒いフードの男の所在だ。



---



 その気配は、廊下の奥――。

 扉の下から漏れる、微かな影の動きでわかる。


 俺はルナに小声で指示する。

「ここから先は俺が行く。何かあれば窓から逃げろ」

「……わかった」


 扉の前に立ち、音もなく錠を外す。

 開けた瞬間――。


 シュッ!


 投げナイフが飛び、頬を掠めた。

 部屋の中には、黒いフードの男……ではなく、全身を黒布で覆った暗殺者が二人。


「歓迎はされてないようだな」

「……ゼファード・クロウ。あんたもここで死ぬ」


 同時に二人が斬りかかってくる。

 俺は片方の刃を弾き、相手の懐に踏み込んで胸を打ち抜く。

 もう一人が窓から飛び降りようとした瞬間――ルナの矢が足を射抜き、床に倒れた。



---



「黒いフードの男は……どこだ」

「……もう、ここにはいねぇ……《影の港》へ……」

 男は血を吐き、動かなくなった。


 部屋には荷物が一つだけ残っていた。

 中には、羊皮紙に描かれた複雑な紋章。

 それは、俺が知る限りどこの国旗でもなかった。


「これ……魔王様の遺体のそばにあった紋章と似てる」

 ルナの声で、心臓が跳ねる。


 ――偶然じゃない。

 この紋章が、魔王暗殺と千眼を繋ぐ鍵だ。



---


 宿を出ると、夜風が強く吹き抜けた。

 空には月がなく、街全体が影に沈んでいる。


「次は、《影の港》だ」

「そこは……?」

「灰街よりも、もっと深い闇だ」


 俺たちは黒檀の宿を後にし、夜の路地へと消えた。


【第三話・完】

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