【第二話】「血の紋章と黒いフード」

 夜明けの魔王城は静まり返っていた。

 昨日の喧騒と悲鳴が嘘のように、重く淀んだ空気が廊下を支配している。

 黒布で覆われた玉座の間には、まだガルドヴェインの香が漂っていた。


 俺――ゼファードは、机に広げた地図を睨んでいた。

 黒いフードの男が落とした紙切れ、そして奴の背中に揺れていた古びた鉄製の紋章。

 それは、古代人間王国カルヴァーンの密偵部隊が使っていた「千眼の印」だった。


「千眼……百年以上前に滅んだはずの組織が、今になって……?」


 セリアが背後から声をかけてきた。

 彼女も眠っていないのだろう、目の下に深い隈ができている。


「ゼファード、犯人は人間だと思う?」

「……まだ断定はできん。だが、あの紋章を持つ者は人間界にしかいない」

「じゃあ、行くのね」

「ああ。今日、出る」


 セリアは短く頷き、黙って俺に布の包みを差し出した。

 中には、乾燥肉と小瓶に入った回復薬、そして一枚の小さな銀貨。

 片面には魔王の横顔、もう片面には平和同盟の紋章が刻まれている。


「……魔王様が、生前あなただけに渡した銀貨よ。人間界じゃ、この銀貨を知る者が協力してくれるはず」

「助かる。必ず戻る」



---



 魔界と人間界を結ぶ唯一の公認ルート、《ミルザン峠》。

 標高二千メートルの雪山を越えた先に検問所があり、そこを抜ければ人間の領土だ。


 だが、峠の手前で俺は気配を感じ、足を止めた。

 雪原の中、岩陰から何者かがこちらを覗いている。


「……出ろ。殺しはしない」


 そう告げると、小柄な影が岩陰から姿を現した。

 まだ年端もいかない少女――だが、その手には短弓が握られている。


「……あんた、魔族でしょ」

「そうだが、それがどうした」

「だったら……ありがとう」


 予想外の言葉に、俺は眉をひそめた。

 少女は弓を下ろし、雪の上をゆっくりと歩み寄ってきた。


「私、ルナ。人間の村で生まれたけど……十年前、魔王様に助けられたの。だから……あの人を殺した奴を、絶対に許せない」

「……ガルドヴェインを知っているのか」

「ええ。でも、詳しい話はここじゃできない。……追われてるの」


 その瞬間、背後から雪を蹴る足音が迫った。

 複数人――追っ手か。



---



 雪煙を割って現れたのは、黒装束の男たち。

 全員、左肩にあの「千眼の印」を刺繍している。


「……やはり生き残っていたか、千眼」

「魔族の右腕……ゼファードだな。生きて帰れると思うなよ」


 男たちが一斉に短剣を抜く。

 だが俺は腰の短剣を引き抜き、低く構えた。


「悪いが……お前たちは、最初の手がかりにさせてもらう」


 雪原に金属の音が響き、戦いが始まった。


---


 雪原の上で、千眼の兵たちが円を描くように俺とルナを囲む。

 冷気で金属が軋む音が、不気味な合図のように響いた。


「ルナ、下がっていろ」

「無理よ。私、弓なら少しは使える」


 強情なやつだ。だが、その眼には怯えがない。

 ――覚悟を決めた者の眼だ。


 千眼の兵が二人、同時に間合いを詰めてくる。

 足を滑らせるように雪を蹴り、低い姿勢で短剣を振り上げてきた。


 俺は一歩踏み込み、片方の刃を受け流しながら肘で顎を打ち上げる。

 もう一人の短剣はルナの方へ――。


「っ……当たれっ!」


 ルナの矢が一直線に飛び、敵の肩を貫いた。

 悲鳴と共に雪に崩れ落ちる。


「やるじゃないか」

「今は褒めないで……!」


 残る三人が雪煙を巻き上げ、一斉に突っ込んできた。

 だが、彼らの動きは魔界の精鋭と比べれば甘い。

 俺は二人の武器を絡め取って捻り折り、最後の一人の首元に刃を突きつける。


「……生きて帰りたければ、答えろ。黒いフードの男はどこにいる」

「……俺たちは……連絡係にすぎん……次は……《灰街》だ……」


 灰街――人間界の裏市場。

 そこなら、情報屋も暗殺者も、金さえあれば手に入る。


 俺が刃を引くと、兵たちは雪煙の中に消えていった。



---


 戦いの後、ルナは雪に腰を下ろし、大きく息を吐いた。

 彼女の頬は紅潮し、目はまだ戦いの熱を宿している。


「……助けてくれてありがとう。やっぱり、あなたがゼファードなんだね」

「俺を知っているのか」

「ええ。十年前、私の村を襲った盗賊団から、魔王様と一緒に助けてくれたでしょう。あなたは覚えてないかもしれないけど……あのとき魔王様が言ったの。『この子は、いつか世界を変える鍵になる』って」


 魔王がそんなことを――。

 俺の胸に、じわりと熱いものが広がった。


「だから、私も一緒に行く。灰街まで」

「危険だ」

「知ってる。でも、放っておけない」


 雪原の向こう、ミルザン峠の道が遠くまで続いている。

 あの先に、魔王の死の真相がある。


 俺とルナは視線を交わし、無言のまま峠へ向かって歩き出した。

 冷たい風が吹き抜け、雪を巻き上げる。

 それはまるで、新たな戦いの始まりを告げる狼煙のようだった。


【第二話・完】

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