第3話「南シナ海の夜、テッサの孤独」
南シナ海の夜は、重く、深かった。
音のない深海で、ソナーの微かなピン音だけが、潜水艦トゥアハー・デ・ダナンに生命のベクトルを与えている。テッサは、その規則正しい音が、まるで自分の孤独な脈打ちのように聞こえる錯覚を覚えた。艦長室の席に座るテッサは、モニターの冷たい光を浴びながら、その孤独な戦場を指揮していた。
彼女の身体を流れる血潮が熱い温度を保つ一方で、心は、深海の圧力にも似た重苦しさに支配されていた。
「敵潜、接近中。魚雷、発射管に装填!」
テッサの声は、冷静だった。
しかし、その声の奥底には、言いようのない違和感が隠されている。
それは、敵の数が想定をはるかに上回っているという事実に起因していた。
彼女の思考は、フィルタリング型の感情処理を高速で実行する。
(このままでは、友軍にも被害が出る…)
彼女の脳裏に、仲間たちの顔がフラッシュバックする。
宗介、クルツ、マオ……彼らが危険に晒される可能性を計算するたびに、彼女の心臓は重い鼓動を打った。
テッサは、司令官としての最適解を導き出す。
それは、非情で、誰の賛同も得られないであろう決断だった。
「全艦、緊急浮上! これより、敵艦を陽動し、全火力を集中させる。……友軍は、この隙に離脱せよ!」
モニターに映る敵艦の数は、圧倒的だった。
この作戦は、成功すれば友軍を救えるが、失敗すれば彼女たち自身の命はない。
しかし、この非情な決断こそが、彼女にとっての唯一の選択肢だった。
(これは、まるで舞踏会だ。一人だけ違うステップを踏み、全ての視線を集める。ワルツの三拍子に乗せ、私が弾くべきは華やかな舞曲ではなく、オルゴールのぜんまいを巻き上げる冷たい音だ。この駒を弾く音が、唯一の勝利への道…)
彼女は、自分の下した決断が、どれほど残酷であるかを理解していた。
仲間を陽動に使い、敵を引きつけ、彼女たちだけが危険な状況に身を置く。
その事実が、彼女の心に深い罪悪感を刻み込んでいく。
彼女の指先が、冷たいパネルに触れる。
「発射……!」
その声と共に、トゥアハー・デ・ダナンは魚雷を発射し、一瞬にして静寂を破った。
戦闘は激化した。
艦の周囲に、十数本の魚雷の光の筋が、まるで深海を這う蛇のように迫ってくる。
敵艦からの魚雷が、艦体をかすめるたびに、耳をつんざく金属の軋む音が艦内に響き渡る。
断続的に鳴り響く警報音が、その轟音に重なり、人々の悲鳴をかき消していく。
激しい揺れに、艦内の乗員たちはバランスを崩して転倒し、器具が大きな音を立てて床に落ちる。
テッサは、その振動を体で感じながら、一人静かに耐えていた。
冷や汗が首筋を伝う。彼女の心は、激しい戦闘とは裏腹に、自己嫌悪という名の感情で満たされていく。
奥歯を強く噛みしめすぎて、唇の内側から微かに血の味が広がる。
まるで酸素が薄くなったかのように呼吸が重くなり、冷たい手を無理に握りしめると、血が引いていくのがわかった。
この任務は、彼女の命がけの決断によって成功した。
友軍は無傷で撤退し、敵艦にも大きな被害を与えた。
艦内が静寂を取り戻した瞬間、テッサは安堵するどころか、まだ耳に残る金属音の残響に苛まれた。
乗員の誰も声を発しない。通信士は震える手でメモを取り、副官は目を合わせようとしない。遠くで、機械の冷却音だけが規則的に続く。
この沈黙が、テッサの孤独を深く際立たせた。
彼女は、皆が震えながらも、静かに任務を遂行していることを理解していた。
その姿は、まるでテッサの罪悪感を無言で突きつけるようだった。
艦長室に戻るため通路を歩くと、立ち上がって敬礼する乗員たちがいた。
しかし、その全員が沈黙のまま視線を逸らし、テッサと目を合わせようとはしなかった。
艦長室に戻ったテッサは、誰にも見られないように、冷たい水をグラスに注いだ。
水を飲む直前、冷え切った指先が震え、グラスを落としそうになる。彼女は慌ててそれを掴み、その重さに安堵した。一瞬だけ、宗介や要の顔が脳裏をよぎる。
「彼らなら、この状況で、どんな選択をしただろうか…」
その問いは、答えのないまま水面に消えていった。
まるで数千メートルの海水が胸にのしかかるように、呼吸が重くなる。
深海の圧力で窓ガラスがわずかにたわむような錯覚を覚える。
グラスに揺れて映る、天井の蛍光灯。
テッサは、その揺れをじっと見つめていた。その光は、まるで深海に差す月光のように、美しく、そして届かない。
孤独の光は、屈折し、彼女の心に届くことはなかった。
彼女は、「助走」の概念で自らの行動を正当化しようとする。
(この決断は、友軍を守るための必然的な行動だった。私一人で多くの命を救ったのだから、正しいはずだ…)
しかし、その論理的な思考は、彼女の心の奥深くにある悲しみを消し去ることはできなかった。
(私一人でやれる。でも、私だからこそ間違えたのかもしれない…)
彼女は、自分が下した決断が、本当は「最適解」ではなかったのではないかという、新たな違和感に苛まれ始める。
この夜、テッサは、誰もいない艦長室で、ただ一人、深海のように深い孤独と向き合っていた。
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