第4話「マオの酒乱、その理由」

香港の夜は、ネオンの光と、蒸し暑い空気、そして賑やかな人々の声で満ちていた。

湿ったアスファルトの上を、真夜中の雨のように人々の足音が絶え間なく続く。

マオは、いつも通りの気だるげな表情で、バーカウンターに肘をついていた。

グラスの中のウイスキーは、氷と混ざり合い、琥珀色に輝いている。

ネオンの光がそのグラスに反射し、まるで彼女の心の中を覗き込もうとしているかのように揺れていた。

この店の外では喧騒と熱気が渦巻いているが、マオの周りだけは、静かな孤独とウイスキーの匂いが漂っていた。


「ったく、マオさんよぉ。いくら休暇中とはいえ、あんなに暴れなくてもいいだろうに」


カウンターの向こうで、宗介が呆れたように言う。

彼は、マ介とは違う私服姿だが、その佇まいは、いつでも戦闘態勢に入ることができる軍人そのものだった。

マオは、グラスを強く握りしめた。その圧力に、中の氷がミシミシと音を立てて砕ける。

口元だけで笑った。


「そうカリカリすんなよ、ボウズ。たまにはパーッといかなきゃ、やってられねぇだろ?」


その言葉の裏に、深い悲しみが隠されていることに、宗介は気づかなかった。

宗介にとって、マオの言動は、すべてデータと論理で分析できるものだった。

しかし、この夜のマオの行動は、宗介の持つどんなマニュアルにも当てはまらなかった。

彼女は、普段よりも酒のペースが速く、時折、遠くを見つめるように虚ろな目をしていた。

その様子に、宗介の脳内で、違和感のベクトルが動き始める。


(マオの行動は、平常時におけるデータと乖離している。飲酒量は通常の300%を超過、感情の温度は不安定……原因は何か? 任務によるストレス? いや、それにしては……)


宗介の思考は、マオの行動パターンを分析しようと暴走し始める。

『マオの行動は、まるで高速で走る列車が、突然、行き先のない線路に分岐したかのようだ。この列車は、一体どこに向かっている? いや、線路を敷くのは俺の役割だ。線路を敷けば、彼女は正しい目的地へと向かうはずだ……』

しかし、宗介の分析は、まったく見当違いの方向へ進んでいく。

「もしかして、彼女は新手の訓練を試しているのか? 飲酒状態での戦闘能力測定……いや、それにしては無駄な動作が多い。それでは非効率だ。では、感情の起伏をわざと増幅させ、感情の制御訓練を行っている……?」

宗介は、マオの行動の必然性を、軍事的な論理で無理にこじつけようとする。


その時、マオがふと、グラスを置いて立ち上がった。

彼女の足取りは、わずかにふらついていた。

「トイレ行ってくる」

そう言って、彼女は店の奥へと消えていく。

宗介は、マオが席を立った瞬間、彼女が置いていったグラスを手に取った。

グラスは、まだ冷たかった。

しかし、そのグラスの縁に、わずかに残るウイスキーの匂いが、宗介の嗅覚を刺激する。

それは、どこか懐かしい、そして、悲しみが混じった匂いだった。


その匂いは、宗介が過去に経験した、ある任務を思い出させた。

それは、宗介がまだ子供だった頃、戦場で出会った傭兵の匂いだった。

その傭兵は、いつも酒を飲んでいた。そして、その酒の匂いは、宗介の心に、言いようのない不安を植え付けた。

宗介は、グラスを元の位置に戻し、マオが戻ってくるのを待った。


その間、宗介は、マオが以前、語っていたことを思い出した。

「戦場で、一番怖いのは、孤独じゃねぇ。忘れ去られることだ」

宗介は、その言葉の意味を、この時初めて理解した気がした。

マオは、戦場で命を落とした戦友を、決して忘れようとはしていなかった。

彼女の酒乱は、ただのトラブルではなく、戦友への深い追悼の念だったのだ。


マオが席に戻ってきた。

彼女の表情は、先ほどよりも穏やかだった。

「ボウズ、お前さ……」

彼女は、口元は笑っているのに、目元がわずかに潤んでいる。

彼女は、宗介に、何も言わずにグラスを差し出した。

「たまには、付き合えよ」

宗介は、一瞬戸惑った。しかし、彼はそのグラスを手に取り、一気に飲み干した。

ウイスキーは、宗介の喉を熱く焼いた。

彼は、咳き込みそうになるのを必死に堪え、何事もなかったかのようにグラスを置いた。

しかし、その熱は、宗介の心に、マオの深い悲しみを伝えるかのように、じんわりと広がっていく。


この一件は、宗介にとって、マオの持つ人間的な温度を初めて知るきっかけとなった。

彼の論理的な判断は、マオの行動の必然性を理解することができなかった。

しかし、宗介は、この夜、彼女の悲しみを体感した。

そして、その体感こそが、彼が今後、マオたち仲間を家族のように大切に思うようになる原点となり、彼らの絆をより強固なものにする感情の助走となった。

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