第2話 二度目の25歳

 湯気が、古いワンルームの天井でほどけた。

 電気ケトルの沸騰音は、前世の終わりと今世の始まりの境目を、律儀に刻むメトロノームみたいに聞こえる。


 私は机に座り、紙を二枚用意した。

 一枚目には大きく書く——奪われたもの。

 店、評判、信用、未来。

 もう一枚には——取り返すもの。

 真実、選択権、名前、そして生。

 最後に小さく、復讐と書いて線で囲った。これは“結果”であって“目的”ではない、と自分に言い聞かせる。復讐は甘いが、酔うからだ。


 スマホを開く。通知は十年前のルールで流れていく。アプリの配置も、言葉も、少し古い。

 編集部の共通アドレスから「本日午後、企画会議」のメール。

 番号登録されていない着信履歴——水無瀬玲奈。

 指先が、勝手に固くなる。


『初めまして。イベントプランナーの水無瀬です。黒瀬さんの記事、いつも参考にしています。短くで良いので、お時間いただけませんか?』


 声の記憶が、昨日(のはずの十年後)からそのまま引き継がれて耳の奥で鳴る。明るく、軽く、寄りかかるのがうまい声。

 私は返信を打った。


「本日十一時、表参道のカフェ・レユニオンで」


 送信。

 カーテンを開ける。春の光が、古い畳の傷の上に、やさしいふりをして落ちる。

 私は鏡の前で髪をまとめ、落ち着いたベージュのジャケットを羽織った。十年前の自分は、明るい色を選ぶ人間だった。今日の私は、その明るさの角を少し削る。


 出かける前にもう一度、紙に目を落とす。

 奪われたものの最後に、ペン先で点を打つ。

 そこに小さく、青い竜胆と書き足した。あの夜、最後に見えたもの。記憶が鈍らないように、棘の代わりに紙に刺しておく。


     ◇


 カフェ・レユニオンは午前の光に満ちていた。窓辺の席で、玲奈は既に待っていた。

 白いブラウス。襟元に小さなブローチ。髪は緩く巻いて、耳の後ろにかけている。

 立ち上がって、彼女は笑った。初対面の笑顔が、十年後のあの笑顔と完全に重なって、私の胃の内側をきゅっと縮める。


「黒瀬さんですよね。はじめまして、水無瀬です。勝手ながら、記事ファンです。——エッグベネディクト、好きですか?」


 彼女の前には、既に二人分のメニューが開かれている。選択の主導権をひっそり握る、いつもの手だ。

 私は微笑んで、メニューを返した。


「今日はコーヒーだけにします。話を聞きたいので」


「……仕事の顔だ」


 玲奈は少し肩をすくめ、すぐににっこりした。

「単刀直入に言います。私はイベントの仕掛け人です。食の世界には夢と金が同居しています。いい記事は、いいお客を呼びます。——黒瀬さんに、私の案件をいくつか書いてもらえたら、お互いに得をすると思う」


 彼女は“お互いに”を、ほんの少しだけ強くした。

 私は首を傾げる。

「たとえば?」


「三週間後、若手シェフのポップアップ。二十席限定。小さくて、熱のある夜にしたいの。記事で“場”をつくれる人にお願いしたい」


 ポップアップ。二十席。

 十年前、表参道の裏路地にある倉庫を改装したスタジオで、一夜だけの“伝説”が始まった夜があった。そこが、響が最初に大きく注目された場所。

 私は、手帳を開くふりをしながら、彼女の指を見た。タブレットに触れる手の甲に、薄い小傷。

 思い出に刺さった小傷と、同じところ。


「そのシェフの名前は?」


「まだ非公開。でも、ここだけの話——響 慎一郎。聞いたこと、あります?」


 心臓が一拍、意図的に遅れた。

 コーヒーの表面に、天井の光が揺れる。

 私は、軽く笑う。


「名前だけ。面白そうですね。条件を教えてください」


 玲奈は手慣れた調子で概要を伝える。メディア露出、ゲストリスト、スポンサーの意図。

 話の合間、彼女がふっと身を乗り出した。


「黒瀬さん。人の顔、よく見ますよね。あなたの記事って、皿の向こうに作り手の表情が浮かぶの。だから読者が動く。——ね、私たち、良いチームになれると思わない?」


 私たち。

 私は頷いた。

「チーム。いい響きです。でも、私は“距離”も大事にします。記事は、広告じゃない」


「もちろん」


 即答。

 その即答が、軽くて、うつくしい。それが彼女の強さであり、毒。


「では、詳細はメールで」


 席を立つ直前、玲奈がさらりと言った。


「そうだ。お店をやるなら——保険、絶対に忘れないで。夢には現実の裏打ちが要るから」


 指に触れる言葉。

 私は笑うのに少し時間がかかった。


     ◇


 編集部に向かう。

 薄暗いビルの三階。剥げた床、壁に貼られた過去の見出し。

 千堂匠は、ガラスの仕切り越しに電話で誰かを叱っていた。


「数字のための言葉は最終手段だ。最初の手段は、皿の上の事実だ」


 受話器を置くと、彼は私に顎で合図した。

「で、黒瀬。何を持ってきた?」


 私はプリントを差し出した。

 中目黒の小さなビストロ、春の菜花と鯖のコンフィの話。それと、近々流行る発酵バターの泡の話を絡めた短いコラム案。

 十年後、この泡が料理の現場だけでなく、大手の量販スイーツまで侵食することを私は知っている。


 千堂は黙って読み、ペン先で紙を叩いた。

「いい。扱いは小さくていいが、早い。君の文章は、走る」


「ありがとうございます」


「で、もう一つある顔だろう。言え」


 私は迷い、そして言った。


「三週間後、若手シェフのポップアップがあります。非公開です。彼は多分、伸びます。記事にする価値がある」


「名前は?」


「まだ言えません。私も正式に知らされていない。——信じて、ではなく、追ってください。現場で判断を」


 千堂はまなざしを細めた。

「踏み込みは甘いが、嗅覚は悪くない。……よし。現場に行け。だが、書く前に、一度俺に食わせろ」


 それは、懐かしい未来の言葉だった。

 私の口角が、自然に上がる。


「了解です、編集長」


「あと、黒瀬」


「はい」


「夢を持つ人間を見に行くときは、その人の周りも見ろ。夢の裾を踏む奴が必ずいる」


「肝に銘じます」


     ◇


 夕方、私はひとりで老舗フレンチの裏口に立っていた。

 名は言わない。十年前も、十年後も、ここは変わらず残る。

 仕込みの香り。ブイヨンの湯気、焼いた骨の香ばしさ。

 扉が開いて、相原瑛士が顔を出した。濡れた髪を無造作にかき上げ、タオルを肩にかけている。


「予約は?」


「ありません。取材の下見です。五分だけ、厨房の端を見せていただけますか」


 相原は私を一瞥し、靴先から頭まで、静かに視線を滑らせた。

 職業病の、観察の目。

「五分。邪魔するな」


 彼は扉を開け直し、私を通した。

 熱。

 金属の音。

 皿の上で、油が光を拾う。

 相原は迷いがない。塩の手、火の距離、客の口の中を想像している人間のリズム。

 私はメモを取らない。目で書く。


「君、記者か?」


「はい」


「ペンを持たずに来る記者は嫌いじゃない」


「ありがとうございます」


「何を見に来た?」


「誠実の味を」


 相原が、ほんの少しだけ笑った。

「なら、今日は外れだ。誠実は、仕込みの中に隠れてる」


「仕込みを見せていただきに来ました」


「五分、延長」


 たぶん、この人は、十年後の私の側に残る人だ。

 私は、胸のどこかで確信していた。理由はまだ言語化できないが、香りでわかることもある。


     ◇


 夜。

 帰り道、私は歩きながら未来の断片を拾い直した。

 玲奈の導線は、“頼れる参謀”の顔をして、常に中心へ向かう。中心が煌びやかであるほど、影が濃くなる場所を選ぶ。

 響の野心は、正面から見れば眩しいが、横から見れば薄いヒビが入っている。

 千堂の正義は、厳しいけど直線的だ。迷いがないぶん、狙われやすい。

 相原の誠実は、地味で、遅い。だが、腐らない。


 部屋に戻ると、机の上の二枚の紙の間に、三枚目を滑り込ませた。

 タイトルは——計画。

1. 玲奈の“仕事”を受ける。主導権は握らせない。

2. 千堂に“予告”だけを渡す。判断は現場で。

3. 相原に、最初の誠実を借りる。借りたら、返す。

4. 響とは、まだ会わない。——会わせられる場で会う。


 ペン先を止めたとき、スマホが震えた。玲奈からだ。


『黒瀬さん、さっきの件、関係者限定のテイスティングが来週あります。席、用意できそう。行きましょう?』


 来週。

 十年前の私が、最初に“彼”の料理に心を奪われた日よりも、少しだけ早い。

 予定を変えるのは、私だ。


「行こう」


 短く返信すると、すぐに既読がついた。

 そして一分後、もう一件。

 知らないアドレスからのメール。件名なし。本文は一行だけだ。


二度目は、失敗しないで。


 背骨の内側が冷える。

 再度送信者情報を見ても、空白。

 十年前の回線に、十年後の風が吹き込んだみたいに、画面だけがひどく新しく見えた。


 私はしばらく画面を見続け、やがて電源を落とした。

 言葉は刃物だ。

 鞘に戻すとき、指を切らないように。


     ◇


 テイスティング当日。

 倉庫を改装したスタジオは、白い壁と高い天井、剥き出しの配管。

 暫定のキッチン。臨時のコンロ。

 ステンレスの作業台の前に、若い男が立っている。白いコート。少し長めの前髪。

 響 慎一郎。

 十年越しの初対面(のふり)。

 彼は目で客席の温度を測り、静かな声で言った。


「こんばんは。今日は短い夜です。だから、短い嘘も、ひとつ」


 短い嘘。

 私は胸の中で、言葉を置き換える。

 短い嘘は、長い真実の前座だ。


 玲奈が隣で小さく囁く。


「ね、魅力あるでしょ」


「……そうだね」


 皿が来る。

 最初の一皿は、春の山菜のリース仕立て、柑橘と発酵バターの泡。

 十年前の未来が、目の前で初めて形になる。

 口に含む。

 泡がはじけ、香りが立ち、苦みが舌の奥で軽く手を振る。

 私は微笑む。

 覚えている苦みだ。だが、今は毒ではない。

 きっと、毒になる夜が来る。

 その夜に、私がそこにいるかどうかは——私が決める。


 響がふっと視線を上げ、客席のどこかと短く目を合わせた。

 その先に、玲奈がいた。

 まだ、何も始まっていない顔で、彼女は笑った。


 私のスマホが、膝の上で震えた。

 ポップアップの裏方チャット。

 見慣れないアカウント名が、一行だけ打ち込む。


乾杯、りお。


 喉の奥に、十年前の水が一瞬戻る。

 向かいの壁の白さが、わずかに遠のく。

 私は深く息を吸い、吐いた。

 顔を上げる。

 笑う。

 次の皿が来る。

 短い嘘の、次の一手。


(つづく)

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