あの日、私を殺した君へ
湊 マチ
第1話 最後の晩餐
オープン前の厨房は、低くうなる機械の音と、熱の匂いで満ちていた。
銅鍋の底で泡が細かく弾け、タイマーが短い呼吸のように鳴る。
レストランの名は L’atelier RIO。鏡面仕上げのガラスに映る金文字は、彼女の名——黒瀬莉桜(りお)——をそのまま冠している。
白い壁、落とした照明、テーブルの中央に小さく置かれた青い竜胆。
「幸運」の花言葉を選んだのは、イベントプランナーの水無瀬玲奈だ。大学時代からの“親友”。今日のために、彼女は席次表からメディア誘致まで完璧に仕上げてくれた。
「りお、ドアの外、行列できてる。インフルエンサーが三組、業界紙が二つ、ライフスタイル誌が三つ。ね、笑顔。今日はあなたの物語が始まる夜」
玲奈はタブレットを胸に抱え、笑ってウインクを寄越す。照明が髪を滑っていく。
莉桜はうなずいた。喉の奥に小さな石があるような違和感が、さっきから消えない。それでも笑顔の形は知っている。仕事で覚えた顔だ。
ガラスの向こう、厨房の奥で、響 慎一郎が火口に向かっていた。
天才肌の男だ。火を怖がらない手つき、躊躇のない塩の動線。莉桜は初めて彼の料理を食べた夜の舌の記憶を思い出す。どこにも引っかからず、なのに一皿ごとに景色が変わるあの感じ——あれが、彼に恋をした理由の半分だった。
「行こ、りお。乾杯の挨拶、料理の流れ、シェフの紹介。タイムラインは全て私の腕の中」
玲奈の細い指が、莉桜の手首を軽く叩く。
ホールへ出ると、柔らかい音楽と人のざわめきが波のように身体を撫でた。グラス、笑い声、フラッシュ。
業界紙「グルメタイムズ」の編集長・千堂匠も来ている。辛口で有名な男だが、目つきは誠実だ。視線が合うと、かすかに片手を上げた。
「黒瀬さん。店を持つのは記事を書くのと違う。祝福と同じ量の批判が、あなたの名前に刺さる。それでも、やるんだね」
「はい。食べた記憶は、人生の一部だと思うから」
「なら、おめでとう。——保険は入ってるか?」
唐突な一言に、莉桜は一瞬きょとんとする。千堂は薄く笑った。
「店の責任の話だよ。火災、怪我、客のアレルギー。夢には現実の裏打ちが要る」
「ええ。昨日、まとめて手続きしました。玲奈が段取って」
「いい参謀だ」
軽口の往復。だが「保険」という単語が、喉の石に触れた気がした。
莉桜は首を振り、笑顔に戻る。
壇上に響が現れた。
背筋を伸ばし、白いコックコートの袖を一度だけ整える。スポットライトが落ち、彼の輪郭に縁取りができる。
「今夜は来てくれてありがとう。L’atelier RIO は、私と——私の“パートナー”が作った、夢の場所です」
拍手。グラスの音。
その瞬間、響の視線がふっと横へ流れる。
ほんの、呼吸一つ分。そこに玲奈がいた。
莉桜は笑顔を崩さなかった。代わりに、手にしたシャンパンのステムをわずかに強く握った。
コースの一皿目が出る。春の山菜のリース仕立て、柑橘と発酵バターの泡。
舌の上に乗せた瞬間、微かな苦みが立ち上がる。よく計算された苦み。料理としての苦みは、主張せず、輪郭を締める役目を果たす。
莉桜は笑った。この苦みは、好きだ。
「りお、控室で一息つきなよ。次はメディアの写真撮影が続くから」
玲奈が耳元で囁く。
控室の鍵を開け、ドアを押すと、小さなテーブルに赤ワインが一本、予め抜栓され、薄い冷気と一緒に待っていた。
メモカード。
——“オープンおめでとう。あなたの名前に乾杯を。玲奈より”
グラスに注ぐと、果実の香りが軽やかに立つ。
ひと口。柔らかい。二口目、少しの渋み。
三口目、金属のような、微かに舌に残る後味。
外から、笑い声。
響の笑い声は、人を安心させるよう設計されている。厨房で、客前で、どこで出しても相手に「彼は余裕がある」と思わせる、そんな笑い。
莉桜はグラスを置いた。指先が震えた。緊張なのか、疲れなのか、よくわからない。
鏡に映る自分の顔は、今日のために磨き上げた35歳の戦う顔だった。
ノックもなく、ドアノブが小さく回った。
狭い隙間、覗いた影。
「大丈夫? 顔色、少し白いよ」
玲奈だ。彼女は室内に入らず、ドアの縁に指をかけたまま、心配そうな目を作る。
「すぐ戻る。ありがとう」
「うん。——あ、グラス、持ってく」
玲奈が軽く身を入れ、テーブルのグラスを手にした。
指先が滑らかにステムを回し、ワインの表面に小さな渦を作る。その指に、薄い傷跡。
莉桜は思わず視線を落としたが、すぐ顔を上げた。玲奈は笑って、グラスを差し出す。
「もう一口だけ、ね。勇気の一口」
勇気。
言葉が喉の石に触れる。
莉桜は頷き、唇をグラスに寄せる。
——少し、苦い。
控室を出ると、ホールの空気は一段と甘く、照明は少し低くなっていた。メディアの撮影が始まり、皿が運ばれ、スタッフが走る。
響の姿を探すと、彼は厨房の端で電話を耳に当てていた。短く、低く、事務的な声。
目が合う。彼は微笑み、片手で「あとで」と空中に書いた。
千堂が横に並んだ。
「いい夜だな、黒瀬」
「ありがとうございます」
「だが、いい夜は勘を鈍らせる。記事にするのは明日だ。今日は味わえ」
彼はグラスを掲げ、そのまま人の波に消えた。
ホールの奥からガラスの小さな割れる音がした。スタッフが慌てて片付け、笑いに紛れる。
莉桜は肩の力を抜こうと、深く息を吸った。
立ち眩み。
視界が、少し遅れて動く。
グラスの縁が広くなる。
音が遠い。
誰かが腕を取った。
「大丈夫、こっち」
玲奈の声。
身体が軽く持ち上がり、裏の通路に引かれていく。
金属の匂いが強くなる。厨房の匂いと、違う。
扉が開く音。外気の冷たさ。
足元に固い段差。
水の匂い。
「……響?」
「心配するな。すぐに楽になる」
低い声。聞き慣れた音色。
その声には、客の前に出るときの柔らかさはなかった。
莉桜は口を開いた。言葉が出ない。
喉の石が、重くなっている。
何かが、頬に触れた。冷たい。
世界が仰向けに反転する。
空の代わりに、濃い闇。
「乾杯、りお」
玲奈の囁きが、耳のすぐそばで弾んだ。
冷たさが胸を打つ。
肺の奥に、水が刺さる。
反射で身体が跳ね、喉が勝手に空気を探す。空気はない。
五味が壊れる。甘さも酸も消え、ただ“苦い”だけが残る。
——ほんとうに、苦い。
目の裏で、いくつもの皿が行進する。
春の夜、屋台で食べた鶏皮。
響の賄いで初めて食べた冷製の野菜スープ。
雨の日の、安いパンのにおい。
千堂の「保険」という言葉が、水の中で重く沈む。
意識が、細い糸で天井にぶら下がる。
切れそうで、切れない。
最後に見えたのは、青い竜胆だった。
花言葉は——なんだったっけ。
思い出すより先に、糸は切れた。
◇
目を開けると、朝の光が差していた。
天井のシミが、魚の形に見える。
鼻先に漂うのは、古い畳とインスタントコーヒーの匂い。
喉が痛い。胸が重い。身体が水を記憶している。
起き上がって、部屋を見回した。
狭いワンルーム。カーテンの端が日焼けして、色が抜けている。
机の上に、黄ばんだ雑誌の見本誌。脇に、見覚えのある黒いスマホ。ロック画面は、海。
画面の上部に、見慣れない通知のアイコン。
日付を確認する。
——十年前の春。
鏡の前に立つ。
見慣れたはずの顔が、少し違う。
頬のラインがシャープで、目の縁にまだ細かいひびはない。
口紅の色が、若い。
25歳の黒瀬莉桜が、そこにいた。
胸の奥で、冷たいものがゆっくりと熱に変わっていく。
指先が震える。
笑えるくらい、はっきりとわかる。
あの夜へ向かう線は、ここからもう一度引ける。
スマホが震えた。
見知らぬ番号。
出ると、快活な女の声が言った。
『初めまして。イベントプランナーの水無瀬玲奈と申します。黒瀬さんの記事、拝読して——ぜひ一度、お会いしたくて』
喉の石は、もう存在しない。
代わりに、よく研がれた刃が、静かにそこへ置かれた。
「もちろん。お会いしましょう」
声は落ち着いていた。
キッチンの片隅、古い電気ケトルが、カチリと灯った。
湯が、始まる。
二度目の人生の一口目は、苦みからでいい。
私は、それを覚えている。
(つづく)
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