第3話 偽りの友情

 午前四時、街の空気はまだ水分を多く含んでいて、軽い靄がコンビニの外灯を丸く滲ませていた。

 私は古いワンルームの机に紙を広げ、昨日書いた「奪われたもの/取り返すもの/計画」の三枚に、もう一枚追加した。タイトルは——毒見。

1.人ごとに違う嘘をひとつずつ配る(カナリア)。

2.どこからどこへ流れるかを地図にする。

3.その流路に、次の罠を置く。


 コーヒーを口に含む。熱は舌の端を走って、最後にわずかな苦みを落としていく。私は、その苦みが好きだ。苦みは、輪郭をくれる。


     ◇


 昼前、玲奈から共有されたポップアップの運営チャットには、十数人のアカウントが出入りしていた。スポンサー企業の担当、レンタルキッチンの管理人、フロアスタッフ候補、そして匿名に近い“関係者”。

 私はひとつめの嘘を投げた。

 ——「私、牡蠣アレルギーなんです。ケータリングに注意してください」

 これは玲奈だけに送るダイレクトメッセージ。

 二つめの嘘は、スポンサー担当に。

 ——「記事のタイトル案、編集長が全面改稿したいって言ってて」

 三つめの嘘は、フロアスタッフの連絡役へ。

——「会場に有名俳優が来るかもしれない。座席配置、柔軟に」


 どれも私の実害にならないが、相手にとっては動かしたくなる種類の餌だ。

 反応は早かった。スポンサー担当からは即座に電話。「全面改稿って、露出減るってことですか?」

 私は笑って宥め、言外に「記事の決定権は私ではない」という情報を置く。

 数時間後、スタッフのチャットに「芸能席」のレイアウト案が上がる。嘘は、脚を生やして走る。


 夕方、ポップアップ会場となる倉庫スタジオの下見に行くと、玲奈はすでに現場で動いていた。

 白いキャップ、黒のジョガーパンツ、手首に細いゴムの束。彼女の“仕事の顔”は魅力的だ。指示が早く、無駄がない。

 私は近づき、笑顔で声をかけた。


「玲奈。スタッフの導線、ここは逆回ししない? 客の視線が集中する時、影で補充する動きが被る」


「さすが、りお。見えてるね」


 玲奈は軽く頷き、すぐに配置転換の指示を飛ばした。その横顔を見ながら、私は彼女の耳の後ろにかすかに見える小さな擦り傷に目を留める。

 昨日のテーブルで見た指の小傷と対になる場所。神経質な人間は無意識に同じ場所を触る——私の記憶の中の玲奈もそうだった。


「ねえ、りお」

 動きを一段落させた玲奈が、空の会場中央でくるりと振り向いた。「保険の件だけど、臨時保険は私の会社で手配するから。主催者名義は“L’atelier RIO 準備委員会”でいい? あなたの名前も入れておこうか」


 喉の裏側で、冷たい鐘がひとつ鳴る。

 私は笑って、首を傾げた。


「名義は会場側でお願い。責任の所在は明確に。私の名前は記事だけにして」


「……そう。慎重だね」


 玲奈の笑顔に、薄い膜のようなものが一瞬かかった。

 その膜の下で、彼女は次のカードを切るタイミングを測っている。


     ◇


 キッチンの臨時コンロの前で、響が寸胴を覗き込んでいた。

 私が視界に入ると、彼は手を止め、穏やかな笑い皺を作る。


「黒瀬さん、先日はどうも。短い夜は、お好みでした?」


「ええ、“短い嘘”も」


「じゃあ、今日はひとつ、長い本当を」


 彼は鍋の縁を拭い、スプーンでブイヨンを掬ってこちらへ差し出す。

 香りの層が深い。骨、香味野菜、香草。意地の悪い尖りが一つもないのに、輪郭が鮮明だ。

 私は口に含み、鼻から抜いた。


「誠実」


「最高の褒め言葉だ」


 笑いながら、彼は袖口を一度だけ撫でた。

 私はその癖を心にクリップで留めておく。嘘の前に袖を整えるのか、本当の前になのか。まだ決めつけない。


「ところで、黒瀬さん。あなたの文章、走るね」


「あら、同じことを今日、別の人にも言われました」


「千堂編集長?」


「ご存じで」


「業界の地形は、料理と同じ。塩の利く場所、甘さの映える場所、苦みの似合う皿。君はそこを歩ける」


 彼の声は人をその気にさせるための温度を持っている。

 私は、微笑みだけを置く。


「今夜は、泡が主役?」


「先取りは、君の仕事だろ」


 響は冗談めかし、泡立て器を片手に取った。ステンレスのボウルの中で、発酵バターの泡が光を柔らかく跳ね返す。

 私は、最初の夜の舌の記憶を、苦みごと噛み締める。


     ◇


 下見の帰り、私は千堂に電話を入れた。

 オフィスの外の雑踏が受話器の向こうで広がる。


「編集長、会場は良い。熱が逃げない箱です。彼は客を信者にできるタイプ」


「食は宗教に似る。信者を作るやり方には二つある。救いを提示するか、罪を与えるか」


「彼は前者に見える。ただし——布教は、別の誰かがやる」


「誰だ」


「水無瀬玲奈。イベントの宣教者です」


「覚えた。で、黒瀬。お前は何になる」


「翻訳者。皿の言語から人の言語へ」


「いい。だが忘れるな。翻訳者は時に裏切り者だ」


 電話が切れると同時に、ポケットの中でスマホがもう一度震えた。

 差出人不明のメール。件名なし。本文は——


“青い竜胆”の意味は、正義。


 背筋に冷たいものが走る。

 返信はできない。送信元は空虚で、掴むと砂になる。

 私は、メモに一行を書き足した。

 ——青い竜胆=正義(誰の?)


     ◇


 テイスティング前夜。

 私は相原の店を再び訪れ、仕込みの合間に短い時間をもらった。

 彼は骨をオーブンに入れながら言う。


「顔が戦場の匂いだ」


「嗅覚が鋭いですね」


「君の靴が、いつもより静かだ。静かな靴で来る記者は、戦う気だ」


「……相談が一つ。味の嘘をどう見抜くか。瞬間の快感で上書きするタイプの皿」


「簡単だ。腹に聞け。舌は嘘をつくが、腹はつかない。翌朝、腹が笑ってるか、怒ってるか」


「翌朝、ですか」


「戦は長い。短い勝ちに飛びつくと、長い負けをもらう」


 彼は骨をひっくり返し、香りを確認する。その動作に、虚飾がない。

 私は、明日の自分の腹が笑うように、配役を整え直す決心を固めた。


     ◇


 テイスティング当日。

 倉庫スタジオの空気は、汗ばむほどの熱と期待で膨らんでいる。

 招待客のリストには、食通の編集者、人気ブロガー、そしてスポンサーの幹部の名。

 私は入場口で、玲奈と肩を並べた。


「りお、今夜は短い嘘はなし。全部、本気」


「うん。——ねえ、玲奈。あなたって、親友が多い?」


 玲奈が目を瞬いた。

 私の問いは唐突に見えたかもしれないが、投げる角度は綿密に決めていた。


「うーん。仕事柄、人脈は広いけど、本当に頼れるのは数人かな。りおは?」


「……一人。昔は、ね」


 玲奈は笑い、私の肩を軽く小突いた。

 その瞬間、会場の灯りが一段階落ち、スポットが臨時キッチンを切り取る。

 響が現れ、短い挨拶を終えると、皿が運ばれ始めた。


 一皿目。山菜のリース、柑橘と泡。

 二皿目。炭火であぶった鯖と春キャベツのエチュベ。

 三皿目。仔牛の胸腺のポワレ、焦がしバターとアーモンド。


 腹は、静かに受け入れている。

 私は小さく頷き、メモの端に「翌朝の腹」と書いて丸で囲んだ。


 中盤、スポンサー幹部が席を立ち、玲奈が素早く廊下へ誘導する。

 私はグラスを持って後を追った。

 廊下は機材置き場と非常階段がつながっていて、音が反響する。

 角を曲がる直前、玲奈の声が聞こえた。


「——だから、保険はこっちの名義で。もし何かがあっても、彼は傷つけない。彼には先がある」


 彼、は誰だ。

 響の名を、今は口にしない。

 私は壁の影に身を滑らせ、足音を殺す。スポンサー幹部の低い声は聞き取れないが、玲奈の声色は、説得のそれだ。布教者の声。


 玲奈が幹部をエレベーターへ送り出し、メイク直しをするふりで鏡に向かう。

 私は気配を消して踵を返し、別ルートからホールへ戻った。

 席に戻ると、私のグラスが新しいもので置き換わっている。

 香りが、ほんの少し違う。

 私は無表情でグラスを持ち、席を立った。

 会場の隅、照明の当たらない場所で、ハンカチにそっとワインを染み込ませる。

 ——毒見。


 戻ると、玲奈が私の椅子の背に手を置いていた。


「手が滑って、グラス割っちゃって。代えたから」


「ありがとう。……乾杯は、あとで屋上でしようか。空気が欲しい」


「いいね」


 彼女は笑い、指先で私の肩を軽く叩いた。

 その触れ方は、所有権のスタンプみたいに軽く、確かだ。


     ◇


 最終皿の余韻が消え、拍手が起き、夜がひとつの波を越えた。

 私は合図のメッセージを玲奈に送り、非常階段を上って屋上へ出た。

 空は都市の光で薄く白い。風が、汗ばんだ肌を撫でる。

 玲奈が現れ、手に小さなボトルを持っていた。

 ——ミニサイズのスパークリング。可愛らしいパッケージ。

 彼女は二つのグラスを鞄から取り出し、慣れた手つきで注いだ。


「りお。親友へ。新しい夜に」


 グラスが触れ合う音。

 私は口元に運ぶふりをし、風に紛らせて僅かに舌先だけを濡らす。

 泡の勢いの裏に、金属の尾がかすかに揺れた。


「……少し、苦いね」


「夜風のせいかな」


 玲奈は自分のグラスに口をつけた——ように見せた。液面はほとんど減らない。

 私たちは欄干に並び、下の街を見下ろした。

 遠くでサイレンが鳴り、別のビルの窓に宴会の影が揺れる。


「りお。私、思うんだ。成功する人には二種類いる。誰かの夢に乗る人と、誰かを自分の夢に乗せる人」


「あなたは?」


「後者。りおは?」


「……翻訳者だよ。乗るでも乗せるでもなく、渡す」


 玲奈が横顔で笑う。

 その瞬間、私のスマホが震えた。

 見知らぬアカウントから、短い一行。


“短い嘘”が終わるとき、“長い本当”が始まる。——R


 R。

 誰?

 相原でも、千堂でもない。玲奈でも、響でも。

 私は画面を閉じ、風を飲み込んだ。


「りお」

 玲奈が声を落とす。「守ってあげる」


 その言葉は、優しい。

 優しさは、ときに、鞘だ。

 刃物は、鞘に入っているときが一番よく光る。


「ありがとう、玲奈」


 私は空の泡を喉へ落としたふりをして、足元の影に視線をやった。

 非常階段の影、その中段に、誰かが立っている。

 上を見上げている男。細い顎、白いシャツ。

 響。

 彼は屋上の私たちに気づいて、軽く指を二本、額に当てる仕草をした。

 合図。

 玲奈の肩が、わずかに上下する。彼女は気づいている。気づいていて、何も言わない。

 この二人は、まだ“出会っていない”はずの時間で、目を合わせている。


 私は笑う。

 風が強くなり、グラスの泡が縁から少しこぼれる。

 青い竜胆の花言葉が、胸の内側で静かに反芻される。——正義。

 正義は、誰のものだ。

 少なくとも、今夜のそれは、私の舌の上にある。


「玲奈」


「なに?」


「あなたの夢、見せて」


「いいよ。りおも、全部見せて」


 彼女の「全部」は、私の「全部」とは違う意味だ。

 それでいい。

 私は、彼女の布教を学ぶ。

 次の夜、別の宗派を立ち上げるために。


 非常階段の影が消える。

 響は、下へ戻った。

 私はグラスを欄干に置き、玲奈の肩に軽く頭を預ける。

 彼女は驚かない。

 親友の仕草で、髪を撫でる。

 私は目を閉じる。

 短い嘘はここまで。

 長い本当は、ここからだ。


(つづく)

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