6章-第3話

ミヤビは椅子にもたれ、ぼんやりと机上の紙束を眺めていた。

思考はとりとめもなく漂い、先ほどまでの会話の余韻が胸に残っている。


――コツ、コツ、と。


不意に、規則正しいノックの音が響いた。


「……っ」


はっとして顔を上げると、扉の向こうに立っていたのは、落ち着いた笑みを浮かべるつづるだった。

彼は一歩部屋に入り、手にしていた分厚い封筒を差し出す。


「……ここにいたんですね」


ミヤビは受け取った封筒を見下ろし、首を傾げる。


「これ……何?」


つづるは微かに口元を緩め、しかし声音は淡々としていた。


「みやびについての情報、です」


その言葉に、ミヤビの鼓動が一瞬だけ強く打つ。

封筒の紙質はざらつき、妙に重い。まるで中身まで、ただの文書ではないと告げているようだった。


「なんで……?」


つづるは小さく笑った。だがそれは愉快さではなく、どこか憂いを含んでいた。


「読むかどうかは、あなたの自由です。

ただ、あなたが今後どこへ向かうにしても、この中身を知っておいた方がいい」


ミヤビは視線を封筒に落とした。

指先に伝わる重みが、急に息苦しさを連れてくる。


「……つづる。これを私に渡すってことは、あなたも、私がみやびじゃないって知ってるんだ?」


彼は一瞬だけ目を細め、軽く肩をすくめた。


「ええ、知ってますよ」


ミヤビは、封筒を握りしめたまま、つづるを見つめる。


「いつから……? いつから知ってたの」


つづるは静かに目を伏せる。


「さあ、いつからでしょうね。みんなが言っている通り、一目見たときからかもしれないし、あるいは何かのきっかけがあったわけでもなく、気づいたら……といったところかもしれません」


その言葉は、まるで煙のように掴みどころがない。


「……はぐらかさないで。ちゃんと答えて」


ミヤビのはっきりとつづるの目を見る。


「はぐらかしているつもりはありません。

ただ僕がいつから知っていたかなんて、そんなことは重要じゃない。大切なのはこの先どうするのか、ということだ」


彼はまっすぐミヤビの目を見て、淡々と言葉を紡ぐ。

ミヤビは返答に詰まった。つづるの言う通り、彼がいつから知っていたかを知ったところで、何が変わるわけでもない。

つづるは、そんな心の内を見透かすように穏やかな笑みを浮かべた。


「僕が知っていた期間の長さよりも、僕がなぜ今これを渡したのか。そちらの方が、きっとあなたにとって有益な情報ですよ」


そう言って、つづるは再び部屋の扉へと向かう。


「……待って」


ミヤビの声に、彼は振り返らなかった。


「楽しみにしていますよ、異端の魔女」


扉が静かに閉まり、部屋には再び静寂が訪れる。

ミヤビはずしりと重い封筒を前に、ただ立ち尽くしていた。


ーーーー


ミヤビは、封筒を握りしめたまま机の前に立ち尽くしていた。

ざらついた紙の感触が、指先に生々しく残る。開けるべきか、開けないべきか――葛藤していると、不意に扉が開く音がした。


「ただいま戻ったわ」


軽やかな声とともに、みちるが入ってきた。

彼女はミヤビを見つけると眉を下げて駆け寄る。


「ごめんね、呼び出しておいて待たせちゃって」


ミヤビはハッとして、慌てて封筒を机の端に隠すように置いた。


「……いや、待ってないよ」


ぎこちなく笑ってみせるが、みちるは気づかぬ様子で隣に腰掛けた。

だが、その視線は机上の封筒に吸い寄せられる。


「ねえ、その封筒、なに?」


隠しきれなかったらしい。ミヤビは諦めて、正直に答えた。


「……みやびについての、情報だって」


その瞬間、みちるの顔から笑顔が消え、呆れたように息を吐いた。


「つづるの仕業ね。ホント、性格悪いんだから」


ため息混じりに呟くみちるに、ミヤビは目を丸くした。


「なんだ……疑問に思わないんだ?」


自分が自分についての情報を持っているのに、みちるは怪しみもしない。

まるで最初から、つづるがそうするだろうと知っていたかのようだ。


「……疑問に思うことなんて、なにもないわよ」


そう言って、みちるはどこか寂しげに笑った。


「知りたいんでしょ? みやび……『この世界のみやび』のこと。普通のことじゃない。まあ、私は知りたいオバケだから、共感してるだけの話かもしれないけど」


ミヤビは返す言葉を見つけられなかった。


「……じゃあ、みちるは……私が『みやび』じゃないって、いつから知ってたの?」


みちるはふっと息を吐く。


「いつから、かしら……。最初からあなたはあなただったから。ねぇ、ミヤビ」


彼は真っすぐな瞳で見つめる。


「あなたがミヤビであることに、変わりはないじゃない」


その言葉は、まるで呪文のようにミヤビの心を静めた。

彼女は封筒をそっと机に戻す。だが、その本当の意味を理解するには、まだ時間がかかりそうだった。


「ごめんなさい、話が逸れちゃったわね。本題に入りましょうか」


みちるは笑顔に戻るが、その奥で別の感情が揺れているのをミヤビは感じた。

彼は一瞬視線を落とし、軽く唇を噛んだ。


「みんな、本当は……元の『みやび』に戻ってきてほしいって願ってると思うの」


ミヤビの胸がざわめく。


「大好きな人にまた会いたいだけ。いくらあなたが私たちを救ってくれたとしても、私は……元の『みやび』が好き」


その言葉は、痛みよりも確信を与えるものだった。

ミヤビは一瞬、封筒に視線を落とし、自分の存在がこの世界にどんな意味を持つのかを考えた。


「……そうだよね。私もそう思う。だって、元々そういうお話だし」

「……え?」


みちるは、ミヤビの意外な返答に目を丸くする。


「親を亡くした村娘のみやびは、村で虐められていた不遇の立場から、イケメンたちに溺愛されて、人生と自尊心を立て直していくストーリーだもん。

私が感情移入して、気持ちよくなるために作って、投げ出した物語」


それは、彼女自身の物語であり、強い意志の現れでもあった。


「だからみんなはみやびのことを溺愛してるし、みやびもまた、みんなのことが好き……なはずなんだよ。それがねじ曲がってしまった。……いや、ねじ曲がるようなことを、私がしたんだ」


彼女はどこか遠い目をして、話を続けた。


「だから、私は元の物語に戻したい。みんなの気持ちに応えたい。それが私にできる唯一のことだから」


みちるはしばらく見つめたのち、小さく笑った。


「分かったわ。それがあなたの望みなのね、異端の魔女様。ならば、ご意向のままに」


だがその笑みは、どこか寂しさを帯びていた。


「……みちる?」

「大丈夫。私たちは、あなたの味方よ」


彼は立ち上がる。


「さぁ、夜も遅いし、部屋まで送るわ」


二人は静かに廊下を歩いた。足音だけが冷たく響く。


「夜遅くまでありがとう、みちる」

「いいのよ。こんな時こそ、誰かと話すのが一番だから」


扉の前で、みちるは振り返って微笑む。


「じゃあ、おやすみなさい、ミヤビ。何かあったらいつでも呼んでね」

「おやすみなさい、みちる。ありがとう」


扉が閉まり、みちるの姿は廊下の奥へ消えた。

ミヤビは机の封筒を見やり、深呼吸をひとつ。

だが、今はまだ開ける気になれなかった。


窓の外には静かな夜空が広がり、星の光が淡く部屋を照らしていた。

ミヤビはそのまま窓辺に立ち、遠くの星を見つめながら、自分の物語とこれからを静かに思った。

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