1章-第1話
再構築された書物のページが風にめくられると同時に、構成者の書庫は眩い閃光に包まれる。
光の奔流がミヤビとかけるを呑み込み、次の瞬間、彼女たちはかつて彼女が筆を握った、あの物語の世界に戻っていた。
深い森林の中に立つ、古い小さな一軒家。
ここは村娘であり主人公でもある彼女の家だった。
「とりあえず帰っては来れた……と」
ミヤビは未だ意識のないかけるを抱き抱え、家の中へと入る。
家の中は、まるで時間が止まっていたかのように、かつてのままの姿を保っていた。
木の床は乾いて埃をかぶり、棚に置かれた陶器にはうっすらと灰色の膜が張っている。
けれど不思議と空気は澱んでおらず、窓から差し込む木漏れ日が温かく、ここが帰るべき場所であることを静かに告げていた。
「……ごめんね。もう少しだけ、辛抱してて」
ミヤビはかけるをそっと寝台に横たえ、その額に手を当てる。
熱はなく、呼吸も安定していたが、彼のまぶたは閉じられたまま動く気配を見せない。
ミヤビはかけるの穏やかな寝顔を見つめながら、この家での日々を思い出していた。
ここで彼は、ミヤビが作った主人公と出会い、恋に落ち、冒険へと旅立っていく。
しかし、今はどうだ。平和な寝顔とは裏腹に、彼の命はあの広場で一度、失われかけたのだ。
それはミヤビが書いた筋書きにはない、異物のような痕跡だった。
だが、それでもミヤビは戻ってきた。以前のものではない。歪められ、書き換えられ、破綻しかけた世界。
そして何より、そこには『本来の主人公』がいない。
「まずは、あの子を探さなきゃ……」
その時、不意に扉の外から鳥の羽ばたく音がした。
「……?」
警戒しながら扉を開けると、そこには一羽のカラスが止まっていた。
口には、どこかで見覚えのある白い封筒をくわえている。
「……手紙?」
ミヤビが手を伸ばすと、カラスは素直にそれを手渡し、読めと催促するように翼を広げる。
封を開けると、どこか堅苦しくも端正な書体で綴られていた。
《至急通達》
貴殿の帰還は宮廷においても確認済みです。
陛下はすでにそのことをご承知であり、速やかなる参内を命じられています。
貴殿が放った魔法により、聖教信者、宮廷騎士共に多数の行方不明者が出ております。
その原因と予後について、王宮としても確認が必要であると判断しております。
ご承知の通り、貴殿は“異端”として指名手配の状態にありますが、今回に限り、王命により保護対象とすることが決定されました。
速やかに王都へ向かわれたし。
王宮筆頭賢者
「……異端、ね。まあ、否定はしないけど」
ミヤビは苦笑しながら手紙を折り畳み、視線を寝台のほうへ戻した。
「っ……ん……」
小さなうめき声。かけるの体が少しだけ動いた。
「……かける!」
駆け寄ると、かけるのまぶたがゆっくりと開き、焦点の合わない瞳が揺れていた。
何かを探すように、あるいは悪夢から抜け出そうとするかのように。
「……みやび、か……?」
「うん。よかった、意識が……」
「……あれから……俺、どうなったんだ……?」
声にはかすかな震えがあり、体の動きもまだ弱々しかった。
ミヤビは彼の手を取って、ゆっくりと説明しようとした。
「……あいつらに捕まって……あの場所で……何日も、縛られて……訊かれて……『お前は神に従っているか』『魔女に協力したか』……」
「かける、それ以上は」
ミヤビの言葉を遮って、かけるの唇からこぼれたのは、彼自身の記憶の断片だった。
小刻みに体が震え、額には脂汗が滲んでいる。
「でも、誰も助けてなんてくれなくて……いや、来てくれたんだ、お前が。最後に見えた、白い光と、お前の……声……」
その瞳には、恐怖と安堵とが入り混じったような色が宿っていた。
ミヤビは、もう一度そっと額に手を置く。
「大丈夫。もう大丈夫。ここは安全。もう、誰もあなたを傷つけたりしない」
ミヤビはもう一度彼の手を握る。その手は酷く冷たく震えていた。
かけるは呼吸を整えながら、ミヤビの目を見ている。
「ここはどこなんだ?」
「二人で過ごした前の家。とにかく、ここなら休める」
「……わかった」
ミヤビはそう告げてから、少し躊躇って言葉を継ぐ。
「ただ……王宮から呼び出しが来たの。私に会いたいって、賢者様が言ってる。国王陛下直々に、って」
「随分な大物たちに呼び出されるな。大丈夫なのか?」
「おそらくは。けど、行って確かめる必要がある」
かけるはゆっくりと身を起こし、ミヤビの手を握った。
「……なら、俺も行く。どうせ静かにしてても、またどこかで狙われる。お前のそばにいる方が、たぶん一番安全だ」
「無理しないで。まだ完全には───」
「ミヤビ。俺は……もう、あの台の上に戻りたくないんだ」
かけるはミヤビの手を握る手にぐっと力を込めた。
その表情は一瞬、恐怖に歪んだが、すぐに強い意志を宿した瞳でミヤビを見つめる。
「分かった。じゃあ今から出発しよう。こういうのは早い方が良いし」
「そうだな。少し待っててくれ」
かけるはゆっくりと立ち上がり、体中を見回した。
そしてゆっくりとストレッチするように体を伸ばす。
「すごいな。こんな短時間で完治する回復魔法なんかみたことねぇよ」
「そりゃあ私だもん、これぐらいはできて当然? みたいな?」
ミヤビは適当言って誤魔化す。
かけるは少し目を丸くしたが、それ以上は何も尋ねなかった。
「……そうか。ありがとう、みやび」
彼の口から出た感謝の言葉は、どこか遠慮がちに聞こえる。ミヤビは、彼の心がまだ聖教の呪縛から解き放たれていないことを感じ取った。
「とりあえず、出発の準備をしよ。賢者様が迎えに来てくれるとはいえ、王都までは長い道のりになるから」
ミヤビは戸棚から古い革袋を取り出し、必要なものを詰め始める。食料になりそうな干し肉や、水筒、そして地図も入れた。
かけるもまた、部屋の隅にあった、いつのものか分からないぐらい使い込まれた革鎧と短剣を見つけ、身につけようとする。
「待って。その剣は……」
ミヤビはかけるの手を止めた。
しかし彼の剣は、聖教に捕らわれた時に全て奪われてしまった。武器という武器はない。
「武器が無いとお前のこと守れねぇじゃん」
かけるの寂しげな横顔に、ミヤビは胸が締め付けられる思いがした。
何とかせねば、そう思い逡巡する。するとあることを思い出す。
「あ、そうだ。ならこれを使って」
ミヤビはそう言うと、戸棚の奥から、一本のレイピアを取り出した。それは、彼女がこの物語で村娘に持たせようと考えていた武器だった。
刃は銀色に輝き、柄には繊細な装飾が施されている。
「これは……すごいな。俺なんかが持っていいのか?」
かけるは躊躇いながらレイピアを受け取った。
「うん、多分かけるならきっと使いこなせる」
かけるは何も答えなかったが、その顔にははっきりと決意の色が浮かんでいた。
彼はレイピアを腰に差し、ミヤビの隣に並ぶ。
「行くか。……王都だっけ?」
ミヤビは力強く頷いた。
家の扉を開けると、先ほどの手紙を運んできたカラスが、まだ近くの木の枝に止まっていた。カラスは二人の姿を確認すると、鳴き声を一つ上げて、王都の方角へと飛び立っていく。
「案内役……みたいね」
ミヤビは微笑みながら、かけると連れだって森の道を歩み始めた。
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