源あおい 編

第1話 それは突然のこと

 二〇五〇年五月三日。大型連休の半ばで、浮ついた声が街を包み込んでいた。そんな中、みなもとあおいは、浮かない顔をしながら狭いマンションの一室で小さなスーツケースを閉じた。


 源あおいの家では毎年、このゴールデンウィークに帰省をしている。


 父と母はいつも通りに穏やかな表情を浮かべて、あおいの様子を見ていた。兄は部活動の都合で一緒に帰省はしないものの空港で見送りをするという。そのため、あおいたちのフライトは朝の時間に設定されていた。


 一見すれば何の変哲へんてつもない一家だった。その幸福は、誰から見ても疑いの余地のないものに見えた。


 マンションから水鳥みずとり駅までは二十分程度の道のり。空港行きの電車が乗り入れるその駅は、早朝にもかかわらず人であふれ返っていた。


 水鳥駅のホームには、同じような幸福を抱えた家族が無数に列を形成していた。スーツケースやリュックを持ち、旅程りょていを確認する声や笑い声がホーム全体に溢れていた。あおいもその列に並び、電車の到着とともに人の波に押し込まれるように車内へと入る。


 無遠慮むえんりょな肩が何度も触れ、誰かが舌打ちをするが、そんなことは気にも留めなかった。そして——異変は突然起こった。


 急に甲高い金属音が突き刺さると同時に電車は激しく揺れ、ブレーキの悲鳴を上げながら急停止した。そしてどよめく人々は悲鳴をあげる間もなく、車体はまるで巨大な手につかみ上げられたかのように宙へと持ち上げられた。


 次の刹那、電車は線路に叩き付けられた。鋼鉄同士が潰し合う衝撃音と共に、乗客の身体は骨ごと砕け、その血肉が無残な破片となって車内に飛び散った。誰かの腕が、異様な方向に折れ曲がって窓へ叩きつけられる。形が残っているのはまだ良い方である。誰のかもわからぬ臓腑ぞうふがその場に散らばり、転がった頭部は壁に激突した。


 またたく間に狭い車両は肉と血の泥に塗れ、あおいの小さな身体もまた、その中へ巻き込まれていった。


 痛みも悲鳴も感じる間もなく、一瞬で視界は赤黒く染まり、やがて完全な闇に沈んだ。



 ◆



 あおいが再び目を開いた時、そこには無機質な白い天井が広がっていた。遠くで誰かの足音が忙しなく響いている。


「……ここは……?」


 あおいが目覚めたことに気付いた看護師が慌ただしく医師を呼び、形式的な検査が淡々と行われる。あおいの身体には、擦り傷一つ残っていなかった。そして医師はあおいに問うた。


「お名前、分かりますか?」

「源……あおい……です」

「何が起きたか、覚えていますか?」


 その言葉に、あおいは口を開くことすらできなかった。何故自分が病院にいるのか、その記憶だけが、跡形もなく消え失せていたのだ。


 やがて数日が過ぎた。


 身体はどこにも異常がないと言われ、検査も全て問題なしと告げられたにもかかわらず、退院の許可は降りなかった。理由もなく続く入院生活は、あおいにとっては退屈以外の何ものでもなかった。


 その間、家族の姿を見ることは一度もなかった。看護師に尋ねても、皆一様に視線を逸らし、曖昧な返事すら残せずに逃げるように去っていった。


 そんな態度を見ていると、あおいの胸の奥で、得体の知れない不安だけが静かに形を帯びていった。


 ある日、あおいは理由もなく病院の待合室へと足を向けた。何かを期待したわけではない。ただ、病室にいても何もできないから、少しでも他の空気を吸いたかったのだろう。


 薄いピンクのソファに腰を下ろすと、壁掛けのテレビを見た。テレビは昼のニュース番組を映し出している。


水鳥鉄道爆破事故みずとりてつどうばくはじこから二週間が経っていますが、未だ水鳥線みずとりせんの運転は再開していません。現時点で死者は二百人を超えており——』


 字幕に映し出されたその言葉を目にしたあおいは、ぽつりとその言葉を繰り返すように言った。


「水鳥鉄道……爆破……事故」


 自分はこの事故に巻き込まれたと。


 それは、ニュースを目にした瞬間に理解できた。となれば、入院期間中に一度も顔を見せなかった家族が、どのような状況にあるのか考えるまでもなかった。


 看護師たちが口ごもり、背を向けていった理由も併せれば、何となく察しがつく。


 あおいの家族は既に故人である可能性である。あおいは静かに崩れ落ちた。



 あれから、八年。

 二〇五八年、世界は戦火に包まれた。


 空は黒煙こくえんに覆われ、地は瓦礫がれきと枯れた木々で埋め尽くされ、海はよどみ、魚がぷかぷかと浮かんだ。数億、数十億の命が、わずか数ヶ月で塵芥ちりあくたのように消えていった。


 むしろ生きていることの方が不自然だとさえ思える、そんな世界に変わってしまったのだ。


 そんな荒廃こうはいした地に、あおいはただ一人、立ち尽くしていた。


「私は、どうして生きているのだろう」


 答えを返す者はどこにもいない。ただ、何もなくなった世界だけが、静かに彼女を取り囲んでいた。



 ◆



 次の瞬間、あおいは白い天井を見上げていた。


「……ここは……?」

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