第21話 りんのこと

 二刻ほどの空の旅。

 辺りはすっかり明るくなっていたが、天狗の里は深い霧に包まれていた。その縁が円を描くように、時折赤や青に輝く。

 見ている分には美しい。だが直下では、鬼と天狗の激闘が繰り広げられていた。

 そして空の遥か上でも稲光が走り続けていた。

 

「おりん様、ここより結界の中に入ります。おりん様の霊力があれば大丈夫だと思いますが、辛いようであればお声がけください」


 白露によれば、天狗の里は霊峰の中にあり、並の人間にとっては息をするのも苦しい地らしい。


 思わず息を止めたりんだったが、恐る恐る吐き出し、ゆっくりと冷たい気を吸い込んでいった。


 濃密な何かが、とろりと鼻の奥へ流れ込む。でも、苦しくは無かった。

 じわじわと身体に溶け込んでいく感覚に安堵する。それはやがて清涼感となり、力が漲るのを感じた。



 音も無く静かに、輿は地に降り立った。

 引き戸を開くと目の前に大きな屋敷が聳えていた。圧倒されて動けぬりんへ、白露が手を差し伸べる。


「おりん様、こちらへどうぞ」


 足元の緋毛氈を見て、りんの胸がざわりとした。


 なんだろう、この気持ちは?


 緋毛氈、美しい雪洞が飾られた廊下を見れば、祝事があったとわかる。


 婚礼……もしかして、銀星さんの……


 そう心の中で言葉にすると、余計に胸が苦しくなった。


 私、お兄さんが別の人と結婚するのは嫌だと思っているみたい。でも、どうして?


 思い出の中の銀星は、りんにとって大切な存在だったことは確かだ。でも、実際に会ったことは数えるほどしかなく、淡い恋心を自覚するには、当時のりんは幼すぎた。


 私ったら、何を期待していたのかしら。


 自分で自分の感情に驚き、気恥ずかしくなって頬を染めた。


 だが、そんな感傷的な気持ちは、広間の惨状を見て吹っ飛んだ。


 揺らめく光の中に横たわりビクとも動かない銀星。並んで寝ているのは銀星の母親の紫姫。

 その周りをぐるりと取り囲む黒装束の天狗達に向かって白露が頭を下げた。


斬鉄ざんてつ様、おりん様をお連れしました」

「白露よ、ご苦労であった」


 白露に労いの言葉を掛けてから、年嵩の男が向き直った。鋭い視線に貫かれて、りんはその身を固くする。


「よくぞお越しくださいました。おりん様、いえ、倫姫みちひめ様」


倫姫みちひめ!?」


 驚きでぽかりと口を開いたりん。慌てて手を振り否定する。


「あの、何かの間違いでは? 私は姫では無くて、江戸に住む貧しい町娘です」


「その面差し。清光きよみつ様にそっくりでいらっしゃいます。間違いありません」


 先代頭領の側近であった斬鉄は、雷傅の頭領継承後も常に鬼の襲撃を食い止めてきた歴戦の士であった。

 当然、りんの父親の死の現場へも駆けつけていた。


「私、父のことは良く覚えていないんです。あなたは私の父のことを知っているんですね」


「はい、存じ上げております」


 深々と頭を下げた斬鉄が続けた。


「倫姫様のお父上は様です。銀星様の母君である紫姫様の弟君であり、江戸の天守様の弟君であらせられます。ですが……謀反の恐れありと、底倉(箱根町)の地にて幽閉されていました」


「天守様の弟……幽閉……」


 思もかけぬ話にただ驚くことしかできない。りんは目を見開き、斬鉄の言葉を繰り返した。


 そして気づく。

 印籠の文字『 清 倫 葵 女 光 』

 葵は徳川を表し、清光の娘、倫と読み解けることに。


 母さんはなぜ、私にちゃんと話してくれなかったのかしら。

 それに最期の時、父さんは私を『おりん』と呼んでいた。決して『倫姫』とは呼んでいない。


 謎が謎を呼び、俄には信じられなかった。


「私の記憶では、父も母も私のことを『おりん』と呼んでいました。それから、父は恐ろしい目玉のお化けに殺されて」


 話しながら、がたがたと震えが止まらなくなった。数刻前の恐怖も蘇り、真実を知ることが怖くなる。


「倫姫様のお母上は、幽閉中の清光様の身の回りの世話をしていた市井の出の方でした。幽閉の身、身分違いの恋。お二人の関係は当然周囲に秘され、おりん様の存在も」


 ああ……私は存在してはいけなかったのね。だから母さんは、真実を話さず、女手一つで育ててくれたんだわ。


 すとんと腑に落ちた。


 それでも、自分は大切に育てられたと信じることができた。


 だって……父さんは私を庇って死に、母さんは私に普通の幸せをくれたんだから。


 震えが止まった。真っ直ぐに斬鉄を見つめ返す。


「おりん様が幼い頃に、幕府の手の者により襲撃を受け、清光様は亡くなりました」

「え、幕府の手の者!」

「はい。実際に手を下したのは天守様の隠密。ですが、それを扇動したのは鬼でした」

「鬼……じゃあ、あの目玉は」

「はい、鬼の邪念です」

「私には、目玉しか見えなかったんですが」

「それは恐らく、おりん様の持つ霊力ゆえかと」

「霊力……自分ではよくわからないけど」

「この里で普通に息が吸える。それが証でございます」


 そう言えば、天狗の里に降り立つ前に、白露が同じようなことを言っていたと思い出した。


「実は私、少し前にもあの目玉に襲われたんです」

「なんと! よくご無事で」

「助けてもらったんです。風が守ってくれて、この玉簪が火を吹いてやっつけてくれました」


 その言葉に、斬鉄の視線が銀星へ向いた。確信したように頷くと、おりんへ再び頭を下げた。


「おりん様、我々の願いをお受けいただけないでしょうか」


 斬鉄は続けて、鬼と天狗の攻防と密約のこと、銀星とこの世の危機について包み隠さず語った。

 その上で、りんの力が必要なのだと乞いつつ、相反する言葉も。


「ですが……おりん様の霊力をいただけば、おりん様の命が削られるやもしれません」 


 斬鉄の誠実さが滲み出ていた。


 とは言っても、りんにとっては青天の霹靂。いきなり命の危険を賭して力になって欲しいと言われても、直ぐに頷くのは難しい。


 意識の無い銀星を見つめながら、無意識に紅島瑪瑙の玉簪を握り締めていた。

 それを見た白露、耐えかねたように頭を下げた。


「おりん様、申し訳ございません。その玉簪は銀星様がおりん様に差し上げた物です」

「えっ、銀星さんが!? でも私、銀星さんとは幼い頃に会っただけで」

「私が記憶を消しました」


 絶句するりん。搾り出すように「なぜ」と問いかけた。


「それは……」

「鬼の襲撃を防ぐためです」


 白露の言葉を引き取って、斬鉄が説明する。

 

「鬼の天敵である我々天狗との縁が濃くなればなるほど、鬼の気脈と通じやすくなります。つまり、鬼の標的にされる危険が高まるのです。ですから、記憶を消すことにより襲撃を防いだ……のですが、結局おりん様は鬼に襲われてしまいました。我らの力不足、申し訳ございませんでした」


「……記憶は戻せますか?」

「それは難しいです」

 

 消すだけ消して戻せないなんて、酷い!

 いくら鬼の襲撃を避けるためと言っても、大切な思い出を消されたなんて嫌だわ。

 

 心のうちでは怒りが爆発していた。それでもりんは、彼らを責めることはできないと思った。長い年月、身を犠牲にしてこの世を守ってきたことを知ったから。

 

 それに、あの時私を護ってくれたのは銀星さんだったのね―――


 どんな顔してこの玉簪をくれたの?

 私はどんな顔して受け取ったの?


 思い出せなくて悲しくなる。


 それでも……


 ふうっと息を吐くと白露を見つめた。


「白露さん、大丈夫です。私、きっと思い出せますから」


 白露がくしゃくしゃの顔で頭を下げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る