第2話 拾い人
一筋に立ち昇る白い煙が、ふわりと崩れた。
風、かしら?
母さんが還ってきてくれたんだったらいいのに……
叶わぬことは、目の前の骨壺を見れば明らかだ。長患いの母が亡くなって十日。
何も手につかない。
母一人
江戸の長屋は面倒見の良い連中が揃っているから、暮らしていく分には何とかなると思っている。
でも、大好きな人と二度と語り合えない寂しさは、心にぽっかりと穴を開け、深い暗闇へ飲み込まれてしまいそうだった。
「母さん……母さん……」
弔問客の前では堪えていた涙が一気に溢れ出す。
このまま溶けて消えてしまいたい。
心細さにどうしようもなく沈み込む。
ガタッ
物音にハッと我に返った。
どこから!?
ガタッ
再び同じ音。
物盗りかしら?
どうしよう!
慌てて出入り口の突っ張り棒を確認しに行く。
手を掛けぐっと押し込んだ時、木戸の向こう側から微かにうめき声が聞こえた。
気のせい……かしら?
耳を押し当て澄ます。
伝わってきたのは深々と冷え渡る夜の気配、だけでは無かった。
「うぅぅ……」
低くくぐもった小さなうめき。
誰か倒れているみたい。多分男の人。
怪我しているのかな。でも、私一人じゃどうにもできないし。放っておいて死んじゃったらどうしよう。ううん、弱ったふりして襲ってくる危険だってあるんだから、油断しちゃだめだわ。
でも、もし朝起きてこの人が死んじゃってたら……
背筋をすうっと冷気が走る。
今日は殊更冷えるわね。
迷っているとまた、小さくうめく声。
本当に苦しそう。絶対に悪い人じゃ無いわ。
何の証もないけれど、己の直感に素直に従った。思い切って支え棒を外して再度耳を澄ます。
そろりと木戸を引き開ければ、ひゅうと冷たい風がなだれ込む。ぶるぶる震えなが見やると、暗闇にうつ伏せる大きな身体。
予想外の大きさに肝を潰しそうになった。しばらく固まってから一歩、また一歩。覚悟を決めて耳元に囁いた。
「あの、良かったら家の中で温まりませんか?」
なんとも間が抜けた誘い文句だと自分でも思ったが、他になんと言えば良いか思いつかない。けれど、悩む必要も無いと悟った。
反応の無い相手。凍える寒さに焦りが募る。
とにかく、中に入れないと!
男の手を掴み、うんしょ、うんしょと引きずり込む。
お、重いっ。
それでも諦めずに、ずるずる、ズリズリ。
後押しするかの如く、寒風がぶわっと巻き上がり男の身体を吹き飛ばした。
「きゃっ」
その勢いで尻餅をつく。
「う、うぅん……」
男が薄目を開いた。
急いで木戸を元に戻してから声を掛ける。
「大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」
「うぅん……腹……減ったぁ」
竈門でコトコト。
鍋が音をたて、湯気を吹いている。
温かいな。
男がゆっくりと目を開けると、一番に飛び込んできたのは土間で座り込むまん丸い背中。薄暗い行灯の光の中で微かに動いている。
何してるんだろうか?
いや、それよりも、ここは何処だ?
いや、もっと重大なこと―――変身術は解けてないよな。
ガバリと起き上がって自分の身体を見回した。
町人風の髷に服装。この分なら、金の瞳は漆黒に染まっているはず。天狗とはバレまい。
そこまで確認して、銀星はほうっと安堵の息を吐いた。
「あ、目が覚めたんですね。良かった」
くるりと振り向いた娘は、年の頃十七、八ほどか。細身で小柄だが、くるくるとよく動く瞳と口元が愛らしかった。
「すまない。世話になってしまったな」
「そりゃ、びっくりしましたけど」
娘は山盛りの飯とほかほかの汁物をどんぶりになみなみとよそると、銀星の横へと運んで来た。
「お腹、空いてるんでしょ。大したものはないけど、良かったら食べて」
返事をするより先にぐうぅっと腹が鳴って、なんともばつの悪い顔で頭をかく銀星。
「あはは、お腹は正直ね」
屈託なく笑うと、銀星の手に箸を握らせてくれた。
「遠慮しないでいいんだから」
「すまない。金はちゃんと持っているんだ。ただ、何だか知らないんだが、食べても食べても腹が空いてしまって」
そう言いながら懐に手を入れた銀星の顔が青くなっていく。
「無い……確かにここに入れておいたのに」
慌ててあちらこちらを探るも、一向に巾着袋は見つからなかった。しゅんとする様子が可愛らしく思えて、娘は思わずくすりと笑みを浮べた。
「あなた、図体は大きいのに、案外間が抜けているのね」
「いや、これはその、嘘では無くて本当にちゃんと金子を所持していて、決して無銭飲食をしようなどとは思ってもいなくて」
「スられたのよ。ぼーっとしていたら、江戸の町は案外危ないんだから」
「ええっ」
困惑した表情に人の良さが滲み出る。
大きくて強そうなのに、中身は子どもよりも無防備で純粋なのね。
その乖離がなんとも可笑しくて、堪えきれずに声を上げて笑い出した。
そんな娘を、銀星は呆然と見つめている。
「うふふ、あははは。大丈夫よ。お金を払ってもらおうなんて思っていないから、安心して食べてね」
ぽつりと本音を漏らす。
「丁度良かったの。一人で寂しかったから」
そう言って視線を骨壺へ移せば、釣られて銀星も目をやり気づく。
「誰が……亡くなったんだ?」
「……お母さん」
「そうか。それは悲しいことだな」
居住まいを正して手を合わせた。
その心遣いと礼儀正しさに、娘の警戒心が淡雪のように溶けていく。
「ありがとう。だからね、久しぶりに笑ったから……これは、そのお礼」
「かたじけない。いただきます」
今度は御膳に手を合わせた。
ふわふわと湯気くゆる汁物の中身は大根と大根葉と油揚げ。白飯より麦や粟の多い茶碗を見れば、娘の貧しさが透けて見える。唯一の贅沢と言えば、香の物か。
赤くつややかな梅干しが二つ。貴重な保存食は最大限のもてなしだ。
それらを押し抱くようにしてから、大きな口でぱくり。
おっ! これは……
「うまいっ」
「そう、良かったわ」
市井を彷徨ううち何度と無く飲食を繰り返したが、何故か霞を食うようで味がしない。食べても食べても満腹にならず難儀していた。
でもこれは……ちゃんと味わえる。
その上、じんじんと痺れるように、霊力が身体に染み渡っていくのを感じた。
この娘、何者だ?
疑問に思いつつも箸の手が止まらない。次から次へと口に運び、あっという間に完食してしまった。
「おかわりもどうぞ」
「いいのか! よろしく頼む」
遠慮なく頼めば、嬉しそうに微笑んだ娘。最初と同じくらいたっぷりと茶椀とどんぶりによそってくれた。
「お前の分は」
「ん、大丈夫」
「どうせなら一緒に食べないか」
「……」
ほろほろと、娘の目から涙が零れ落ちた。
ぎょっとして銀星はおろおろ。
「一緒に……一緒に食べられる人がいるって、幸せな気持ちになるわね」
指先で涙を拭い、満面の笑顔に変える。
「一緒に食べるっ」
「おおっ」
銀星もにぱっと笑い返した。
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