第4話 ある日の放課後

放課後、昇降口で靴を履き替えていた美桜に声をかけると、彼女は少し驚いたようにこちらを見上げた。


「帰り、一緒にいい?」


「うん、いいよ」


夏の日差しはまだ強いが、夕方の風は少し涼しさを含んでいた。川沿いの道を並んで歩くと、蝉の声と水の音が混ざって、心地よいBGMになる。


「金魚、元気?」


「元気だよ。すっかりうちのアイドル」


「そっか。……よかった」


ほんの数秒、微かに笑みを見せる美桜。その表情を見ていると、引っ越しなんてなかったことにしてほしいと心の底から思う。


「この前の話……引っ越すって、本当?」


足が止まる。美桜は唇を噛み、視線を川面に落とした。


「……うん。たぶん、来月」


「来月……」


急すぎて、息が詰まる。言葉にできず、心の奥で「やだ」と叫ぶだけだった。


「お父さんの仕事の関係なんだ。東京に転勤で」


「東京……」


遠い。子どもが簡単に会いに行ける距離ではない。


「だから、ほら……あんまり悲しまないでよ。私だって、まだ実感ないし」


笑顔でそう言うが、目尻が少し赤くなっているのを見逃せなかった。


「……なあ、引っ越す前に、夏祭り、一緒に行けたらな」


美桜は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「……うん。行こうね」


その返事に少し安堵しながらも、胸の奥ではカウントダウンの針が進む音が聞こえた。


川沿いの道を歩きながら、ふと美桜の手元を見る。借りた本を何冊も抱えているせいで、少しばかり不安定に揺れていた。


「持つの、手伝おうか?」


「あ、大丈夫。……でも、ありがとう」


その笑顔に、また胸がざわつく。普段通りの何気ない会話なのに、言葉の端々に漂う“いつか遠くに行ってしまう”という影を感じる。


「最近、金魚の世話は順調?」


「うん。えさも忘れずにあげてるし、掃除もちゃんとやってるよ」


「そうか……俺も今度、手伝おうかな」


「え? 本気で?」


「まあ、ちょっとくらいなら」


少しぎこちなく笑い合う。こんな些細なやり取りも、もうすぐできなくなるかもしれないと思うと、胸の奥が締め付けられる。


川沿いの水面に夕日が反射して、きらきらと光っている。二人の影がゆっくりと伸び、寄り添うように揺れた。


「ねえ、桐谷くん。夏祭り、何着ていく?」


唐突な質問に、少し驚く。まだ祭りの日は決まっていないのに、もう心はその一瞬を想像しているのか。


「え……ああ、まだ決めてないけど、たぶん……」


言葉が途切れる。そんな自分の態度に気づき、恥ずかしくなる。


「そう……じゃあ、当日までのお楽しみだね」


美桜はそう言って、少し照れくさそうに目を伏せる。その仕草に、心がまた揺れる。


「……楽しみにしてる」


思わず口に出す。美桜の顔が、ぱっと明るくなる。夕日を受けた彼女の笑顔が、今も昔も変わらず胸に焼き付く。


歩きながら、目の前に広がる街の景色が少しずつ黄昏色に染まる。未来の夏祭りに想いを馳せながらも、現実の引っ越しという距離の壁が、胸の中に小さな影を落としていた。


家の近くまで来ると、道端に小さな花壇があり、夕日を浴びて花々が淡く光っていた。美桜は立ち止まり、ふと足元の花を見つめる。


「きれい……」


「そうだな、でも、こうして並んで見るのは、今日が最後かもな」


口に出してみると、思った以上に重く響いた。美桜は一瞬顔を上げ、少し寂しそうに微笑む。


「そんな……まだ、最後ってわけじゃないでしょ?」


「……うん、でも、来月には東京に行っちゃうんだろ?」


その言葉に、二人の間に静かな沈黙が流れる。夕暮れの風がそっと髪を撫で、川沿いの水面が小さく揺れた。


「桐谷くん……」美桜がぽつりと呟く。「私、ちゃんと準備しなきゃね」


「うん……お互いに、かな」


言葉は少ないが、心の中では、二人とも引っ越しまでの残りの日々を意識していた。少しの時間でも、できるだけ一緒に過ごしたい。そんな思いが、胸をぎゅっと締め付ける。


「……あのさ、桐谷くん」


「ん?」


「夏祭り……本当に楽しみにしてるね」


「うん、俺も」


その短いやり取りだけで、心の中に小さな灯りがともる。未来に希望を見つけながらも、同時に迫る距離の現実を無視できない。胸の奥で、カウントダウンの針が静かに進んでいるのを感じた。


家の前に着くと、美桜は少し寂しげに笑った。


「じゃあ、また明日」


「うん、またね」


手を振り合い、別れた。夕日が二人の影を長く伸ばす中、心の中の時計は確かに進んでいく。来月には、もう同じ風景を一緒に歩けないかもしれない――そんな不安と、未来の夏祭りへの小さな期待が、混ざり合って胸をざわつかせた。

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