第3話 過去
10年前の夏。
蝉の鳴き声が、うるさいくらいに響いていた。
「ほら、早く行こうよ!」
浴衣姿の美桜が、境内の石段を駆け上がっていく。
白地に赤い朝顔の模様。
髪は少し不器用に結い上げられ、そこに小さな花飾りが揺れていた。
俺はその後ろ姿を追いながら、手に持った小銭入れをぎゅっと握る。
今日は屋台でたこ焼きを買うと決めていたけれど、それ以上に――美桜と一緒にいることが嬉しかった。
「ねえ、金魚すくいやろうよ」
「俺、あんまり得意じゃないけど」
「いいから、私がやるから見てて」
屋台の灯りの下、美桜はポイを器用に動かし、あっという間に二匹の金魚をすくい上げた。
得意げにこちらを振り返る笑顔が、やけに眩しかった。
「ほら、あげるよ」
「え、俺に?」
「うん。飼ってあげて。私、去年すぐ死なせちゃったから」
不意に差し出された袋を受け取ったとき、指先が触れた。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
そのあとも、ヨーヨー釣りや射的を巡り、最後に買ったのはラムネ。
瓶の中のビー玉を押すのに手こずる俺を見て、美桜は笑いながら代わりに押してくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その瞬間、屋台の向こうで花火が上がった。
夜空に咲く大輪の光を見上げながら、横にいる美桜の横顔を盗み見る。
(――ずっと、この時間が続けばいいのに)
そう思ったあの夏を、俺は一生忘れない。
祭りが終わり、境内を抜けると、夜風が火照った肌を撫でた。
金魚の袋が、手の中で小さく揺れる。
遠くでまだ花火の音が響いていた。
「楽しかったね」
美桜がぽつりと言う。
浴衣の袖が、風に揺れて俺の腕に触れるたび、心臓がやけに忙しい。
「……ああ。来年も行けたらいいな」
「……来年、か」
少し間を置いてから、美桜は笑った。
けれど、その笑顔はどこか儚く見えた。
「ねえ、桐谷くん。金魚、ちゃんと名前つけてあげてね」
「名前?」
「そう。生き物はね、名前を呼んであげると長生きするんだって」
「ふーん……じゃあ、お前がつけろよ」
「うーん……じゃあ、“ひかり”と“そら”」
「なんか、それっぽいな」
そう言いながらも、美桜の声が少しだけ遠く感じた。
歩幅が合わないのか、彼女は時々立ち止まり、空を見上げていた。
家の前まで来ると、美桜は立ち止まった。
街灯に照らされる横顔が、祭りの灯りよりも静かで、少し大人びて見えた。
「今日はありがとね。また……遊ぼ」
「……ああ」
それだけ言って、美桜は家の中に消えた。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さな不安が芽生えていたことを、当時の俺はまだ知らない。
金魚の袋を握りしめながら、俺はただ、次の夏も同じように笑っていたいと願っていた。
夏祭りから数日後の放課後。
西日が差し込む教室で、俺と美桜は並んで宿題をしていた。
窓の外ではセミの声が相変わらず響き、暑さはまだ夏の盛りのようだ。
「ほら、ここ間違ってるよ」
美桜が俺のノートを覗き込み、赤鉛筆で軽く丸をつける。
その指先が、少しだけ俺の手に触れた。
「……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
そんなやり取りが、妙に心地いい。
金魚の“ひかり”と“そら”は、家で元気に泳いでいて、美桜が会いに来る口実にもなっていた。
「そうだ、今度の日曜、また金魚見に行ってもいい?」
「もちろん。っていうか、毎日来ればいいじゃん」
「毎日は……ちょっと難しいかも」
美桜が少し視線を落とす。
その表情の変化に、胸の奥がざわついた。
「なんか、あったのか?」
「……ううん。まだ、ちゃんとは決まってないんだけど」
言葉を濁すように、彼女は窓の外を見た。
赤く染まった空が、やけに切なく映る。
「もし、引っ越すことになったら……どうする?」
「は?」
突然の言葉に、ペンを握る手が止まった。
「いや、わかんないよ。まだ決まってないし」
笑ってごまかそうとするけれど、その笑顔は夏祭りの帰り道と同じ、少し儚いものだった。
その日、宿題は最後まで進まなかった。
美桜の言葉が、ずっと頭の中で繰り返されていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます