第5話 想い

大学の講義を終え、キャンパスを出ると、夕焼けに染まる校舎が目に映った。並んで歩く美桜の笑顔は、あの日と同じで、でもどこか大人びていた。


「今日は暑かったね」


「うん、でも夕方の風が気持ちいい」


何気ない会話なのに、胸の奥がざわつく。あの夏祭りの夜、初めて告白してあっけなくフラれたことを思い出す。理由も聞けないまま、彼女は遠くに引っ越してしまった。あの時のもどかしさや寂しさが、ふと胸に蘇る。


「そういえば、来週の夏祭り、楽しみだね」


「うん……楽しみだね」


まだ先のことなのに、その言葉だけで心が弾む。過去と今が少しずつ交差し、二人の距離を縮めていく。


放課後、二人は大学近くの川沿いを歩いた。夕日が水面を黄金色に染め、蝉の声と川のせせらぎが静かなBGMになる。


「桐谷くん、覚えてる? あの夏祭りの夜……」


「もちろん覚えてるよ」


美桜は少し照れくさそうに笑う。あの夜のこと、まだ二人の間に温かく残っている記憶だ。


「また、こうして一緒に歩けるなんて、思わなかった」


「俺も……あの時のこと、ずっと気になってた」


目線を交わすだけで、言葉以上に心が通じ合う感覚があった。過去の思い出が、今の二人の時間にやわらかく重なっていく。


「夏祭り、楽しみにしてるね」


「うん、俺も」


小さな約束が、胸の奥で火を灯す。遠くに行ってしまうかもしれないという不安と、再会して距離が縮まる喜びが入り混じり、胸をぎゅっと締めつける。


夕暮れの街並みを歩きながら、二人の影は長く伸びた。過去と現在が重なり合い、心の中の針が静かに、しかし確実に進んでいるのを感じた。夏祭りまで、残りわずか。二人の想いは、少しずつ再燃していく。


大学の図書館。期末レポートの提出が近いせいか、館内は珍しく賑わっていた。

空席を見つけて二人並んで腰を下ろす。


「ねえ、これってどう書いたらいいんだろ」

美桜が小さなノートを差し出してきた。

指先がふと触れる。些細な接触なのに、心臓が跳ねるのを止められない。


「ここは、こういう風に要約すればいいんじゃないかな」

「……なるほど。ありがとう、助かった」


彼女が嬉しそうに笑う。その横顔を見ていると、記憶が勝手に遡っていく。


——あの夏祭りの夜。

人混みから抜け出して、神社の裏の少し暗い場所に二人で立った。

金魚すくいで必死に取った袋を握りしめて、勇気を振り絞ったあの瞬間。


『好きだ、美桜』


言葉を吐き出した途端、彼女は驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。

『ごめん……』

理由も聞けないまま、ただそれだけを残して、翌月には遠くへ行ってしまった。


その声が、いまだに耳の奥に残っている。


「桐谷くん?」

不意に名前を呼ばれて我に返る。美桜が小首をかしげていた。

「どうしたの? 難しい顔して」


「いや、ちょっと……思い出してただけ」


「思い出?」

「昔のこと」


彼女はそれ以上は追及せず、少し照れくさそうに微笑んだ。

そして、唐突に口を開いた。


「……ねえ、あの夏祭りのこと、覚えてる?」


胸が詰まる。忘れるはずなんてない。十年経っても、あの一言がずっと引っかかっている。


「覚えてるよ」


それだけ答えると、美桜は一瞬目を伏せ、それから小さく笑った。

図書館の静けさの中で、その笑顔がどこか切なく映る。


「また、行けたらいいな。夏祭り」

「……ああ。今度は、ちゃんと楽しめるといいな」


視線を交わした瞬間、言葉にしない何かが、ふたりの間に確かに流れた。

過去の後悔と現在の距離が、少しずつ重なっていく。


図書館を出ると、外はすっかり夕暮れだった。キャンパスの並木道に、橙色の光がまだら模様を描いている。


「はぁ、集中しすぎて疲れた」

美桜が伸びをしながら笑う。髪がふわりと揺れて、夕日を透かしてオレンジに染まった。


「でもだいぶ進んだだろ。これなら期限まで余裕ある」

「うん、桐谷くんが隣にいると安心する」


何気なく言っただけなのかもしれない。けれど、その一言に胸の奥が温かくなる。


並んで歩きながら、購買で買ったアイスバーを分け合った。

「ねえ、覚えてる? 昔も、夏祭りの帰りにこうやってアイス食べたよね」

「覚えてる。あのときは、もう溶けかけてて大惨事だった」

「そうそう! 服にまで垂れちゃって……」


笑い合う声が、夏の夕暮れに溶けていく。過去の痛い記憶だけじゃなく、楽しかった瞬間も確かに残っている。


しばらく歩いたところで、美桜がふと立ち止まった。

「ねえ、桐谷くん。もしまた夏祭りに行けたら……そのときは、ちゃんと笑えるといいな」


「……ああ。俺もそう思う」


言葉にした途端、心の奥がじんわりと熱を帯びた。十年前の「ごめん」で止まっていた時間が、少しずつ動き出すような気がする。


遠くで花火の音が聞こえた。近所の誰かが打ち上げた小さな花火かもしれない。

その音を合図にするように、二人の影は寄り添うように伸びていった。

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