第9話
はっきり言って、次の日は何も手につかなかった。
「確かに私は、女性が好きって言いました。でも、それは田中さんに好意を持っているという意味じゃ、ありません。まだ。」
柳さんのあの言葉を思い出すたび、右手に残っている手のひらのぬくもりまで思い出してしまう。
行動と発言が相反している。
柳さんの行動は私への好意を示しているのに、言葉ではそれを否定する。
どうしてなんだろう。
そして私自身も――。
柳さんのことが嫌いではないし、
気になっていることは認める。
でも、それ以外に混じっている他の感情にまだ名前はつけられない。
なんて、そんなことをだらだら考えていたら、一日が終わってしまった。
※※※
翌日、出社して自分のデスクに着くと、もう柳さんがいた。
つい目で追ってしまう。
――話したいな。
でも、他の人がいる手前、そんなことはしない方がいいと分かっている。
柳さんは仕事を完璧にこなすが、自分にも周りにも厳しいから社内では少し浮いている。
この会社で”うまく”生きるなら、柳さんとの関係は隠しておいた方がいいだろう。
そんな理屈をつけなくても、今の私たちの関係は自分でも説明できないんだけど。
社内では話さない。
わざわざルールを課すほどではないけど、そう決めて私は仕事に取り掛かる。
これまでの柳さんとのごちゃごちゃした気持ちを振り払うかのように、私は無心で仕事をした。
少し、詰め込みすぎたかな。
ふぅ、っと一息ついて椅子に大きくもたれかけて背中を伸ばす。
ぼうっと社内全体を眺めていたら――
「柳くん、ちょっと」
大野部長に柳さんが呼び出されていた。
「さっき提出してくれたこの資料だけど、前回と同じところを間違えている」
大野部長は淡々と話す。
「申し訳ございません」
柳さんは深々と頭を下げた。
珍しいな、と私は思った。
柳さんももちろん人だからミスはする。
でも、同じミスを繰り返しているのを見るのは初めてだ。
大野部長も分かっているのか、怒っている様子はない。
「すぐに修正します」
焦る柳さんは早口で自分のデスクに戻ろうとする。
「柳くん」
大野部長が引き止めるように声をかけた。
「大丈夫かね。少し休憩しなさい」
「は、はい。ありがとうございます」
ハッとしたように顔を上げ、大野部長に一礼してから柳さんは事務所を後にした。
時計を見ると、あと5分ほどで昼休憩だ。
私は急いでスマホを取り出し、柳さんに送る。
「お昼、ランチ行きませんか?」
私の頭の中は柳さんのことでいっぱいだった。
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