エアロバティックス

「本日よりエアロバティックスの訓練を始める」

 クリスティナ・ロスは、青いパイロットスーツを着た候補生たちを横一列に整列させた。

 クリスの後ろには、ロサンゼルス到着初日に、クリスと共にエアロバティックスを披露したサイラスとオーウェンの姿もあった。

「これから先はレースで実際に使用するエクストラ300Lで訓練を行う。当然、フライトの感覚は大きく異なる。一度、ここ数カ月習ったことを白紙にして訓練に臨め」

 少し離れたパーキングエリアには三機のエクストラが停めてある。

 颯は競技用の軽飛行機に乗れるとなって、早くも気持ちが高まっていた。

「百聞は一見にしかず。ということで、教官の飛行に同乗して、エアロバティックスを体験してもらう。だが、その前にまずはそれぞれの担当教官を発表する。まずは、弥勒、颯――」

 颯と弥勒は名前を呼ばれて、咄嗟に姿勢を正した。

「二人はサイラスが担当する」

 サイラスが颯と弥勒の方を一瞥する。

 サイラスの金髪は以前に見た時よりも伸び、少しワイルドな印象になっている。

「入鹿と貴広、二人はオーウェンだ」

 オーウェンは相変わらず真面目そうな人物で、正面を向いたままクリスの説明を聞いた。

「最後に、雪兎と初奈は私が担当する。――ちなみに、この割り当ての理由は英語力と性別だけで、大した理由はない」

 弥勒と一緒ということは、颯は英語ができると判断されてサイラスに充てられたのだろう。嬉しいがプレッシャーでもある。

「では、ひとまず各担当に任せる」

 サイラスに手で呼ばれて、颯と弥勒はサイラスの元に向かった。

「それで、どっちから搭乗する?」

 サイラスは一切遠慮せずに英語で話し始める。颯は辛うじて聞き取れた。

「うーん、先いいよ」

「いいのか? ありがとう」

 弥勒が譲ってくれたので、颯はサイラスと共に先に搭乗することにした。

「……分かった。お前からだな」

 サイラスは二人の様子を横目に、ポケットから取り出した白い手袋グローブを両手に着けた。

 クリスのエクストラが飛び立ったのを待ち、サイラスが動き出した。

「順番だ。弥勒はここからフライトを見てろ。颯、行くぞ」

 サイラスは颯を連れて、エクストラの前まで移動する。

 エクストラは黄色く塗装され、スポンサーのロゴや文字が描かれていた。

「これ、個人の所有物ですか?」

「いいや。ブルーカウが俺に向けて貸してくれている機体だ。ほとんど私物にしてるけどな。――点検の手順はまだ覚えなくてもいいぞ。どうせ、一人で乗るのはずっと後だ」

 サイラスは颯を置いて、機体の点検をてきぱきとこなしていく。

「俺は来年からチャレンジャーカップにエントリーすることになってる。で、ブルーカウが俺に出場を認める条件として提示したのが、お前たちの指導に協力することだ。それが、俺の今ここにいる理由だ」

「前言ってた自分自身の訓練っていうのは、レースに向けた特訓って意味だったんですか」

 颯が以前の言葉を何となく口にすると、サイラスは意外そうに颯の顔を見た。

「なるほど。リスニングはあのときから出来てたのか」

 サイラスは口角を吊り上げ、颯に座席に置いていたヘルメットを手渡した。

「前に乗れ。英語ができるのは運が良かったな。俺が担当になれた。――俺は他の二人よりずっと上手いぜ」

 サイラスの自信に颯は一瞬、心の奥を揺さぶられた気持ちになった。

(……こういう人と、パイロットになれば戦うことになるのか)

 エクストラ300Lは縦に二人搭乗できる。

 颯は前方に座り、教官であるサイラスが後方の席から指導する形になる。

 シートは見た目の割に広々としているが、五点式のシートベルトに加えて、エアロバティックス時にはパラシュートの着用が義務付けられているため、セスナでの訓練に比べてやや動き辛く感じる。正面には無数の計器。サイラスは颯の着席に問題がないか確認してから頭上の風防を閉めた。

「後がつかえてるからな。軽く十分くらいフライトするぞ」

 サイラスは無線で管制官に合図を送ってから、滑走路を走り始めた。

 動きから機体が軽いのが分かる。セスナ以上に、プロペラ音と空気抵抗を身近に感じる。

「スモークは焚かないぞ」

 サイラスは笑いながらエクストラを加速させた。

 そこは競技用の機体、信じられない速度の加速で、十数秒の滑走で空へと羽ばたく。

 サイラスは離陸直後から機体を急上昇させた。

 初めて感じる大きなGに動揺する。

 颯は気持ちの準備が出来てないと思ったが、すぐにそんなもの無意味だと誘った。

「ハーフロール!」

 サイラスはある程度の高さまで上がると、そんなことを叫びながら、操縦桿をリズムよく傾けて、通常飛行と背面飛行を繰り返す。街並みと青空が交互に視界に映る。

 しばらく背面飛行をした後、サイラスは機体を垂直に上昇させた。

「ハンマーヘッド!」

 機首を返して地面に向けて直進を始める。先程までのGが軽かった感じられるほど、体にこれまで感じたことのないような負荷がかかった。

「休む暇はねえぞ」

 サイラスは高度がある程度まで下がると、再び機体を上昇させた。

 しかも今度は、執拗にを加えながらであった。

「セントリフュージ!」

 再び速度と高度が上がったところで、サイラスが叫ぶ。

「九回転するぞ、回転と同じ方向に首を回せ!」

 サイラスは回転する速度を徐々に上げていく。

 颯は言われるままに、回転に合わせて必死に首を回す。最早、何が起こってるのかも分からない状況だった。

(――7、8、9!)

 回転が終わると、ようやく目の前に正常な景色が戻る。

「……はあっ――」

 颯は一瞬眩暈を感じたが、目を閉じずに外を見続けた。

 サイラスは休む暇も与えずに、今度は機体を地面と垂直に傾けて飛ぶ技(ナイフエッジ)を飛行場のギャラリーに向けて見せつけた。

 サイラスはその後も、次々と自身の技を披露した。

「テイルスライド!」「トルクロール!」「ハリヤーッ!」

 途中から、明らかに今回の訓練では必要のない技まで織り交ぜている。

「……あれ、もう十五分もたってる。そろそろ、弥勒と代わるか」

 サイラスは思い出したように呟くと、バーティカルターンをして飛行場に帰還する。

「おい、大丈夫か?」

 颯は着陸後もしばらく、シートから立ち上がることが出来なかった。



 ラウンジで休む颯の前に、クリスが心配そうな顔をして現れた。

「どう考えてもサイラスはやり過ぎた。すまないな」

 クリスはサイラスより一足早く、二人分のティーチングを終えていた。

「いいえ……」

 颯はこれまでの人生最大ともいえる衝撃に、呆然自失になりながらも、今の気持ちをどう言葉にするべきか探っていた。

 少し遅れて、貴広たちオーウェン組が帰ってくる。

「……お疲れ」

 貴広は颯の表情を見て、何か思うところがあるようだった。

 最後に、サイラスと共に、疲れ切った表情の弥勒が帰ってきた。

「サイラス?」

「あー、すいません。熱くなり過ぎました」

「やり過ぎたと思ったなら、どうして弥勒にも同じ歓迎をした?」

「そりゃ、片方だけじゃ不公平っていうか――」

 サイラスは軽い調子で謝り続けるが、クリスの目は笑ってない。これは時間がかかりそうだと、颯は内心思った。

 一方で、弥勒はふらふらと颯の隣の椅子に腰掛ける。

「凄かったな……」

「うん。凄かったね」

「ああ、こんな経験は人生で初めてだ」

 颯はそう口にしてから初めて、自分がこの出来事をどう受け止めているのかを知った。

 初めて女の子への告白が成功したときも(付き合い始めてすぐ振られたが)、高校受験で合格したときとも、苦手だった仕事を褒められたときとも違う。『AIR ACE』のシーズンレースで上位に入賞したときでさえ、こんなに強い感情は持たなかった。

「正直言って……」

「最高だったな」

 颯がそう呟くと、弥勒は不意を突かれたように固まる。

「……そうだね」

 弥勒は目を閉じて小さくため息をついた後、顔を上げて笑顔を浮かべた。

「こんな経験、本当は一生できなかったのかもしれない」

「ああ、ここまで来た甲斐があった」

 颯は汗の滲んだ自分の掌を見つると、目を閉じて二十分前の衝撃を思い返した。



 訓練はまずエクストラの操縦に慣れるところから始まった。

 練習機であるセスナとは当然、操縦感覚が違うため、本格的にエアロバティックスの訓練を行う前に十分に飛行時間を積む必要があった。

 エクストラの操縦を交代で練習する傍ら、丹治や手の空いた教官たち手によって各技の理論や具体的な操縦法を教わった。

「今日はレースにも関係している技術である、『ループ』を解説します」

 『ループ』とは、空中で三百六十度回転するエアロバティックスの基本技だ。

 バーティカルターンは、これを高速で半周だけ行いコース上に復帰する技ということになる。勿論、免許取得には必要ない技術なので実践したことはない。

「通常でのフライトではまず行わない動きですけど、そんなに難しくはありません。注意すべき点は、速度と、操縦桿の傾きを維持すること――」

 丹治は具体的な操縦方法を、エクストラの模型を使って教え始める。

 実践は普段の飛行場から、少し離れた練習場で行われた。

 颯たちはエクストラで練習場まで移動し、そのまま訓練を開始、ホームの空港に帰り交代するというのが一連の手順だ。

 最初の一週間は、時間のほとんどを反復練習に用いた。

「膨らみ過ぎだ。風の抵抗を考えろ!」

 颯は後方から指示を受けながら、同じ動きを何度も繰り返した。

「DからG、あと3セットだ」

 練習場は貸し切りで、地面の白線やフェンスなどの目印を頼りにAからZまでの見えないチェックポイントが作られていた。各チェックポイント間にルートや飛行法が決められており、繰り返すことであらゆる動きを自然に覚えられるようになっていた。

 他の候補生たちがいるときは、離れたコースを区切って使い練習する。

 時間にすれば免許取得のために行った一日のフライト時間と差はないものの、エアロバティックスの訓練はより体力を消耗した。

 その理由はフライト中、体にかかるGだった。

(……思った以上に体がきつい)

 颯は操縦桿を傾けながら、ヘルメット内に響く自分の息遣いを聞いた。旋回や宙返りは強いGを伴い、訓練中はそれを何度も繰り返すので体への負荷は大きい。

(息もしづらいし、疲労で手も痺れてくる)

 加えて、レースは訓練の何倍ものGがかかるというだから恐ろしい。

 しかし、颯は弱音を極力口に出さなかった。

「よし、調子がいいな。これから『ループ』の実践を許可する」

 訓練の最中、問題がなければ一日一回か二回、前日までに理論を教わった技の練習を行う許可が下りた。

「はい、問題ありません」

 颯にとって、これは大きなモチベーションとなっていた。

 操縦の緊張で消耗した頭に血が通い、筋肉の痛みも不思議と気にならなくなる。

「ルートCからDの直線で行う。手順は分かってるな?」

 颯は頷くと十分に速度と高度を上げてから、直線に入り操縦桿を引いた。

 機体が傾き出し、体が背後へと引っ張られ始める。

「最初は操縦桿に集中しろ。ストップ。ピッチ(機首の傾き)を一定に保て」

 垂直を越え、機体が逆方向へと向かい始める。

「ライトラダー、エルロンで機体の向きを調整しろ」

 操縦に意識しているとあっという間に、飛行場と周囲を取り囲む緑が見えてきた。

 時間にすれば、三十秒ほどで『ループ』の実践は終わった。

「及第点だな。明日は『ロール』だ。俺が見本を見せとくから、一度着陸しろ」

 颯は初めてのエアロバティックスを終えて、機体が自分の体の一部になったような手応えを感じた。

 ほんの短い間だが、窮屈な世界から解き放たれた感動があった。

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AIR ACE 静水映 @shimizu-uturu

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