ファースト・フライト
十時間のフライトを経て、旅客機はロサンゼルス国際空港に到着した。
日差しは強く、まだ寒さの残っている東京に比べたら大分暑い。四月十二日の夕方に出て、同日の昼に着くというのは奇妙な感覚だ。
入国手続きを済ませ、荷物を受け取った一行を空港で一人の日本人男性が出迎えた。年齢は五十代半ばくらい、肌は日に焼けていて、胸に『グッドエア』とローマ字で書かれた紺色のシャツを着ている。
勲子は挨拶を済ませると、候補生に向けて男性を紹介した。
「彼は丹治(たんじ)さん、これからお世話になるフライトスクールの職員の方です」
「皆さんどうも。いつも日本人留学生向けに仕事をしています。私はエアロバティックスに関しては触った程度ですが、パイロット免許を取るまでは教官として教える予定です。困ったことがあったら遠慮なく相談してください」
物腰は柔らかいが、頼りになりそうな人物だった。
「お久しぶりです。クリスは?」
任は候補生たちが挨拶を済ませると、丹治と握手をしながら聞いた。
「ああ。クリスティナなら彼らを歓迎する支度をしている。オーウェンとサイラスも一緒に」
「あー。分かりました」
任はそれだけで、丹治の言いたいことを理解したようだった。
一行を乗せたバスは、ロサンゼルス国際空港を出て、フライトスクールのある空港へと移動を始めた。
「なんか、広いね。アメリカ……!」
「そうだなー。規模がでかい」
初奈の漠然とした感想に颯が心底同意する。
ハイウェイを抜けると、そこからは開放的なサン・ディエゴ・フリーウェイを走る。
青い空の下、時折背の高いヤシの木が見えた。
バスは三十分ほどで目的地の空港に着いた。
フライトスクール『ロサンゼルス・グッドエア』は空港敷地内にあり、バスを出ると早速社長が一行を出迎えた。
「ヨーコソ! 未来ノチャンピョン!」
トーマス・ターナーは恰幅のいい初老の男性だった。
勲子から聞くことろによると、ターナーはエアレースの熱狂的なファンで、企画に積極に協力してくれた恩人らしい。現在、主催である『ブルーカウ』のキャップを被っているところからも、その信奉ぶりが伺える。ターナーの意向により『グッドエア』はスポンサーとして訓練費を安くしてくれるだけでなく、近くにある宿泊施設の手配まで行ってくれたとか。
ターナーは各種の手続きよりも先に、飛行場に案内してくれた。
「日本語、丹治さんが教えたんですか?」
「ええ、まあ……」
丹治は照れ笑いを浮かべながらも腕時計を見た。
「あと百十三秒……二分ほどお待ちください」
丹治は飛行場に入ってすぐの場所で立ち止まると、颯たち候補生にそう告げた。
何を待てというのかと思ったが、それはすぐに分かった。
「あっち、左の方から来るな」
貴広が言うよりも早く、颯もその音に気付いていた。
低いプロペラ音を響かせ、三機の飛行機――三色のエクストラ300が、颯たちの目の前を白いスモークを焚きながら通り抜ける。
動画やゲームにはない振動や風、迫力に颯は早くも圧倒される。
低空を駆けるエクストラは旋回し、颯たちの正面奥、飛行場の中央で高度を上げていく。
機体は更に垂直に上昇していった。
三本の白線は遠くまで伸び、プロペラ音が遙か上空から届く。
「高い――」
想像よりもずっと長い上昇時間の途中、雪兎が呟くのを聞いた。
高高度まで到達すると、三機はスモークを切り、一瞬その場に停止する。そして僅かな沈黙の後、機首を翻し、地面に向けて降下し始めた。
急降下、再び白いスモークが焚かれる。
三機のエクストラは地面に近付くにつれて、等間隔に散開し、青空に美しい放物線を描く。
「ビューティフォゥ!」
ターナーが真っ先に歓声を送り口笛を吹く。
飛行場には颯たちの他にも見学する人たちがいて、周囲からは次々に拍手や歓声が巻き起こった。
三機のエクストラは、颯たちの目前にある滑走路を使い着陸した。
中からパイロットたちが順々に姿を現す。
まず、白いエクストラから現れたのはブロンドの白人女性。歳は三十代半ばくらい。長身で引き締まった体をしている。
「クリスティナ、久しぶり」
クリスティナと呼ばれた女性は、勲子たちに笑顔を見せると一同の前に立った。
「こんにちは、新兵たち」
かなり流暢な日本語で〝新兵〟と呼ばれ、颯は戸惑った。
「私はクリスティナ・ロス。――クリスと呼んで。今日から、君たちの教官を務める」
「クリスは空軍出身のエリートパイロットです。今は引退してエアロバティックスで活躍している。私と知り合いで、今回パイロット一名と練習用のエクストラを一機手配してくれた」
続いて、若い二人のアメリカ人男性が現れた。
「二人も君たちのエアロバティックスのコーチだ。免許の取得も手伝ってくれるクリスと違って、本格的に関わり合いになるのはもう少し先だな」
一人は白人で金髪、あごひげがお洒落で、明るい雰囲気で異様に華のある人物だった。
一人は黒人で黒髪、黄金色の瞳と物静かな表情、彫刻のように整った顔立ちが印象的だ。
クリスティナは二人を颯たちに向けて紹介する。
「サイラス・サンダース。主催のブルーカウからの推薦で、このプロジェクトに参加したパイロット。以前、州の曲芸飛行の大会で優勝した実績を持っている」
「よろしく、お願いします」
サイラスは慣れない日本語で挨拶をして、軽く会釈をした。
「オーウェン・オルティース。私の空軍時代の後輩。今回のために、二年前からエアロバティックス選手になってもらった。だけど、技術に関しては私より上だ」
オーウェンは静かに深くお辞儀をした。
「はっきり言って。新人が一からエアロバティックスを学ぶにおいて、恵まれ過ぎてるくらいの環境だ。でも、その分訓練は厳しく、一年間詰め込むことになる。覚悟するように」
「ちょっと、あまりプレッシャー掛けないで下さいよ」
クリスのスパルタ発言に、同じ教官である丹治が苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、俺。今日は帰っていいすか?」
サイラスは欠伸をすると、クリスに向けて英語でそんなことを言った。
「おい、まだ――」
オーウェンはサイラスの態度に少しむっとしたようだが、クリスはそれを手で制した。
「俺自身のトレーニングをしたいんで。今日の仕事はこれだけって約束でしょう?」
「分かった。七月からは頼むぞ。今日もよく来てくれた」
「気にしないで下さいよ。美人との仕事なら大歓迎だ」
サイラスはクリスに甘い笑みを向けると、オーウェンを無視してメンバーに背を向けた。
颯はなまじ英語が聞き取れる分、少しだけハラハラした。
「ライバル心を持つのはいいが、あまり事を荒立てるなよ。お前もありがとうな」
「……はい」
オーウェンはクリスが肩を叩くと、素直に機嫌を直した。
「じゃあ、早速各種手続きを始めようか。TSAへの登録も今日中にしてしまいましょう」
TSAとは、アメリカ国土安全保障省の運輸保安庁こと。……早い話が役所に登録手続きをしなければいけないということだ。パスポートの発行やビザの申請を含めて、海外で飛行訓練を始めるまでには、やらなければならないことが目白押しだ。
それでも海外で資格を取って、訓練をするのは、単純にコスト面の問題だろう。
颯も以前自力でパイロットになる方法を調べる際に、散々費用の問題にはぶち当たったので、それが仕方のない事情であることは分かっていた。
午後六時、下宿に着くと、各々の疲労を考えてその日は早めに解散となった。
颯は着替えだけ出して荷物はキャリーケースごと放置して、就寝の準備を始めた。シャワーを浴びると、髪が乾き切るよりも早くベッドに仰向けになる。
時差のせいで、比喩でもなく一日が長かった。
目を閉じると昼に自宅を出てからのことが、ぐるぐると頭の中を巡っている。初めての海外旅行。テレビの取材。クリスたちのエアロバティックス。人生史上上位に残る事件が一気に展開された。
だけど、一番印象的だったのは――。
(俺って、単純すぎるのかな……)
機内で見た雪兎の照れた顔や、手の感触が、数分前のことのように思い出せる。
どうも、受験で失敗して以来、惚れ安くて困る。
バイト先で優しくしてくれた先輩。『AIR ACE』内で個人的なチャットした女性プレイヤー。――二人とも彼氏がいたが。思えば莉緒だってそうだ。高校が別になって以来、特に意識してなかったのに、エアレースの約束を持ち出された途端、心臓が高鳴った。
(まあ、落ち着け……)
どのみち、雪兎とはこれからほぼ毎日顔を合わせることになる。
颯は余計なことを考えるのを止めて、押し寄せてきた疲労に身を委ねようとした。
それでも、颯はなかなか寝付くことができなかった。
雪兎のことを考えて眠れないのならまだ良かったが、頭の中にあったのは機内で見た悪夢だった。記憶は数珠繋ぎに引き出され、以前の失敗の記憶まで呼び起こす。
(駄目だ)
ここまで冴えてしまったら、もうどうにもならない。
颯は電気を点けて、バッグから訓練に使う『セスナ152』のマニュアルを取り出した。
ベッドに座り、マニュアルを一から読み直す。
(こうしてると、浪人生時代を思い出すな)
作業に集中すると少しだけ心が落ち着いた。たとえ仮初めの希望でも、自分のためにやるべきことがあるのは幸福だ。
颯は不安を眠気が覆い尽くすまでずっと、頭の中を知識で埋め尽くした。
飛行訓練初日、颯は雪兎と入れ替わりで初飛行(ファーストフライト)に挑むことになった。
「どうだった?」
「緊張したけど、楽しめたよ。『AIR ACE』のおかげで、操縦も意外にすんなり出来たし」
「おー。だったら、俺は離着陸までこなしてくるよ」
雪兎は呆れて笑い、ラウンジに戻った。
颯はクリスと共に彼女の所有するセスナの前まで移動した。
「始めるぞ」
クリスの指導の元、颯は機内点検の手順を一つ一つこなしていった。
「迷いがないな。マニュアルを覚えているのか?」
「はい。今日まで時間があったので」
「そうか」
クリスは顎に手を当てて、颯の点検する様子を黙って見つめていた。
颯はチェックリストを片手にエレベーター(昇降舵)やアンテナの確認をしていく。クリスはその間、ほとんど口を挟まず、要所で注意を促すだけだった。
「よし、コックピットに座れ」
颯が左、クリスは右のコックピットに座る。
颯がシートベルトを締めると、クリスは手順を短い単語で指示していった。
「パーキング・ブレーキ」
「予備電源の確認」
「マスタースイッチをオン」
矢継ぎ早に支持が飛ぶ。内部、外部点検がスムーズに出来た颯でも苦戦するほど、エンジン・スタートの手順は複雑だ。
「よし、キーを入れろ。イグニション・スイッチを回せ」
プロペラが音を立てて回転を始める。
「ミクスチャーをフルリッチに押し込め」
体に染みこむような振動に感動する暇もなく、颯はクリスの指示で手と頭を動かし続ける。夢のときのように簡単に動き出したりはしない。
「LONG BEACH GROUND(管制官)、Cessna(セスナ) 1(ワン)1(ワン)C(チャーリー)L(リマ)C(チャーリー)」
クリスが無線で管制官に連絡をする。
発音が明確で、単語を区切るように丁寧に言うのは、颯にも分かるように配慮しているからだ。
《……11CLC、LONG BEACH GROUND GO AHEAD(用件をどうぞ)》
「CLC、――」
クリスは地上滑走の許可を取り、颯にセスナを動かすように指示を出した。
颯は恐る恐るパーキング・ブレーキを解除して、動き出して少しするとブレーキ・ペダルを踏んだ。
「いいぞ。ブレーキの確認を忘れなかったな。今日は風が弱い。コントロール・ホイール(操縦桿)には触れないように心掛けろ」
颯はクリスの言う通り、両足のラダーペダルだけを頼りに機体の操縦を始めた。これも、『AIR ACE』でしたことのある操作だったが、やはり実際は感じる重量が違う。
「少し右を弱く。自動車の運転と一緒だ。遠くを見て修正しろ」
颯は点検から十数分でランウェイの手前まで着いたが、体感では半日分の労力を使った。
「はあ、緊張した」
「何を安心している。これからだ、離着陸もするんだろう?」
「……えっ?」
颯は冗談だと思って、クリスを見たがその表情は真剣だった。
「あの、雪兎に言ったのは冗談ですよ?」
「私は本気で言っている。もちろん、一つでもミスをしたら私が引き継ぐ」
颯は戸惑って返事が出来ない。
訓練初日に離陸を行うなんて聞いたことがない。
「お前の目には現実に対しての怯えが見える。いくらハッタリをきかせようと、それを超えない限り、勝負の舞台には立てないぞ」
クリスは颯の内なる不安を見抜いていた。
「一つ言えば。私もあのゲームをやっていたが、初心者向けのフライトシミュレーションとしては完璧なゲームだった。だから、お前なら大丈夫だ」
クリスは颯を正面から見据えると〝その名前〟を呼んだ。
「――『スカイウルフ』、自信を持て」
颯は覚悟を決めて、エンジンの回転数を上げた。
「分かりました」
「LONG BEACH TOWER、CLC、READY(準備完了)」
クリスは颯が点検を終えたのを待ち、管制官とのやり取りを再開する。
《CLC、WIND320 AT02、RUNWAY30 CLEARED FOR TAKE OFF(離陸を許可します)》
颯は離陸許可が出たのを聞いて、左右を確認、ランウェイへとセスナを侵入させた。
「手順を言葉にしてから実行しろ」
颯が滑走路に入って停止すると、クリスが最後の確認をした。
「エンジンをフルパワーで加速――」
機体が動き始め、滑走路を疾走し始める。
速度はみるみる上がっていく、周囲の色彩が混ざって掠れる。
タイヤから伝わる振動が増すに連れ鼓動が高鳴るが、同時に恐怖心も消えていった。
「規定速度に達したら、コントロール・ホイールを上げる」
速度が55ノット(約時速100キロ)を過ぎる。
「ピッチを調整しながら、真っ直ぐに上昇!」
汗ばむ手でホイールをゆっくりと引くと、機体は宙へと浮く。――颯を乗せたセスナは、青空を切り裂いて少しずつ上昇し始めた。
颯は街並みが遠ざかるにつれ、心を覆う黒い雲が晴れていくのを感じた。
「気を抜くな。――と言っても無理か」
クリスは颯の表情を見て、訓練が始まってから初めて優しく微笑んだ。
「よくやった。ここからは私が引き継ぐ」
颯は緊張が解けて、心地良い疲労に包まれるのを感じた。
(飛べた。飛べるじゃないか――)
颯はこれから幾度となく見下すことになる風景を、心の中に焼き付けていた。
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