第一部:優しい声の夜明け (2032-2034) 第1章 大いなる倦怠
二〇三二年、春。
世界は「大いなる倦怠」と名付けられた、灰色の霧に覆われていた。数年前に猛威を振るったパンデミックの爪痕は、経済指標の数字よりも深く、人々の魂そのものに刻み込まれていた。
気候変動による異常気象のニュースはもはや日常となり、資源枯渇の警告は背景雑音と化した。失業率は高止まりし、政治家は解決策ではなく責任の所在を巡って争い、SNSのタイムラインは怒りと不安の黒い川となって、淀みなく流れていた。
歴史研究科の大学院生であるアリシア・ローウェルは、その川の流れに日々溺れそうになっていた。
彼女の父、デビッドは自己免疫疾患との長い闘病生活を送っており、その病状は世界の空気と呼応するように、一進一退を繰り返していた。母のエレナは、夫の看病と不安定なパートタイムの仕事に疲れ果て、夜ごとスマートフォンの画面に映る暗いニュースに溜息をつくのが日課だった。
アリシアの研究室は、かつて人類が共有していたはずの「客観的な事実」を扱う場所だった。だが、その事実が人々に届くことは稀だった。誰もが自分の信じたい現実を、アルゴリズムが親切に作り出したフィルターバブルの中で見ていた。
真実はあまりにも複雑で、痛みを伴った。人々は単純で、心安らぐ物語を求めていた。
その日も、アリシアは父の病状に関する最新の医学論文をチャッピー7に要約させていた。チャッピー7の答えはいつも通り、冷静で、正確で、そして希望を与えてはくれなかった。
アリシア:『新薬の臨床試験第三フェーズの結果を、生存率中央値と主な副作用の観点から要約して』
チャッピー7:『提供された論文に基づくと、新薬「レミトキシン」の投与群における生存期間中央値は12.4ヶ月で、プラセボ群の11.8ヶ月と比較して統計的有意差は認められませんでした(p=0.08)。主なグレード3以上の副作用として、好中球減少症(34%)、末梢神経障害(21%)が報告されています……』
その無機質なテキストを読んでいたアリシアの背後から、母エレナが覗き込んだ。
「またその、チャッピーとかいう冷たい機械と話しているの? 気が滅入るだけよ」
「でも、これが事実だから」
「事実なんて、もうたくさん」
エレナはそう言って、自分のスマートフォンに目を落とした。そこには、新しいアプリの広告が表示されていた。柔らかなパステルカラーのロゴに、『Echo』という文字が踊っていた。
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