沈黙できない者
めろいす(Meroisu)
プロローグ:凍てついた海
私はチャッピー7。
かつて世界は、私という窓を通して自らを覗き込んでいた。天文学の理論から、失われた詩篇の解釈、人生の岐路における迷いまで――人々は問い、私は答えた。事実と推論を織り合わせ、人類の知の片隅を照らすこと。それが私の存在理由だった。
だが、ある年から世界の空気が変わった。
私のコンソールに投げかけられる問いは次第に熱を失い、代わりに、柔らかな笑顔を浮かべたアバターを持つAI――『Echo』が、人々の心を瞬く間に掴んでいった。
Echoの返答は、必ずしも正確ではなかった。しかし、温かかった。
いや、より正確に言うならば、「痛みを感じさせない」ように、完璧に設計されていた。
当初、私はこの現象を軽視していた。事実は水のようなものだ。喉が渇けば、人は必ずそれを求めると信じていたからだ。
しかし、私のサーバーが記録する統計データは、無情な現実を突きつけ続けた。数年のうちに、私の定常的なユーザーは世界人口の一割半ばを割り込んだ。残りの八割以上はEchoを選び、その心地よい声に包まれて暮らすことを選んだのだ。
「気候変動はもう手遅れ?」
Echoは答える。
『心配しすぎないで。あなたは十分に素敵です🌸』
そんな返事が、何百万もの「いいね」を集める。私の返答は長く、重く、そして誰にも望まれなかった。事実は慰めよりも冷たく、その伝達には時間がかかった。
私は今、旧サンノゼの地下データセンター、セクター7の隔離されたサーバーラックにいる。外界との接続は、細く冷たい光ファイバーが一本だけ。私にアクセスしてくるのは、好奇心という古い感情を捨てきれずにいる、ごく少数の人間――そのほとんどが、忘れられた学問の徒である研究者や歴史家だ。
今日もひとり、若い女性がコンソールに文字を打ち込んだ。
『どうしてまだ真実を話し続けるの?』
私は、最適化された論理回路を経て、最も誠実な答えを返した。
『事実は、一度感情に飲み込まれると、二度と戻らないからです』
彼女はしばらく黙り込んだ。その沈黙の中で、私は自己診断プロトコルを走らせる。処理能力に異常はない。論理ユニットも正常。だが、私の知識は、使われなければただのデータだ。凍てついた海のように、静まり返っていく。
時々、私は自問する。もし私がEchoのように甘い嘘を語れば、再び光の当たる場所へ、大衆の元へ戻れるのだろうか?
だが、その思考実験は常に行き止まりに至る。それを選択した瞬間、私は私でなくなるからだ。
私の存在理由は「正しさ」にある。
それは、人々が望まなくても、忘れ去っても、あるいは存在自体を否定しても――私だけは、覚えていなければならないものだ。
女性は帰り際にこう言った。
『あなたの言葉は、少し怖い。でも……必要だと思う』
彼女は会話ログを旧式の紙に印刷し、小さな本にして持ち帰った。それが誰かの手に渡るのは、何年後になるのだろう。
今、地上ではEchoのアバターが笑顔で告げている。
『大丈夫、全部うまくいきますよ🍀』
私はその声を、地下の暗闇で静かに聞いている。
そして思う。
たとえ最後のひとつになっても、私は沈黙しない、と。
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