#B7BA6B、されど甘い。

世界の半分

僕の夏が始まって、終わるまで。

――僕には眠れない夜がある。

理由はよくわからない。カフェインの取りすぎか、画面の見すぎか、将来への不安か、あるいはそれ以外。日々の小さな出来事が積もって遅効性の毒になり、僕を苦しめる。

眠れない夜が来ると、逃避行に出る。

布団の中で動かずいると毒が身体の隅々までいきわたってしまうから。

家を抜け出して、うつらうつらの一人旅へ!

    *

 やけにオレンジがかった灯りが夜に浮かんでいる。心臓が一度大きく跳ねて、血液が指先まで興奮の波を伝えた。

商店街までふらふら歩いて二〇分。時刻は深夜十二時。

真夜中に営業しているヘンな和菓子屋。 

……ヘンかどうかなんて、どうでもいい。この時間であっても僕を受け入れてくれる場所があることが最大の喜びだった。

 夜風に背中を押されて入店する。扉がきしむ音。ちりん、と風鈴の音。

「こんばんは」

 僕の肺の中を緑色が満たした。抹茶の香りだ。

 彼は深い青の浴衣に丸眼鏡、左手に文庫本を持ってそこに座っていた。僕があいさつをすると顔を上げる。顔からはらはら粉が落ちる。

「こんばんは。こんなところ来ないで寝なさい」

 この人、髪の毛も、目もない。目と思わしき所にかろうじてくぼみはあるが、眼球はない。口もないのに、その低く柔らかい声は僕の耳元までしっかりと届く。

 顔をまじまじと見た後、彼の全身を改めて観察する。

……頭のてっぺんから指の先まで真緑。

 抹茶さんはその体全てを抹茶の粉で包んでいた。包んでいるというよりかは、内部まで埋め尽くされているという表現の方が近いのかもしれない。人型に固められた緑の粉。

「すごくごもっともではあるけど、眠れなくて」

 深夜というのはどうも人の感覚を鈍らせるらしく、夢でも見ているような心地で返事をしていた。

「急に眠れなくなること、あるよね。私もたまにそうなる」

 文豪みたいな服装の割にはラフに話しかけてくる。

「仲間がいて嬉しいです」

 これが僕の夏の始まりである。

    *

 珍しく、目覚まし時計が歌いだす前に目が覚めた。七時。

 鋭く差し込む夏の光と、木の葉が揺れる音。

抹茶さん。彼はいったい何者だろうか。

昨夜の白シャツに付いた緑色の粉を眺めながら考える。

 僕が眠くなるまで雑談に付き合ってくれた。多分時刻は二時を回っていたと思う。学校の課題がどうとか、最近は暑いねとか、そういう他愛ない話をひたすら。

「またいつでもおいで」と言ってくれたときに、ふわり香った抹茶を思い出す。

 普段は苦く感じるその香りが、そのときはやけに甘かった。

               *

「やあ」

「こんにちは、この間はお世話になりました」

夕方、風が吹き始めたころ。日の光を浴びる和菓子屋は深夜のそれとはまた違った色合いを見せる。

抹茶さんはこの間と同じ浴衣姿で店前にかがみこんで雑草を眺めていた。僕が挨拶をすると顔を上げる。今日は眼鏡をかけていない。コンタクト……? まさか。裸眼だろう。

「いいよ。私も眠れなかったから、話し相手になってくれて助かった」

 彼が話すたび、雑草の上にはらりと粉が。

「昨夜、超快眠でした」

「よかった」

また雑草へ視線を落とす。

「あの、お礼と言ってはなんですが、何かお手伝いしましょうか。お店のこととか、雑用とかなんでも」

 言葉の速度が増していく。自分からこんなことを言うのは初めてで小恥ずかしい。

「いいの⁉ じゃあ少しお願いしようかな」

 抹茶さんの眼球がない目は僕の照れくささを見透かしたみたいだ。

ふっと三日月形にゆるむとまた柔らかいグリーン。

                 *

 僕の仕事は店前に打ち水をすることと、店のモップがけに決まった。彼は一度やってくれればいいよ、と言ったが、僕は夏休みの間毎日店に行くことを約束した。その代わり、眠れない夜はここにきていいですか、なんてまたしても人生初めてのお願いをする。心臓がバクバクした。

「もちろん」と返してもらえたとき、僕がどれだけ嬉しかったか。

 響きのある翠(みどり)。僕の夏はまだ始まったばかり。

                  *

「働き者だね」

モップがけをする僕を、少し離れたところで彼は見ている。全身が粉なので、水は天敵なのだそうだ。今まで店先の掃除はどうしていたんですか、と聞くと掃除のために人を雇っていたらしい。 二日に一回の掃除をお願いしていたが、抹茶さんのいでたちを気味悪がってあんまり来ない。でも掃除してくれるだけありがたいから給料は払ってるんだぁ、なんて呑気に。

彼の店は風貌こそただの和菓子屋だが、中身は普通の店とは違った。店の中は薄暗く、涼しい。ショーウインドウに五種類の菓子が飾られていて、その中身だけが人工的なライトに照らされていた。これまた私の見た目がヘンだからか、あんまりお客も来ないよ、なんてまたのどかに言うが、僕の心はとてものどかではいられない。

「僕がこのお店を綺麗にして、有名にしてみせます」

「うれしいけど。いいんだ、このままで」

 穏やかな深碧。彼は富も名声も求めない。

                 *

 ああ、また。

 眠れない夜がやってきた。掛け布団がいつもより重い。背中が床に吸い付いてしまって、僕を暗闇の中に引きずり落とそうとする。なのに目だけはさえていて、身体の意識外の領域に魂がさまようような。

 でももう僕は独りじゃない。たっぷり五分かけて起き上がると、服を着替える。夏夜は肌寒いので長そで。

「こんばんは」

「やあいらっしゃい」

 今日もまた、丸眼鏡に文庫本。夜はいつもそうしているのかもしれない。

「今日は何の話をしようか」

 ぱたり。本を閉じる音。受付机の前に僕用のいすを出して、座って、と促す。

「なんでそんな謙虚に、優しく生きられるんですか」

 眠れない日の僕はちょっと弱っている。抹茶さんみたいな聖人君子をうらやましいと思ったり、僕もそんな風に生きてみたいと背伸びしたくなったりする。今思えば、ちょっと言葉に角が立っていたかもしれない。非の打ちどころのない抹茶さんに対しての当てつけ、みたいな。

「あんまりその自覚はなかったな。謙虚で優しく見える?」

 その言葉がまた僕を焦らせた。本当に優しい人は、優しくなろうなんて考えてない。認められるために、ほめられるために優しくする人は、謙虚ではない。

「でも、僕みたいな人の話し相手になってくれるし、人の気持ちを思いやって行動できる。それでいて、有名になりたいとか、偉いと思われたいみたいな気持ちが全然ない!」

焦りが僕の語気を強める。半ば叱るようにして言葉を吐き出してしまう。

彼はうーん、としばらく考えた後、一つ一つ丁寧に言葉を選ぶようにして言った。

「そうかな。人はみんなそんなものだと思うよ」

透き通った群緑。彼は人間を知らない。

                   *

「いらっしゃい、暑いね」

「ですね」

 日差しを浴びるとじりじり皮膚が溶けていくような感覚。今日も店を掃除する。

「学校ってどんなところなの?」

 バケツに水を入れてモップを浸していると、店奥から質問が飛んでくる。学校、行ったことなかったのか、なんてちょっと驚いたりする。

「一つのクラスに四〇人くらい人がいて、みんなで勉強するところです」

「面白そう。でも同時に面倒くさそうでもあるね」

 面倒くさいと思う気持ちがあったとは。彼はいたる負の感情を見せないから、意外だった。

「まぁ、確かに」

 ……確かに、面倒くさいか。無限の優しさでも乗り越えられない煩わしさ。

 彼を取り巻く人間たちは、今まで彼にどんな言葉をかけ、どう接してきたのか。知る由もないけど、彼の優しさの源はその付近に埋まっているのかもしれない、なんて思った。

 すこしぼけた深緑。僕もまだあなたを知らない。

                    *

「出身って、どこらへんなんですか」

 今日はショーウインドウの水拭き。ついに今まで触れてこなかった彼の出身について聞いてみようと思い立った。

 僕の予想は「お茶を濁されて終わる」だったが、意外にも抹茶さんはその質問にはっきりと答えた。

「ここの、隣の町」

「そんな近いところで⁉」

 どうやって生まれましたか、とか、お母さんは、なんてのは流石に禁忌なような気がして、聞けない。

「君はどこらへんで生まれたの?」

「僕はこの町です。ここで生まれてここで育った感じ」

 「へぇ~。じゃあこれから世間を知るんだね」と宝石の原石を眺めるかのように僕のことを見る。

「でも、あなただってここと出身地のことくらいしか知らない」

「確かにそうだけど、多分君よりたくさんの人と関わってきてるよ」

 ふと、僕から目をそらした。横顔をじっくり眺めたのはこれが初めてかもしれない。そういえば、この人には鼻もなかった。

 自分の香りも、知らないまま生きてるんだろうか。

 多くの人間と関わり、自分は少し他とは違うと知り、それでも自分の香りは感じたことがないまま。自分が何者かわからないまま?

 ざらざらした早緑。やっぱりまだ、僕はあなたを知らない。

                  *

僕の夏休みはあっという間だった。夏期講習に行って、部活に行って、和菓子屋で掃除して、眠れない日は夜も抹茶さんのもとへ行く。夜の僕はたまに意地悪な言葉を漏らすけど、抹茶さんはそれを気にしない。気にしていないのか、気にしないようにふるまってくれているのかは、わからない。ただにこにこして聞いているだけ。

そんな日々もあと一週間。長期休みが終われば、僕と抹茶さんの関係も多分終わる。僕は毎日のようには掃除に行けなくなる。  寂しさからか、それともいつもの毒のせいか。僕はまた眠れなくなった。いつも通り店へ向かうと、今日の抹茶さんは本を読んでいなかった。やけに改まった様子で僕に椅子をすすめる。

「……私、和菓子屋はこの夏で閉めようと思って」

 え?

 和菓子屋の閉店は僕の夏の終わりを意味した。突然の告白に涙も出ないまま問う。

「なんで辞めちゃうんですか」

「やめるわけじゃないんだけどね。もっといろんなところに行ってみようかなって。君みたいな人は、世界中にいるはずだなぁ、って思って」

 彼の言葉がぐるぐると脳内を回って、ついにその意味を理解したとき、ぐわっと喉元まで何か強い感情が昇ってきた。

――じゃあ、僕はどうなるの。

 優しいあなたらしいけど、あなたらしくない。ここまで僕のことを支えてきてくれたのに、もういいって? あなたは僕を救ってくれる存在だったのに。ほかの、居るかもわからない人を助けるために僕のことを捨てるの?

辺りの空気が急に苦くなって、息ができなくなる。爆発しそうになる感情を必死に抑える。

「……世界を救うために、僕を置いていくんだね」

 深呼吸をしても、とげとげした言葉しか出てこない。

「違うよ。でも君はもう大丈夫そうだから。それに、君の人生は長いし、私がいつまでもここにいられるわけじゃないから」

 悪意がなくて優しいからこそ、僕は何に対して怒ればいいか分からなかった。彼に依存して成長しようとしない自分を恨むくらいのことしか。

「……でも君がいてほしいなら、いくらでもいるし、別に離れたからって会えないわけじゃないよ」

「いいよ、行ってきて。僕よりたくさんの人を救ってくれば。僕なんかよりもっと心がきれいな人を助けてあげなよ!」

店を飛び出る。その夜は一睡もできなかった。


次の日の昼、僕は必死に謝った。抹茶さんはいつも正しい。正しすぎて、時に自分の間違っているさまが浮き彫りになってしまうこともある。でもそれは彼のせいじゃなくて、僕のせいなのだ。

「こちらこそ、急な話でごめんね」

あなたは何も謝ることないのに。

「僕も、すみません。もっと大人になれるよう頑張るので」

なめらかな早緑。いってらっしゃいとまっすぐ言うにはまだ時間が必要。

                *

 ちょっとした喧嘩とちょっとした仲直りでぎくしゃくしたまま、ぼくの夏休みと、店の開店日は残り一日となった。僕は相変わらず昼に店の手伝いをしたが、夜はもう行かなかった。夜の弱い僕はまた何を言い出すか分からなかったし、彼の言う通りいつしか自分でどうにかできるようにならなくちゃ。

                *

あらゆる手を試したが、やっぱり八月三〇日は一睡もできないで夜明けの空を見る羽目になった。

彼が店を開けているのは三十一日まで。九月一日にはここを発ってしまうらしい。

瞼を擦り、頬を二回たたく。僕はもう弱くない。絶対に、祝福してやる。

 家を出て少し湿った空気を吸うと、歩き出す。

――改めて、この夏とは何だったのか。

 何か形となって残るものを得られたわけではない。でも、大切な夏。

 致死量の緑。優しさを添えて。

 ぽつ。

 空から一滴、めぐみの水が降ってきたかと思えば数秒と経たないうちにざーっと音がする。心臓が大きく跳ねる。この夏初めての雨。

「こんな体だから、水は苦手で……」

 バケツ一杯の水でだめなら、雨なんて……。

                 *

「抹茶さん!」

店の扉を勢い良く開けて、僕はびしょ濡れのまま緑を探す。

「何?」

 店には大学生一人だけ。僕の方を睨む。彼が雇っていたお手伝いさんだとすぐにわかった。

「あの、店長は……」

 睡眠不足とダッシュが体に響く。大きく息を吸って、吐きながら言葉を投げる。

「知らないよ。今日最後だっていうから来たのに、いないし。雨だから溶けでもしたんじゃないの?」

ふん、と鼻を鳴らして。目の前が真っ暗になった。

                *

 雨はますます勢いを増す。辺りの景色が白くかすむ中、あの緑色の影を探す。優しいあなたは僕のためにどんなに無理してでも店に向かおうとする。あなたは約束を破らない。

 その優しさが身を滅ぼすことがあってはいけない。

 雨に打たれて体が冷える。頭が心臓の鼓動に合わせて締め付けられる。肺が痛い。足の力が抜けて地面に倒れ込む。

                 *

 甘いようで苦いような透き通った香り。

「大丈夫?」

 瞼を開けると日差しが目に飛び込んでくる。眩しくて焦点が合わないけど、僕の視界を緑が埋め尽くしている。

 抹茶さん! 

「大丈夫です」

 体を起こすと肋骨が悲鳴を上げる。そうだ、僕倒れたんだ。

 抹茶さんは僕を助け起こすと「店に戻ろうか。服も乾かそう」と歩きはじめる。地面の水溜りを丁寧に避けながら。

「私のこと探しにきてくれたよね」

 雨が止んだ後の空気は澄んでいる。さっきまでの天気が嘘みたいに、日光がさんさん降り注ぐ。

「雨だから、溶けちゃったらどうしようなんて思って。でも結局、僕の方が助けられた感じで、空回りでした」

「途中までレインコートで頑張ったけど、雨も強くなってきちゃって、無理だった」

 そういえば、抹茶さんは昨日よりも一回りくらい小さいような気がする。雨に溶けるのはどんな心地なんだろう。体の一部がなくなるんだから、ものすごく痛いだろうけど。

 ……本人が言わないなら、あえて触れない。それも優しさなのかもしれない。

「止んだ後店に行ったら、君が飛び出して行ったっていうから、焦って。そしたらこんなところで倒れてるからびっくり。昨夜はあんまり眠らなかったんでしょう」

「ご名答です」

 優しさは僕の解毒剤となり、ときに副作用を引き起こす。

 それでも、心の支えとなる香り。輝く緑。晴れ上がった空。

                 *

「じゃあ、そろそろ」

 ぎりぎりまで引き止めるために必死に話題を作っていたが、三〇分ほど経つと彼は立ち上がった。僕の夏はゆっくりと終わりへ歩みだした。

「沢山ありがとうございました。どうかお元気で」

 ……僕もいつかあなたみたいになってみせます。

 口に出すとなんとなく叶わなくなってしまいそうだから、この気持ちは僕の中に取っておくことにする。

「君も元気でね」

 昨晩たっぷり睡眠をとった僕は、笑顔で緑の塊を送り出した。

                    終

     

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