第2話『ホワイトアウト・ラブ』
「…ごめん、健人くん…もう、一歩も…」
猛吹雪が全身を叩きつける。私は計算通り、雪庇(せっぴ)の風下に崩れ落ちた。唇を噛み、わざと血を滲ませる。リアルな絶望感を演出するためだ。
健人が眉をひそめて振り返った。「由奈!しっかりしろ!」その声は、唸りを上げる風に細切れにされる。彼はGPSウォッチに視線を落とすも、すぐに「クソッ、電池切れか!」と吐き捨てた。
知ってる。昨夜、お前が寝静まった後、私がやったんだから。
「先に行って…山小屋は、もうすぐ…私がいたら、共倒れに…」
懇願する私の目を見て、健人は一瞬、その動きを止めた。データサイエンティストの目が、何かを分析するように私を射抜く。その瞳の奥に浮かんだのは、心配ではなく、冷たい疑念の色だった。
「…お前のアウター、やけに水を弾いてないか?」
心臓が、氷のナイフで抉られたように痛んだ。バレた?
いや、まだだ。
「これ…あなたが誕生日にくれた、新しいやつだから…すごく性能がいいみたい…」
私は、震える声で、しかしはっきりと嘘をついた。お前が浮気相手との旅行費用のために、カードの限度額まで使い込んでいたせいで、私へのプレゼントが安物になったこと、私は知っているんだよ。
健人は一瞬押し黙ったが、猛烈な風雪が彼の判断力を奪ったようだ。「…わかった。絶対に動くなよ!すぐに救助を呼ぶ!」
その背中がホワイトアウトの中に消えていくのを、私は雪に顔を伏せたまま、唇の端を吊り上げて見送った。
救助? 呼べるものならね。
お前のスマホが、この谷ではただの文鎮になることを、私は一ヶ月前から下見して知っている。
引き金は、お前の「裏アカ」。
浮気相手の女と、別の雪山ではしゃぐ写真。
『嫁には内緒の雪山デート!凍える体で抱き合うのが最高のスリル!』
――スリル。
お前がその女と温め合ったというのなら、お前は、この世で最も冷たい場所で、独りで凍えればいい。
私はゆっくりと立ち上がった。ザックから、新品のモバイルバッテリーを取り出し、自分のスマホに接続する。画面には、麓の山小屋からのものと思われる電波が、弱々しくも一本、立っていた。そして、もう一つ、別の予備アウターを取り出す。健人のものとは比べ物にならない、完璧な防水透湿性を備えた、本物の一級品だ。
せいぜい、お前の信じる「データ」とやらが、この大自然の脅威の前でいかに無力か、その身をもって味わうがいい。お前が最後に感じるのは、骨の髄まで凍りつく絶望と、私という最も身近なリスクを計算できなかった、愚かな自分への後悔だ。
「愛してるよ、健人くん」
吹雪の中に、私はそっと囁いた。
「だから、お前を殺す計画だけは、絶対に失敗しない」
安全な下山ルートへと歩き出す。
お前の亡骸が見つかる春、私はお前の遺影の前で、世界で一番悲しい顔で、お前に最後の嘘をついてあげる。
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