『ねぇ、浮気したら、どうやって殺してほしい?』
志乃原七海
第1話「さようなら、私の歯車」
キッチンの白いタイルの上で、月島由奈(つきしま ゆな)は息を止めていた。目の前には、夫・神崎健人(かんざき けんと)のタブレット。いつもはパスコードで固く守られているそれが、珍しく開いたまま放置されていた。おそらく、急な電話で席を立ったのだろう。
好奇心ではなかった。それは、ここ数ヶ月、由奈の心に溜まり続けていた黒い泥のような疑いが、彼女の指を動かしたのだ。画面に表示されていたのは、仕事用のフォルダ一覧。『プロジェクト資料』『経費精算』といった文字の中に、一つだけ妙なものがあった。
フォルダ名、『キマイラ』。
ギリシャ神話の、色々な動物が混ざった怪物。夫らしい、気取った名前だ。胸騒ぎを覚えながら、由奈はそれを開いた。
中には、たくさんの写真と、一つのメモ。
指先が凍りついた。写真に写っていたのは、見知らぬ若い女だった。それだけなら、まだよかった。だが、その場所は、紛れもなくこの家だった。
一枚目の写真は、リビング。女が、ソファに飾ってある家族写真を手に持ち、あざけるように笑っている。
二枚目は、キッチン。女が、由奈が大切にしているお気に入りのマグカップで何かを飲み、舌を出している。
三枚目は、寝室。――夫婦のベッドの上で、下着姿の女がだらしなく寝そべっていた。シーツの柄は、先週由奈が新調したばかりのものだ。
血の気が引いていく。ここは、由奈が人生をかけて守ってきた、自分だけの城のはずだった。それが、土足で、いや、裸足で踏み荒らされ、汚されていた。
震える指で、『メモ』と書かれたファイルを開く。そこに記されていたのは、地獄だった。
『嫁の留守中、例の子を家に呼んだ。自分の城で他の女を抱くのは、思った以上のスリルだ。嫁のバスローブを着せた時は最高だった。まるで、俺の色に上書きしていくみたいで。』
『あの子は料理が上手い。嫁のメシがいかにワンパターンか、よくわかった。』
『特にウケたのが、嫁のパート代で買ったネックレスを、あの子が心から喜んでくれたこと。労働力が、ちゃんと快楽に変わっていく。嫁は、この仕組みを回すための、都合のいい歯車だよな。』
歯車。
その言葉が、由奈の思考を叩き割った。私は、歯車。この家を、この男の遊びを支えるための、ただの部品。私の愛情も、パートの疲れも、日々のささやかな努力も、すべてがこの男の「スリル」のために使われていただけ。
点と点が、線になった。
先月、車の助手席で見つけた覚えのないピアス。
三ヶ月前、カード明細にあった、知らないレストランの支払い。
半年前、深夜に鳴ったスマホに表示された『高橋』という名前。健人の知り合いに、そんな名前の人はいない。
これまで、由奈はそれらの違和感から目をそらしてきた。信じたかったから。愛する夫が、そんなありふれた裏切りをするはずがないと。だが、すべては真実だった。由奈が気づかぬうちに、この城は、ゆっくりと、しかし確実に内部から腐り落ちていたのだ。
「……ただいま」
玄関から、健人の声がした。由奈は、ハッと我に返り、慌ててタブレットの画面を消して元の場所に戻す。心臓がうるさいくらいに鳴り、全身から嫌な汗が噴き出す。
「どうした、由奈? 顔色が悪いぞ」
リビングに入ってきた健人が、心配そうな顔で由奈の額に手を当てようとする。その手を、由奈は反射的に振り払っていた。
「…っ、ごめんなさい。ちょっと、立ちくらみかも」
作り笑いを浮かべる。完璧な笑顔。いつも通りの、夫をいたわる妻の仮面。だが、その仮面の下で、由奈の心は、静かに、そして冷たく決意を固めていた。
この男を、殺す。
ただ殺すだけでは足りない。この男が一番「安全」で「安心」しきっている、この日常の中で、想像もつかないような死に方で終わらせなければ。
私が味わった屈辱を、その体すべてに教えてやらなければ、割に合わない。
その夜。
「お仕事お疲れ様。お風呂、沸いてるよ」
由奈は、いつもと変わらない優しい声で言った。
健人は「ああ、ありがとう」と答え、バスルームへと向かう。
彼が脱衣所に入ったのを確認し、由奈は自室のクローゼットの奥に隠していた箱を取り出した。中には、彼女がこの日のために用意した**「特別な」延長コード**が入っている。
見た目はどこにでも売っているものと変わらない。しかし、その内部には、由奈が施した細工が隠されていた。湿気と、ほんのわずかな衝撃。その二つがそろうと、中の安全装置が壊れ、凄まじい電気が流れるように作ってある。
彼女の研究ノートには、こう記されていた。
『彼はお風呂で必ずスマホを充電する。脱衣所は湯気でいっぱいになる。彼が風呂から出て、濡れた足で床を踏む。それが、合図。あとは、充電中の事故に見せかけるだけ』
由奈は、そのコードを手に、静かに脱衣所へ向かった。壁のコンセントに、ゆっくりとプラグを差し込む。そして、健人がいつもスマホを置く棚に、コードの先端をセットした。
「由奈? 何か用か?」
バスルームの中から、健人の声がした。
由奈はドア越しに、甘えるような声で答える。
「ううん、なんでもない。ゆっくり温まってね、健人くん」
リビングに戻り、ソファに深く腰掛ける。テレビの音量を少し上げた。
もう、舞台の準備は整った。
あとは、主役がこの城から、永遠に退場するのを待つだけだ。
由奈は、テーブルに置かれた家族写真を手に取った。写真の中の健人は、幸せそうに笑っている。その笑顔を、由奈は親指でゆっくりと撫でた。
第一話(改):聖域のヴァイオレーター
キッチンの白いタイルの上で、月島由奈(つきしま ゆな)は息を止めていた。目の前には、夫・神崎健人(かんざき けんと)のタブレット。いつもはパスコードで固く守られているそれが、珍しく開いたまま放置されていた。おそらく、急な電話で席を立ったのだろう。
好奇心ではなかった。それは、ここ数ヶ月、由奈の心に溜まり続けていた黒い泥のような疑いが、彼女の指を動かしたのだ。画面に表示されていたのは、仕事用のフォルダ一覧。『プロジェクト資料』『経費精算』といった文字の中に、一つだけ妙なものがあった。
フォルダ名、『キマイラ』。
ギリシャ神話の、色々な動物が混ざった怪物。夫らしい、気取った名前だ。胸騒ぎを覚えながら、由奈はそれを開いた。
中には、たくさんの写真と、一つのメモ。
指先が凍りついた。写真に写っていたのは、見知らぬ若い女だった。それだけなら、まだよかった。だが、その場所は、紛れもなくこの家だった。
一枚目の写真は、リビング。女が、ソファに飾ってある家族写真を手に持ち、あざけるように笑っている。
二枚目は、キッチン。女が、由奈が大切にしているお気に入りのマグカップで何かを飲み、舌を出している。
三枚目は、寝室。――夫婦のベッドの上で、下着姿の女がだらしなく寝そべっていた。シーツの柄は、先週由奈が新調したばかりのものだ。
血の気が引いていく。ここは、由奈が人生をかけて守ってきた、自分だけの城のはずだった。それが、土足で、いや、裸足で踏み荒らされ、汚されていた。
震える指で、『メモ』と書かれたファイルを開く。そこに記されていたのは、地獄だった。
『嫁の留守中、例の子を家に呼んだ。自分の城で他の女を抱くのは、思った以上のスリルだ。嫁のバスローブを着せた時は最高だった。まるで、俺の色に上書きしていくみたいで。』
『あの子は料理が上手い。嫁のメシがいかにワンパターンか、よくわかった。』
『特にウケたのが、嫁のパート代で買ったネックレスを、あの子が心から喜んでくれたこと。労働力が、ちゃんと快楽に変わっていく。嫁は、この仕組みを回すための、都合のいい歯車だよな。』
歯車。
その言葉が、由奈の思考を叩き割った。私は、歯車。この家を、この男の遊びを支えるための、ただの部品。私の愛情も、パートの疲れも、日々のささやかな努力も、すべてがこの男の「スリル」のために使われていただけ。
点と点が、線になった。
先月、車の助手席で見つけた覚えのないピアス。
三ヶ月前、カード明細にあった、知らないレストランの支払い。
半年前、深夜に鳴ったスマホに表示された『高橋』という名前。健人の知り合いに、そんな名前の人はいない。
これまで、由奈はそれらの違和感から目をそらしてきた。信じたかったから。愛する夫が、そんなありふれた裏切りをするはずがないと。だが、すべては真実だった。由奈が気づかぬうちに、この城は、ゆっくりと、しかし確実に内部から腐り落ちていたのだ。
「……ただいま」
玄関から、健人の声がした。由奈は、ハッと我に返り、慌ててタブレットの画面を消して元の場所に戻す。心臓がうるさいくらいに鳴り、全身から嫌な汗が噴き出す。
「どうした、由奈? 顔色が悪いぞ」
リビングに入ってきた健人が、心配そうな顔で由奈の額に手を当てようとする。その手を、由奈は反射的に振り払っていた。
「…っ、ごめんなさい。ちょっと、立ちくらみかも」
作り笑いを浮かべる。完璧な笑顔。いつも通りの、夫をいたわる妻の仮面。だが、その仮面の下で、由奈の心は、静かに、そして冷たく決意を固めていた。
この男を、殺す。
ただ殺すだけでは足りない。この男が一番「安全」で「安心」しきっている、この日常の中で、想像もつかないような死に方で終わらせなければ。
私が味わった屈辱を、その体すべてに教えてやらなければ、割に合わない。
その夜。
「お仕事お疲れ様。お風呂、沸いてるよ」
由奈は、いつもと変わらない優しい声で言った。
健人は「ああ、ありがとう」と答え、バスルームへと向かう。
彼が脱衣所に入ったのを確認し、由奈は自室のクローゼットの奥に隠していた箱を取り出した。中には、彼女がこの日のために用意した**「特別な」延長コード**が入っている。
見た目はどこにでも売っているものと変わらない。しかし、その内部には、由奈が施した細工が隠されていた。湿気と、ほんのわずかな衝撃。その二つがそろうと、中の安全装置が壊れ、凄まじい電気が流れるように作ってある。
彼女の研究ノートには、こう記されていた。
『彼はお風呂で必ずスマホを充電する。脱衣所は湯気でいっぱいになる。彼が風呂から出て、濡れた足で床を踏む。それが、合図。あとは、充電中の事故に見せかけるだけ』
由奈は、そのコードを手に、静かに脱衣所へ向かった。壁のコンセントに、ゆっくりとプラグを差し込む。そして、健人がいつもスマホを置く棚に、コードの先端をセットした。
「由奈? 何か用か?」
バスルームの中から、健人の声がした。
由奈はドア越しに、甘えるような声で答える。
「ううん、なんでもない。ゆっくり温まってね、健人くん」
リビングに戻り、ソファに深く腰掛ける。テレビの音量を少し上げた。
もう、舞台の準備は整った。
あとは、主役がこの城から、永遠に退場するのを待つだけだ。
由奈は、テーブルに置かれた家族写真を手に取った。写真の中の健人は、幸せそうに笑っている。その笑顔を、由奈は親指でゆっくりと撫でた。
「さようなら、私の歯車」
その時だった。
バスルームの方から、**バチィッ!**という、何かが弾ける鋭い音と、直後に重いものが倒れる鈍い音が、微かに、しかしはっきりと聞こえてきた。
由奈は、笑っていた。涙を流しながら、声も立てずに、ただ静かに笑っていた。
私の城を汚した侵入者への、完璧な罰が下ったのだ。
その時だった。
バスルームの方から、**バチィッ!**という、何かが弾ける鋭い音と、直後に重いものが倒れる鈍い音が、微かに、しかしはっきりと聞こえてきた。
由奈は、笑っていた。涙を流しながら、声も立てずに、ただ静かに笑っていた。
私の城を汚した侵入者への、完璧な罰が下ったのだ。
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