第26話

 蒼穹から降り注ぐ陽光の雨を全身に浴びると、心にできた不安定な暗闇が紛れてしまう気がする。あるいは、より夏の切なさが浮き彫りになって歩む足に力が籠る。

 用水路の傍らを歩いていると、帽子を被り水筒をぶら下げた子どもたちが元気よく駆けていく。

 あの時、二人で歩いた道のりを、あの時と変わらない暑さの中、一人で過ぎる。

 途中の自販機で麦茶を購入して、それを一気に呷ると清涼感が一時的に全身を支配した。それからまた、夏の中を歩き続ける。

 やがて漆喰で塗られた塀が見えてきて、奥に立派な本殿が姿を現した。いつの日か訪れたそのお寺は、土曜日だからだろうか、先日よりも幾分来訪者が多いように映った。


 といっても、境内はそれなりに広く、人で溢れているという印象はない。セミの声と涼やかな風が吹く砂利道を歩いて、目的の場所へと向かう。

 階段を昇り、小高い丘に設けられたそこには墓石がずらりと並んでいた。線香の香りが漂っていて、少しだけ気が引き締まる。

 入口にあった地図を頼りに、そこへと向かう。お墓参りをしに来ている人たちとすれ違って、幾つかの墓石を過ぎていく。

 そして、それを見つけた。


『化野 幽ノ墓』と、そう刻まれている墓石の供物台には、誰かが既にお参りしたのか、線香が供えられていて、ゆっくりと薄く白い煙をくゆらせている。

 周囲には誰もいない。当然、化野の姿も。

 期待していたわけじゃない。視えなくなったことをどうしても諦めきれなかった結果、縋れる場所がここしかなかったというだけの話だ。

 それも最早、潰えてしまったわけだけど。

 手を合わせて、拝む。せめてどこかで、安らかに過ごしていてくれと、そう心にも思っていないことを願い、思う。

 いつまでそうしていただろうか。こうしていれば化野がまた見つけてくれるのではないかと、悪あがきをして目を瞑るフリをしていつまでも佇む。

 何度目か、汗を拭うように吹く風の後、ふと近くに誰かがいる気配を感じた。


「……化野?」


 違う、と。そう思いながらも、ついそう口ずさんでしまっていた。そうして振り返った視線の先、どこかで見覚えのある女性が訝しい表情で佇んでいた。

 太陽の光を受ける茶色の髪は後ろでまとめられていて、白いシャツにデニムパンツを身に纏う彼女は、気の強そうな瞳でこちらを睨んでいる。

 そうだ。確か化野と映画館に行った日、喫茶店で見かけた女性ではないか。あの時はスーツ姿だったからすぐには気がつかなかった。

 その女性がいったい何の用事だろうか。尋ねようと、口を開いた矢先、女性が言葉を投げてきた。


「あんた、幽の知り合い?」


 不躾とも取れる物言いにムッとするものの、向こうから話題を提供してくれたのでそれに乗っかることにする。


「そうですけど……、そう言うあなたは?」


「幽の元クラスメイトよ。……というか、あんたが幽の知り合いなわけないでしょ。噓つくならもっとマシなのを吐いた方がいいわよ」


 その女性の瞳が明らかな異物を見るそれに変わった。本来、拒絶を示すその態度に怒りや悲嘆を抱くものなのだろうけど、僕の胸中に湧き起こったのは疑問だった。

 何故噓つき呼ばわりされないといけないのか。何故彼女はここまで機嫌が悪そうなのか。それら一つひとつを丁寧に訊く前に、僕は言葉を発してしまっていた。


「……なんで、僕と化野が知り合いじゃないなんて言えるんですか?」


「は?」


 まさか、聞き返されるとも思っていなかったのか。女性は唖然とした顔で僕を見る。寧ろそのリアクションをしたいのは僕の方だったけど、僕が何かを言う前に彼女は溜息を吐いた。


「いや、ありえないから。あたしは小学校から、幽と一緒だったけど、あんたみたいな親戚がいるなんて聞いたことないし」


「親戚じゃありません。……友達です」


「じゃあ尚更ありえないでしょ。どう見てもあんた、あたしたちと同年代には見えないわよ。いつ、どうやって幽と知り合ったって言うわけ?」


 呆れた様子で首を横に振られる。敵意、とも違う。化野のことに対して、距離を無理やりに取ろうとしているようで、あからさまに壁を作られていると感じる。

 きっかけを語るのは簡単。ただ、そもそも話を聞くつもりもない相手に対して、何を伝えても無駄だろうと思ってしまう。

 あるいは。

 そんな相手だからこそ、荒唐無稽な話をしてもいいか、と。半ば自棄になってそう結論付けた。


「七月十日に出会ったんです。――幽霊の、化野に」


 だから誠実に、後ろめたさも何もなく、素直にそう答えた。

 丘の上にいるからだろうか、夏なのに爽やかな風が吹いて、不快な暑さは遠くに感じる。

 自然に、淀みなく放たれた僕の言葉に、女性はその整った柳眉を吊り上げて不信感をより強めていた。


「……何それ」


 冗談として笑い飛ばされるわけでもなく、かといってふざけるなと怒られるわけでもない。

 目を見開きながらも、驚きとはまた違う彼女の様相はどちらかと言えば、混乱。理解が追いついていない様子で、一歩距離を詰められる。


「なんであんたみたいなやつに、あの子が現れるのよ!?」


「……いや、詳しくは知りませんけど――」


「ほら、やっぱり嘘なんじゃない」


「嘘なんかじゃありません。――化野は、確かにまだいます」


 自分のその言葉に、僕自身がドキリとする。本当に化野はまだいるのだろうか。もう成仏して、この世にいない可能性もある。それならそれで、きっと良いことなはずだけど、言いようのない不安が胸中に芽生えてしまって、全身に重く圧し掛かった。

 対して、自信満々に言い切った態度が気に食わなかったのか、女性は息を荒立てて僕を睨む。


「それじゃあ幽がどんな子か、知ってるの?」


「え?」


「何よ、答えられないわけ? 会ってたんでしょ?」


「そりゃあ、会ってましたけど……」


 いきなり特徴を述べろと言われてもすぐには出てこない。かと言って、否定されるのも癪だ。

 僕は思いつく限り、化野についてのことを挙げていく。


「僕より少し背が低くて、髪は薄いベージュのボブヘアー。私立高校に通う一年生」


 初めは屋上で出会った。目に痛いほどのオレンジ色に世界が染まる中、すぐに崩れてしまいそうな心配を描いたその表情をよく憶えている。

 僕が死にそうな顔をしていたせいか、屋上にいたというシチュエーションも相まって、変に勘違いさせてしまった。その時の彼女の慌てた姿と、同時に見せた安堵の顔が、印象に強く残っている。


「コロコロ表情が変わる楽しい人だなって思いました。あと、他人に対して心配してくれて、そのために見ず知らずの人間に声を掛けられる良い人だな、とも」


 幽霊だと言われてそれを試してみて、本当にモノを体がすり抜けていった。正直興味半分、自分の都合半分で彼女と接していたけどそれは自分に対しての言い訳で。

 その時から僕は、どこか憧れていたんだと思う。


「彼女は幽霊だって言ってたけど、でもそんなことは関係なくて……。本当に、ただそこに化野がいるのは事実で、それが当たり前で……」


 他人に優しい化野がどうしてまだこの世に残っているのか。それを知るために様々な場所を訪れた。


「困ったような笑顔をよくしてました。感情豊かで、人のことに敏感で――」


 川に行って、彼女と夏を浴びた。映画を観に行って、彼女の嗜好を知れた。海に行って、彼女の思い出を聞いた。


「ドキュメンタリー映画が好きで、でもプリクラを取りたがるぐらいには歳相応で、家族仲も良いみたいで、それを化野は楽しそうに喋ってくれて――」


 そして、天幕が降りる星の世界で、僕は彼女の想いに触れた。


「体が弱くて、でも星を観るのが好きで――、ずっと輝いていたかった、はずなんです」


 夜空に実る星のように、誰かに見つけてもらいたくて、死んだあとも光り続けていたくて、存在を残し続けていたくて。

 彼女はきっと、笑顔を湛えて僕の前に現れた。


「だから――」


「もう、いいわよ」


 気がつけば、目の前にいるその女性も苦しそうな顔をしていた。何故彼女がそんな顔をするのか、問わなくてもわかってしまう。多分、僕と同じ想いな気がしたから。

 憎いほどにどこまでも突き抜けていく青い空が、僕たちを嘲笑うように広がっている。風が撫でて過ぎ、線香の煙が流されて溶けていった。


「あの子がいたんだなって、十分わかったから」


 先ほどまであった威勢は既に凪いでいるようで。

 女性は胸を押さえて辛そうな顔のまま、歪な微笑を浮かべながら俯いて、そう言った。

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