第25話
そして今日。生温い部屋から抜け出して、身支度を整える。家の中は、直射日光が届かないおかげか忌避するほどの暑さはなく、けれど蒸された空気が確実に温度と湿度を上昇させているのを感じる。
リビングの窓を開けて、空気の入れ替えを行いながら空を見上げる。
雲による陰りもなく、容赦ない日差しが寝覚めの瞳を刺激する。このどうしようもない夏の暑さを一身に受けていると、ふと背後から声がした。
「……起きていたのか」
聞き慣れた声。けれど久々に聞いたような気がする。僕は空を見つめたままゆっくりと深呼吸をして、振り返る。
「久しぶり、父さん」
「ああ……」
リビングの扉の前に佇む、眼鏡を掛けた男性。ずっと前から起きていたのだろうか、髭も剃られて、スーツ姿ではないけど身なりはきっちりとした出で立ちだ。
白髪交じりの頭は今日は休みだろうに整髪料で固められていて、生来の真面目さが顕れている。
しばらくぶりに、顔を合わせた気がする。いつの間にか、顔の皺の数も増えているし、白髪の本数も多くなっていて、その残酷な時の進行が何故だか虚しくて、寂しさを感じさせた。
「出掛けるのか」
僕の装いを見てそう判断したのだろう。窓を開けたせいかセミの声がうるさくて、でもそれは気まずい沈黙を埋めてくれた。
「ちょっと、行かなきゃいけない場所があってさ」
「……そうか」
再び沈黙が顔を覗かせた。相変わらず不愛想で、何を考えているのか図るのが難しい人だと、そう思う。機嫌がいいのか悪いのか。話してもいいのか良くないのか。その判断は子どもの頃にはつき難くて、コミュニケーションも上手く取れていなかった。
でも今、しばらく止まっていた時計の針が動き始め、褪せた世界は色を取り戻している。その中で、僕は視界に映る父の姿を、ようやくまともに観ることができていた。
話し辛かったのは、そう感じていたのは、勝手に壁を作っていた僕のせいだ。
しっかりとその目をこちらに向けながら、何かを言いたそうに押し黙っている。父が何を話したいのかはわからない。ただそれが、叱責や拒絶を伴うものではなさそうなことは、なんとなくわかった。
「……じゃ、そろそろ行くから」
窓を閉めて、夏を塞ぐ。セミの声が遠くなって、家の中は静けさを取り戻した。父とすれ違って、玄関へと向かう。
「――明日汰も、来年は受験だろう」
靴を履いて、玄関扉に手を掛けた。すぐそこに待つ夏の気配をその手に感じ取りながら、背後から届く声に耳を傾ける。
何を言うのかと思えば、勉強のこと。そう、それがいつもの父だった。口を開けば勉強のことばかりで、試験の結果はどうだったとか、ちゃんと勉強しているのかとか。そうした遊びのない、乾いた話題が多い。
僕は、勉強が苦手だった。小さい頃からテストの点数もそれほど良くなく、それは中学に入っても同じこと。
だから、だろうか。何か違うことで父に認めてもらいたかったんだと思う。そして、市のコンクールで表彰された時、父からの祝いのメッセージを受けて僕は、この上なく嬉しかった。
今でも、追い求めるぐらいには。
「今年の冬に、休みを取ってな。……それで、冬休みに旅行に行かないか? 来年は、いけないだろう。それほど長期間は、無理だが」
呼吸が止まった、そんな感覚が確かにあった。
父がそんな提案をするなんて、あっただろうか。
いや、小さい頃だけど出掛けることは何度かあった。それは、ほとんど強制的に連れて行かされたようなものだったけど、でも確かに父と僕との間には、どこかへ出掛けたという思い出がある。
こんな形で話されるようなことはなかったから、どんな顔をしていいのかわからなくて。
扉と向かい合ったままで言葉を返す。
「……考えとくよ」
その声が、ちゃんと紡がれたかどうか自信はない。締め付けられるような嬉しさを胸に抱いて、扉を開いた。
「それじゃあ、行ってきます」
「……ああ、行ってらっしゃい」
父の言葉に背中を押されて、外に出る。真夏の日差しが身を焦がし、それから心もまた、熱に浮かされたように高揚していた。
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