第9話

 夏の暑さは嫌いじゃない。

 確かに汗もかくし、纏わりついてくるような熱気は不快だけど、それは僕に生きているという実感を与えてくれる。

 普段、死んだように物陰の隅でひっそりと生きているからか、そういった環境がもたらす変化は世界に住むことを認められているような心地がして、どうにも嫌いにはなれなかった。


 七月の最終週はさらにその暑さを加速させていて、歩いているだけで汗が滝のように流れ落ちる。

 そのアスファルトに吸い込まれていく汗を見て、さすがに考えを改めた。

 徐々に体力を奪う熱線に曝されていると、暑さを嫌うとか言っている場合じゃないことに。

 生きている実感以前に、死が近づいてきている。頭上で上機嫌に笑顔を振り撒く太陽は僕を中から丁寧に焼いた後、それを見てまた笑うのだろう。

 ただでさえ体力もないのだ。そもそもこんな殺人的な夏日に外出すること自体が間違っている。


 なら何故、夏休み期間に入ったにもかかわらず通学路を歩いているかというと、とある人物と待ち合わせをしているからだ。

 立ち並ぶ木々からセミの大合唱が響く中、やがて視界に映った校門前に佇む、一人の少女をその目に捉えた。

 太陽の光を跳ね返す眩い白のスクールシャツに、空の青が溶けだしたようなスカート。見えている肌は透き通るように繊細で、彼女の存在がより淡く映し出されている。

 人気のない学校の前に立つ、透明感のある女生徒。

 そこだけ切り取ればきっと目立つ存在であるはずなんだけど、どこまでいっても彼女からは存在感が感じ取れない。

 それが少しだけ切なくて、残念だなと感じてしまう。


「白鳥くん」


 それまで空を見上げていた彼女、化野は僕の姿を見つけるや否や、その顔をパッと花開かせて手を振った。

 相変わらず感情表現がわかりやすい人だと、そう思いながらなんとか化野の元まで辿り着く。

 幽霊だからだろうか。きめ細かいその肌には汗の一滴も見られない。涼しい顔をして、迎えてくれた彼女はそんな僕に首を傾げた。


「えっと、私の顔に何かついてますか?」

「いや、なんでも……。――というか、いくらなんでも暑すぎないか?」


 じろじろと人の肌を見ていたなんて口が裂けても言えない。無理やりに話題を変えたものの、化野は特に気にも留めていない様子でそれに同意してくれる。


「白鳥くんの顔、凄く険しいですもんね。私、暑さは感じないんですけど……、それだけで暑さが伝わってきます」


 哀れみとも取れる表情が突き刺さる。人を温度計代わりに使うのは止めてくれと言いたいところだったが、それすらも言えずに首を振る。


「早く行こう。ずっとこんなとこにいたら干からびる……」

「そうですね!!」


 彼女は頷いて歩きだして、僕はその後ろを着いていく。

 校門前から伸びる通学路を逸れて住宅地へと入ると、子どもたちが駆け抜けていった。こんなに暑いというのに、それをものともしない様子で追いかけっこに興じているようだ。


「というか、化野。お前、ちゃんと学校の外に出られるんだな」

「ふふ、驚きました? こう見えて色んなところに行けるんですよ。この辺だと川とか山とか」

「そういうものなのか……。というか、この辺り住宅街以外は川と山しかないだろ」


 幽霊という存在が、その場に縛られているという印象があったから、こうして一緒に歩いているということに違和感はある。けれど当の本人はというとそんなこと気にもしていない様子で、楽しそうに前へと進んでいた。

 なんとなく、彼女と出会ってから幽霊に対するイメージが変わりつつある気がする。幽霊を視るなんてことは後にも先にも、彼女以外ないだろうけど、自分が築き上げてきた認識が上塗りされていく感覚は、どこか新鮮で面白く感じた。


「それにしても、良かったです」

「ん? 何が?」


 閑静な住宅地の中、前を歩く彼女が体をこちらへと向けてはにかんでいる。一体何が良かったというんだろう。暑さで半ば頭が回らない中、化野は山に流れるせせらぎのような、非常に透明感のある表情を浮かべた。


「期末テスト。赤点じゃなかったみたいですから」

「あ~……」


 それに関して、思わず絞る声が重くなる。

 つい先日、期末テストがあった。結果だけ見れば彼女の言う通り赤点は免れている。その証拠として補習期間中である今、教室の中に囚われていないわけだけど、だからといって吞気にはしていられない。


「勉強が苦手なの、意外でした。赤点取ったら、会う時期がちょっと遅くなるかもって言われた時、そんな風に見えないのにって思っちゃいましたもん」

「苦手っていうか、どっちかって言うと勉強に使う時間を別の時間に充ててたって言った方が正しいけどな」

「別の時間? 趣味ですか?」

「まあ、趣味みたいなもんか。ずっと小説書いててさ。全然、結果とか残してないけど――」


 言葉としてはスラスラと出てくるのにそれを口に出した途端、苦みが広がり胸がちくりと痛んだ。だから、愛想笑いのような殻を纏ってやり過ごそうとした。

 けどそれは。

 彼女の驚きの声で、阻まれた。


「小説書いてるんですか!? え、凄い!! 読みたいです!!」


 立ち止まり、その綺麗な瞳に自分の姿が映る。

 純粋で、混じり気のない興味。勢いよく頭をぶたれたかのような鈍痛が、僕の思考を濁して惑わす。

 わかっている。彼女のそれが社交辞令じゃないことぐらい。いつも本気で言葉を口にする化野が、ここでだけ嘘を吐くとも思えないし、僕自身がそうだと思い込みたかった。

 だから飲み込んだ上で、期待に応えることにする。


「……わかった。じゃあ今度、文芸部に遊びに来てよ。そこならこれまで書いた本が山積みになってるからさ」

「ぜひ伺います!! というか白鳥くん、文芸部なんですか。文学青年ってやつでしょうか」

「そんな大層なもんじゃないって。それに今どき流行んないしさ、小説なんて」

「そうなんですか? 私は好きですけど」

「……いや、うん。現に部室に来るのなんて、僕ともう一人の先輩ぐらいだし」

「先輩、というと三年生ですよね。じゃあ受験勉強で、もう部からも卒業ですか?」

「普通はそうなんだけどさ。集中できるからって、しばらく文芸部にいるらしいんだ。だから何かあったらいつでも来ていいって、昨日そんなチャットが来てた」


 試験期間中もずっと通話で勉強を教えてくれた、先輩の姿を思い浮かべる。お世話になりっぱなしで、これまで何一つとして返せていない。卒業するまでに何か恩返しができればと思うけど、残念ながら今の僕にできることはないように思えて、動けない。

 少しだけ、化野の声が止んでいた気がするけど、やがていつもの明るい声がすぐ傍で鳴った。


「良い先輩そうですね!!」

「それは、僕もそう思うよ」


 呑気な返事に苦笑して、それに応えた。

 そうして再び僕たちは、炎天下のアスファルトを踏み締めながら、今日の目的地へと向かっていく。

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