第8話
今日も屋上に通じる扉は、客を出迎える暖簾のように抵抗なく開き、夕焼けの世界へと導いてくれた。
燃えるような赤色が校舎を染めて、暖められた外気が肉体に纏わりついてくる。今日は風も穏やかで、昼間の余熱を放つ床を踏み締めながら正面を見据えた。
薄いベージュに染められたボブヘアーに白い制服と青いスカート。フェンスへと寄りかかるように、背を向ける彼女の存在は確かにそこにいるはずなのに。
瞬き一つすれば夏の陽炎と同じように、その場で蒸発してしまうんじゃないかと思えてしまう。
喧騒混じる校舎内へと続く扉が、ゆっくりと閉まる。それで気がついたのか、彼女は解けそうな髪と柔らかいスカートを揺らして、振り返った。
「来てくれたんですね!! 白鳥くん」
「約束したからな。……もしかして、ずっと待ってたのか?」
暑い中悪いな、と。そう続けようとしたけど、幽霊に果たして温冷を感じ取れるかどうかに自信が持てなくて、結局その言葉は飲み込むことにした。
対して化野は、バツが悪そうな顔を見せたかと思えば、慌てたように首を横に振る。
「気にしないでください!! ここから見える景色は好きですし、それに楽しみだったんです。もう一度、君に会えるのが」
「……そっか」
向けられるのは柔和で落ち着いた微笑。
よくもそんな恥ずかしい言葉を面と向かって言えるなと、そう感心すると同時、寧ろ僕の方が恥ずかしくなってしまい、素っ気ない態度での返答となってしまった。
わかっている。彼女はその辺にいる人とは違う。もし自分が幽霊になって、有り余るほどの時間を手にしてしまったなら、退屈で死んでしまうことだろう。そんな最中、話し相手が登場すれば、誰だって再会を待ち望む。
互いの間に流れる空気に、グラウンドから湧き出る運動部の声が割り込んでくる。盛り上がりにも欠ける、野太い声援はやけに大きく聞こえてきてうるさい。
そんな状態が居たたまれなくなって、僕は話題を無理やり切り替えた。
「ほら、持ってきたよ。何が必要なのかわかんなかったから、上手くいくかどうかは保証しないけど」
「ありがとうございます!! 何を持ってきてくれたんですかね……!!」
餌を待つ犬のように食い気味に距離を詰めてくる化野に、一歩二歩下がりながらカバンを下ろして中を開く。
「とりあえず塩とお酒、はまあ料理酒だけど。あとは、部屋とかに撒く消臭剤? とかかな」
塩とお酒はともかく、消臭剤が除霊に効くという話は聞いたことがなかった。しかしネットで調べてみれば、それらしいことも書かれていたので一応持ってきてみた。
「重いのにありがとうございます!! あ、この料理酒、お母さんが使ってたのと一緒ですよ」
ニコニコと笑いながら指差していく化野に、微笑ましい感情に包まれるものの、ふとある疑問が浮かんだ。
「なあ、化野。化野って、成仏したいのか?」
用意したこれらのアイテムが彼女の存在を消すことに繋がるとは到底思えなかったけど、塩やら酒やらは大昔から除霊の際には使われていた。
もしもこれをきっかけに、この世から消えてしまったとしたら、彼女はその成仏に納得できるのだろうか。
「……うーん、どうなんですかね?」
そんな心配半分、不安半分の確認に対して、彼女は小首を捻って答えを彷徨わせる。
はぐらかしているわけではなさそうだ。化野は悩む素振りを見せたまま、顎に指を充てて虚空へと視線を向ける。
「私、自分がどうなりたいのかいまいちわかってないんです。成仏したいのか、それともこのままでいいのか……。あ、でもただ消えちゃうのは嫌なんで、今回の塩とかお酒も控えめにやってほしいです!!」
相変わらずどこかずれたようにそう言う化野。そもそも効果があるのかすら不明なものに、量とか関係ないと思うけど、それは言わないでおく。
「それじゃあ、まずは定番の塩を撒いてみるか」
「はい!! よろしくお願いします!!」
僕が小瓶タイプに詰め込まれた塩を持つと、彼女は意気揚々と胸を張り、目を瞑った。
「……いや、別に目を瞑る必要はないんじゃないか?」
「あ、それもそうですね!!」
その指摘にすぐさま彼女はその瞳を開いた。
振りかける必要があるので、必然的に彼女との距離が近くなってしまう。身長的に僕の方が大きく、化野を見下ろす形になると、顔と顔との間が狭まった。
大きく見開かれた瞳。茶色の虹彩が美しく、睫毛の細さがより鮮明に映る。
夕暮れ時。
この時間は逢魔が時と、そう呼ばれていたりもする。この世のモノではない存在と常世とが繋がり、非現実的な体験ができることもあるのだそう。なんて、どこかで読んだ漫画か小説の受け売りだけど。
今、ここにいる彼女は、果たしてこの世のモノではない存在なのか。それとも自分と同じ人間なのか。
これで全てが決まるわけじゃないけど、込み上がってくるのは期待と、高揚。否が応でも、心臓が高鳴りその拍動を早める。
「――じゃあ、いくよ?」
「どうぞ!!」
僕は小瓶を抓んで、意を決して彼女の肩辺りへと塩を振りかける。傍から見れば、女生徒に塩で下処理をしている危ない人にしか見えないけど、ここは誰もいない屋上。それに同意の上であることが、僕の心のタガを外していた。
塩の結晶が、雪のように注がれて、空気に溶けてすぐに見えなくなった。五回、六回。普通の料理に使う分にしては多めの分量を気の済むまで振りかけた僕は、手を止めて彼女の変化を待つ。
「……どう?」
見たところ、外見上での変貌は確認できない。そもそもこういうのってすぐに消えるのか、それとも徐々に薄れていくのかわからないから、どうなれば正解なのかもわかっていない点ではあるんだけど、とりあえず本人に今の調子を尋ねてみる。
「うーん……。調理される前の魚の気持ちがわかった気がします……」
「いや、そういうのが聞きたいわけじゃなかったんだけど……」
少なくとも天に召されることはなさそうだ。そのことに安堵したように溜息を吐くものの、本当にその反応が正しいかどうかは疑問だった。
「それじゃあ次は料理酒ですね!!」
「よくそんなにテンポよく進めるな……」
躊躇いなどはないのだろうか。下手をすれば彼女が望んでいなかった、ただ消えてしまう結果が訪れる可能性だってあるのに。
ともかく、希望を込めた瞳で見つめられたら、僕が躊躇しているわけにもいかない。
次に料理酒の蓋を開けて準備する。
「どこにかければいい? 手を出してくれればそこに注ぐけど」
「別にどこでも大丈夫ですよ!!」
「いや、どこでもはマズいんじゃないか? 臭いとか服に着いたら大変だし」
塩ぐらいなら別に影響はないだろうけど、料理酒となれば話は別だ。制服を汚すわけにもいかないという僕の配慮を、しかし化野は意にも介さない様子だ。
「大丈夫ですよ!! ほら――」
いつでも来いと言わんばかりに、彼女は両腕を広げてみせる。
しかし彼女と僕との間には決定的な覚悟の差がある。化野がどれだけ意志を強く僕に行動してほしいと願ったところで、肝心の僕の心が弱いせいで決断に遅れが生じてしまう。
ただ、目の前で仁王立ちをする彼女はどうやら意地でも動かない様子で、その綺麗な瞳を瞬かせて黙って見つめてくる。
「はあ……、わかったよ。どうなっても知らないからな?」
それは化野に言った言葉なのかそれとも自分に向けたものなのか。ともかく、僕は料理酒の入ったその容器を、勢いよく振り撒いた。
開いた蓋から飛び出た液体は、込められた力のままにその身で宙を泳いだかと思えば、やがて彼女の体をすり抜けて乾いた屋上の床に散らばった。
「え? あれ……?」
思わず、自分の目を疑ってしまう。どれだけ運動能力に自信がなくても、自分と化野との距離は手を伸ばせば触れてしまうほどしか開いていない。撒いた酒が当たらないわけがなかった。
日中に熱されていた床は、すぐにその撒き散らされた水分を奪い、なかったものにするけど、物的証拠が消えたとしても先ほど見た光景は記憶に残っている。
それが意味することは、ただ一つ。
「ね? だから言ったじゃないですか」
何故か得意げな化野に、僕はただ戸惑いの目を向けた。そうすることしかできなかった。
「――化野。……お前、本当に幽霊だったのか」
「……はい。私、死んじゃってるみたいで」
どんな表情をすればいいのか、彼女は迷ったのかもしれない。視線を彼方へと向けた後、困ったようにそう笑ってみせた。
そんな化野に、僕もまた戸惑ってしまっていた。
「正直に言うと、嘘だって思ってた」
この場にいるのは、僕だけで他に彼女の存在を観測できる人間はいない。触れることはできるし言葉も交わせるけど、それは生きている人間相手でもできることで、幽霊である証拠は何もなかった。
けど、それもたったいま崩れ落ちた。
目の錯覚でも、偶然液体が風に乗って彼女の後方へと落ちたわけでもない。正真正銘、飛ばした酒は化野の体をすり抜けていったのだ。
それを目の当たりにして、まだ別の可能性を模索しようとするほど、残念ながら僕の頭は良くはない。
彼女は幽霊だ。そう認めてしまった方が、きっと楽だ。
「幽霊なんて、信じてもらえるわけないですもんね」
「……普通は、そうかもな」
事実、彼女自身が幽霊だとそう告げた時もそれを信じていなかった。普通の反応。極めて一般的とも言えるリアクションをしていたはずだ。
だけど、それを昨日の一日だけで終わらせずに、今日もまた屋上で彼女とこうして会っている。
本当は、期待していた。
心の底では、望んでいた。
彼女が、幽霊であることを。
僕はそのことに目を瞑って、やがて再びその現実と向き合う。
「悪かったな、わざわざこんなめんどくさい方法で試すようなことして」
「え!? いえいえ、白鳥くんが謝ることなんて一つもありませんよ!! 全然、気にしてませんし!! それに私から言い始めたことじゃないですか」
バタバタと身振り手振りで慌ただしくしている彼女のその仕草には、優しさが多分に含まれている。
距離が近いかと思えば、化野はきちんと遠慮をして、こちらへは踏み込んでこない。今の僕にとって、それは有難くて救いでもあった。薄くて、彼女の心境に配慮していない思考を見透かされなかったことに安堵していると、申し訳なさそうな表情と共に化野が口を開く。
「でも、やっぱり除霊効果はありませんでしたね。こっちの消臭剤も試してみます?」
「……いや、もうこれは必要ないだろ。目的は僕が化野のことを幽霊だって信じることだったんだし」
「それもそうですね。万が一、成仏しちゃったら困っちゃいますし」
幽霊として過ごしている彼女にとって、成仏とは死を意味するのだろう。もう死んでいるという話はややこしいので置いておくとしてだ。
彼女はまだ、成仏はしたくないと言っていた。死を嫌うのは、生きている人間も同じこと。僕だってまだ何も成し遂げていないこの状況で、死にたくはない。
「化野って、何か思い残したことでもあるのか?」
そんな疑問が、ふと浮かんでは言葉として口に出ていた。
当然、様々な疑問はあった。
化野が何故死んだのか。死因はなんだったのか。
ただ、それを聞くつもりは僕にはなかった。
未練、というやつだろう。そういうのが彼女にあるのかは不明だったけど、彼女がこの世に留まるその理由は、何となく気になってしまった。
対して、化野はその目を伏せて、幾分声を小さくして応えてくれる。
「……すみません。私、自分が何をしたいのか、あんまりよくわからなくて……」
「ああ、いや。謝らなくていいって。でも、そっか……」
彼女も、迷っているんだ。行く先を見失って、ぼんやりと海を漂うクラゲのように浮かぶ。
自分と同じだ、と。失礼なことは承知で、そう思えた。
それと同時に、興味も湧く。
彼女の答えを見つけることは、小説のことで迷っている自分にとっても有意義なモノとなるんじゃないか。
外気の影響で汗が肌を伝っていく中、希望を見出した僕は体中が熱くなっていくのを感じる。
それは夏だからか。あるいは、見つけた抜け道に興奮しているからか。
どっちでもいい。
今の僕は、夏の夕焼けに浮かされているんだから。
「じゃあさ、思い残したことを一緒に探さないか? この世に未練があるから、成仏できないんだと思うし」
まるで誰もいない映画館で、羨むようにスクリーンへと手を伸ばすように。大きく見開かれた化野の瞳は、吸い込まれそうで、この空みたいに透き通っていた。
「化野さえ、良ければだけど」
「え、で、でも……!! いいんですか!? 私は、その、嬉しいんですけど……」
「僕が提案してるんだから、気にしなくていいって」
口角が上がってしまいそうになるのを必死に抑える様子の彼女に、僕もつられて笑ってしまう。
打算的だ。彼女のためだと思わせて、自分に利があることをしている、最低な人間だと、我ながら思う。彼女を通して自分も助かろうとする傲慢な自分が、醜く映ってしまう。
それでも、そうしないと僕は立ち上がれない。同じ舞台に立てない弱い人間であることを、理解してしまっている。だからこんな姑息な手段を取るしかないんだ。
「あの、その、白鳥くんの生きる時間を奪うのは、迷惑じゃ、ないんですか……?」
「……ちょうど夏休みに入るし、ただぼんやり過ごすよりも、幽霊と過ごす方が楽しそうじゃないか?」
「……そう――」
化野は咄嗟に自身の制服の袖を目元に宛がった。
その直前、彼女の目元が潤んでいたのを、つい見てしまう。
「……」
彼女がどれだけ一人で過ごして、彼女がどれほど話し相手に焦がれたか。僕にその気持ちはわからない。わかるはずもなかった。
かける言葉も見つからず、ただ沈んでいく夕陽と彼女を交互に眺めて、流れる時間に身を委ねる。
やがて、再び顔を見せた彼女のその目には、まだ水分が多く残っていたけど。
そのことを隠すように柔らかい笑顔を浮かべて、その事実を夕陽に溶かした。
「えっと、それじゃあよろしくお願いしますね!! 白鳥くん」
「ああ、こっちこそよろしく」
改めて僕は彼女と握手を交わした。
柔らかい手の感触が確かに伝わってくる。まるでそこに生きた人間がいるかのように思えるほどに繊細で、温かい。
こうして、未定だった僕の夏の予定は、幽霊の未練探しという非現実的な計画で上書きされた。
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