第3話『…私の髪が、遊んでいる…』
小説『ドワーフの初恋』
第三話:朴念仁、初めての世界を見せる
「うおおおおぉぉぉっ!!」
ガルドは、まるで岩石が転がり落ちるような勢いで、丘の斜面を駆け上がっていた。その背中では、人生(?)で初めてとんでもない揺れを体験しているメデューサが、悲鳴のような念話を飛ばしている。
『待て!揺れる!馬鹿力め、少しは静かに歩けんのか!』
「ははは!悪いな姉さん!嬉しくって、つい力が入っちまう!」
丘の頂上に着くと、ガルドは満足げに背負子を地面に下ろし、メデューサを世界の真正面に向かせた。
眼下には、緑豊かな森が広がり、その向こうにはキラキラと輝く湖が見える。空はどこまでも青く、白い雲がゆっくりと流れていく。
『……これが…』
メデューサの声は、震えていた。
何百年もの間、彼女の世界は洞窟の薄暗い天井と、苔むした祭壇だけだった。光といえば、天井の月長石が放つ、青白い、生きているのか死んでいるのか分からないような光だけ。
だが、今、目の前にあるのは、生命に満ち溢れた、圧倒的な色彩の世界だった。
『……太陽とは、こんなに温かいものなのか。風とは、花の匂いを運ぶものなのか』
「ああ、そうだぜ。いつも洞窟の中じゃ、ジメジメして寒かったろ」
ガルドはメデューサの隣にごろりと寝転がり、空を見上げた。
髪の蛇たちも、初めて見る広大な世界に興奮しているのか、あちこちを向いてシューシューと忙しない。一匹が、すぐそばに咲いていたタンポポの綿毛を見つけ、フッと息を吹きかけて飛ばして遊んでいた。
『…私の髪が、遊んでいる…』
メデューサは、信じられないものを見るように呟いた。
今まで、この蛇の髪は、呪いと恐怖の象徴でしかなかった。他者を威嚇し、石に変えるための忌まわしい存在。しかし、ガルドの隣では、まるで無邪気な子供のようにはしゃいでいる。
「姉さん、腹減ったろ。飯にしようぜ」
ガルドは持ってきた猪肉の燻製と黒パン、チーズを取り出し、二人(?)の間に広げた。彼は慣れた手つきで肉を切り分け、小さな一切れをメデューサの口元…ではなく、彼女の髪の蛇の一匹の口元へ持っていく。
「ほら、お前たちも食え食え」
『…私は、食べずとも生きていける。この呪われた身体は…』
「いいからいいから。美味いもんは、みんなで食った方がもっと美味くなるんだ」
ガルドに促され、蛇たちは再び食事を始めた。その様子を眺めながら、メデューサは静かに問いかけた。
『…ドワーフよ。なぜ、私を恐れない?なぜ、私に優しくする?私は、お前の仲間を何人も石に変えてきた、呪われた化け物だぞ』
その声には、長年の孤独が生んだ、諦めと悲しみが滲んでいた。
ガルドは、黒パンをむしゃむしゃと食べながら、事もなげに答えた。
「ん?ああ、入り口の石像のことか。あれは見事な出来栄えだったな。どんな名工が彫ったのかと思ったぜ」
『私が、やったのだ』
「知ってるさ。でもよ、姉さん。あんたは、好きでやったわけじゃねえんだろ?」
ガルドは、体を起こしてメデューサの顔をまっすぐに見た。
「あんたは、ただ一人で、静かに暮らしたかっただけだ。それなのに、人間やらエルフやらが、あんたを討伐だの、研究だのって押しかけてきた。だから、自分を守るために、仕方なくやった。違うか?」
『……』
メデューサは答えなかった。いや、答えられなかった。
誰も理解してくれなかった。誰も聞こうともしなかった、自分の真実。それを、この朴念仁なドワーフは、いとも簡単に見抜いていた。
「俺はな、石の声が聞こえるんだ」
ガルドは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「坑道にいると、鉱脈がどこにあるか、どっちが脆いか、なんとなく分かる。石が、教えてくれるんだ。…洞窟の入り口の石像たちも、言ってたぜ。『俺たちは欲をかきすぎた』ってな」
『……お前は、本当に変わったドワーフだな』
「よく言われる!」
ガルドはニカッと笑った。その屈託のない笑顔に、メデューサの心に張っていた氷が、また一つ、小さく音を立てて溶けていく。
その日の夕方。
ガルドは、夕焼けに染まる世界をうっとりと眺めるメデューサを背負い、洞窟への帰り道を歩いていた。
『…ガルド』
不意に、メデューサが彼の名を呼んだ。今まで「ドワーフ」としか呼ばなかった彼女からの、初めての変化だった。
「ん?なんだい、姉さん」
『…また、連れて行ってくれるか。…お前の、その玉座で』
「当たり前だろ!明日は湖に行こうぜ!魚が跳ねるのが、すげえ綺麗なんだ!」
ガルドは、天にも昇る気持ちで答えた。
背中から伝わる、愛おしい重み。その重さが、彼の生きる意味になりつつあることを、ガルドは確信していた。
洞窟に戻り、メデューサをいつもの祭壇にそっと降ろす。
別れ際、ガルドは思い出したように言った。
「そうだ、姉さん。俺の名前はガルドだ。あんたの名前は、なんて言うんだ?」
メデューサは一瞬黙り、そして、何百年ぶりに、己の名を口にした。
『……メデューサだ』
それは、世界が恐怖と共に呼ぶ名。しかし、ガルドの耳には、どんな宝石の名前よりも、美しく響いた。
「そうか、メデューサか!いい名前だな!じゃあな、メデューサ!また明日!」
手を振って去っていくガルドの背中を、メデューサはずっと見送っていた。
祭壇の根元に転がる、錆びた聖剣。かつて、彼女から全てを奪った勇者の剣。
その剣が、今日、初めて色褪せて見えた。
孤独な魔女の世界は、一人のドワーフによって、確実に色づき始めていた。
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