風呂上りの君と、君のお父さんと


「そろそろ出ましょうか。のぼせてしまいそうです」

「そうだね…」


 沈黙を破ったのは彼女のそんな言葉だった。金縛りが解けたように、僕の身体中に血の気が巡る感覚がした。


 お風呂上りの彼女の姿はTシャツとジャージ。

 何も知らない人から見れば、今からランニングにでも行くと思うだろう。

 足の動かない彼女にとっては皮肉な話だ。


 湯上がりの彼女は年相応の少女にしか見えなかった。

 だからこそ、そんな彼女を小説の題材にしようとする自分が、一番残酷なんじゃないかと胸が痛んだ。


 彼女をリビングのソファーに乗せ、彼女の部屋にあったドライヤーを手渡した。


「自分で出来そう?」

「今は腕を動かす分には問題ありませんから。

 ですがいいんですか?女子高生の髪の毛を触る機会なんてもう無いかもしれませんよ」

「…そうならないように頑張るよ」


 ドライヤーの轟音が部屋中に響き渡る。

 ただ不思議と騒音が心地よく思えた。

 それは今から彼女に聞かなければならないことから目を背けられるからだろう。


 髪を乾かす彼女の姿を、僕は直視できなかった。

 ただの生活の一場面のはずなのに、胸の奥をかき乱されるからだ。


 だがそんな時間も長くは続かない。スイッチが切られ、轟音が鳴り止んだ。

 彼女の使ったシャンプーの甘い匂いは、胸やけがしそうだった。


 僕はソファーの背を挟んで彼女と背中合わせになるように床に腰掛けた。


「そろそろ本題に入ってもいいかな」

「何をですか?」


 彼女は知っている、僕が今から何を聞くかを。

 だからこれは同意なのだ。今から互いに辛い思いをすることへの。


 僕は深く息を吸うと余計なことを考えるよりも先に言葉を出した。


「君のお父さんは一体いつからこの家に戻っていないんだ」


 彼女の父親がこの家に帰っていないことは、この家に訪れた瞬間に理解していた。

 どうして衣服が散らかっていたのか。どうして彼女はお菓子ばかり食べていたのか。どうして彼女は五日間もお風呂に入れなかったのか。


 そしてどうして彼女は父親の話を出した時にあれほど動揺していたのか。


「……確か一年は経っていなかったと思います」


 ドンっと床を叩く音が耳に響く。同時に手が痛んだ。僕が床を叩いたのだ。

 無意識のうちに、感情のままに。こんな気持ちは初めてだった。

 拳から肘にかけて痺れるような痛みが走る。けれど心の方がもっと痛かった。


「物には当たらないでください」

「ごめん……」


 ここは他でもない彼女の家。そして物に当たった所で解決しない問題だ。

 だけど行き場の無いこの感情を吐き出したかった。

 だから代わりに自分の手が痛くなるまで握りこぶしを作った。


「…なにか止む得ない事情があるんだよね?」


 僕は縋るような思いだった。

 きっと半年も病気の娘を置いていかないといけない理由があるのだと。たとえば彼女の病気を治せる医師を探しに海外に行っているとか。

 そんな甘い希望を抱きたかった。だが―――。


「お父さんは今、新しい奥さんと一緒に暮らしていますよ」

「っ―――」


 そんなことがあっていいのか、許されていいのか。病気で苦しむ娘を置いて、自分だけ幸せになっていいのか。

 僕にはまるで理解できないし、したくもない。

 どこまで彼女を不幸にさせれば気が済むのか。


「最低な親だ」


 僕は吐き捨てた。握られた拳は既に感覚がなくなっている。爪の食い込む感覚だけで、まだ手があることを証明していた。


 地獄に落ちればいい。感情のままに、怒りの感情が脳裏を侵略する。


「お父さんを悪く思わないでください」

「―――っ」


 どうして父親を庇うのかと、怒声を上げそうになった。だが寸前の所で思いとどまる。


 過呼吸になりそうだった。マラソンを走った後のような。だが血の巡り方は運動ではなく怒りから来るものだ。


 僕の父親も不器用で嫌いなところは多い。

 だけど自分の子供を放置して―――それも不治の病に冒されている子供を―――。


「それでも……君の父親なのか?」


「はい。大切なたった一人のお父さんです。

 ……悪いのは“わたしたち”の方なんですから」


 その言葉には、諦めとも、自己弁護ともつかない響きがあった。

 僕は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。


 だけど次の瞬間、怒りよりも別の感情――底なしの哀れみのようなものが胸に広がって、何も言えなくなった。

 


 それから程なくして僕は家路へとついた。

 その間もずっと考えていた。


 自分はこれからどうするべきなのか。


 彼女と父親との関係を知った。

 そこにはドラマや小説にあるような救いはなかった。

 身勝手で自分勝手に娘を置き去りにした男の姿しかなかった。


 彼女の足は既に一人では家の中すら満足に移動出来ない。

 そしてこれからもどんどん悪化していく。死んだ彼女の母親のように。


 そんな彼女のことを知ってもまだ、僕は本当に小説を書きたいと思っているのだろうか。

 彼女を殺す本を書いても良いと思っているのだろうか。


 これは思考実験ではない。

 現実に目の前で起きていることだ。選択を間違えれば必ず誰かが不幸になる。

 それが僕なのか、彼女なのか、他の誰かなのかはわからない。


 人間として生きるべきか、小説家として死ぬべきか。

 その問いを抱えたまま、僕は暗い夜道を歩き続けた。


 街灯に照らされたアスファルトに、自分の影だけが伸びていた。

 まるで答えのない問いのように、どこまでも。

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