病の進行―――

彼女から呼び出しがあったのは五日後だった。

夏休みの開始を告げる式を終えたあと、僕は彼女の家へと直行した。


彼女の家には迷わず行くことができた。

次にここへ来るときは一人だろう――そんな予感がしていたからだ。


かつて幸福だった家族の家。

だが今は夏だというのに窓もカーテンも閉め切られ、室外機が音を立てて回っている。どうやら家主はいるらしい。


チャイムを鳴らすと、軽快なメロディだけが流れた。

しかし出迎えどころか、室内からは物音ひとつしない。


代わりにスマートフォンが震える。


「もしもし、今家の前に来ているけど」

「メリーさんですか。鍵は開いているので入ってきてもらえますか?」


彼女らしい会話のセンスだ。

同時に、覚悟が要ることも理解した。


「ごめんください」


扉はできるだけ最小限に開けた。

近所の人に泥棒だと思われるかもしれないし、何より彼女の姿を無関係な人に見せたくなかった。


「何して遊んでるんですか。さっさと入ってきてくださいよ。

 それとも何か企んでたりします?」

「……わかったよ」


玄関の右側の扉から、彼女がひょっこり首だけを出した。

予想通り、とても低い位置から。


「……それで、これは?」

「見ての通り、先輩を呼んだ理由ですよ」


部屋に入った瞬間、息を呑む。

彼女の家は、ほとんどゴミ屋敷と化していた。


床には服が散乱し、開封前後のお菓子の袋が混ざって転がっている。

カーテンは閉め切られ、エアコンはガンガンに効いている。

ここだけが生活のすべて――そう一目でわかった。


「もしかして先輩、掃除できないタイプですか? 

 今どきは夫婦で家事分担ですよ?」

「失礼な。片付けと洗濯ぐらいはできるよ」


深くため息をつく。掃除のために呼ばれたのは別にいい。

小説のためにも、ヒロインにはできるだけ清潔な部屋で過ごしてもらいたい。

悲劇のヒロインがゴミに埋もれて死ぬのは、さすがに盛り上がりに欠ける。


なにより、彼女が掃除だけを目的に僕を呼んだわけじゃないことくらい、わかっている。


「一つだけ質問させてほしい」

「トイレにはちゃんと行ってますよ。女の子ですから」

「足は……いつから、そこまで動かないんだ?」


彼女は目をそらした。


ソファには座らず、床に――いや、置かれていると言った方が正確だろう。

足は乱暴に投げ出されていた。


「……先輩と別れた日からですよ。

 あれからどんどん酷くなってきて、今は見ての通りです」


別れたとき、彼女は支えがあれば歩けた。

正直、少し休めば回復すると思っていた。

僕の認識は、どこまでも甘かったらしい。


今では地べたを這わなければ動けないほどに進行している。

その証拠のように、掌と膝だけが不自然に赤く擦れていた。


「なら、どうして――」


憤りが口をつく前に、彼女がかぶせる。


「先輩、質問は一つだけですよ」

「……」

「この部屋の掃除が終わったら、そっちの質問にも答えてあげます」


彼女はニタッと笑う。

不敵なんて言葉が似合わない状況なのに、いつもの調子だった。


込み上げる怒りは、ゴミ袋へ詰め込むことで発散した。

終われば彼女が話す――それでいい。


一時間ほどで、人が住める空間になった。



「ありがとうございます。おかげで快適に過ごせそうです」


彼女は相変わらずソファの前に陣取り、お菓子を食べている。

僕の視線に気づいたのか、「昼食です」とだけ言った。比喩ではないのだろう。


掃除の最中、気づいたことがある。

この家には手すりが多い。おそらく母親のために取り付けたものだ。

おかげで彼女も、どうにかトイレに行けていたのだろう。


「もう一つだけお願い、聞いてもらってもいいですか?」

「……何?」

「お風呂に入りたいです」


思わず固まった。冗談かと思ったが、声はかすかに震えていた。


確かに――少し匂っていた。今まではタオルで体を拭いてごまかしていたのだろう。気持ちはよくわかる。


彼女の言う「お風呂に入りたい」は、ただ湯を張ることじゃない。腕を貸し、体を支え、裸の彼女に触れることだ。男としての羞恥と、彼女の願いがせめぎ合い、喉がからからに乾く。


「きっと私の身体は小説に役立ちますよ」

「……」


悪魔の囁きのような一言に、抗う術はなかった。



「どうして人は雨が嫌いなのに、お湯はこんなにも気持ちいいんですかね?」

「知らないよ。黙って浴びてなさい」


シャワー音に混じって軽口が飛んでくる。扉一枚の向こうで、彼女は裸だ。


お姫様抱っこで脱衣所まで運んだあと、浴室で服を脱いだらしい。僕はまだ彼女の裸を見ていない。まだ――


「それでは、すみませんがお願いします」

「本当に入るの?」

「もちろん。私は“お風呂に入りたい”って言いましたので」


つまり、湯船だ。

否応なしに彼女の裸を見ることになる。


内心ドキドキしながらも、やれやれという顔で、すりガラスの扉を開けた。


風呂椅子に座る彼女が、背中を向けている。


「なっ――」


思わず絶句した。裸だからではない。


後ろ姿からわかるほど、筋肉は削げ落ち、必要最低限の機能だけが辛うじて残っている。


肌の白さは「色白」なんてやわらかい言葉では済まない。

シャワーを浴びた直後なのに、血の気がない白だ。


そして滑らかな皮膚にはそぐわない異物――炎症の痕がいくつも、衣服の奥に隠れていた現実を無言で指し示していた。


黙って立ち尽くす僕に、彼女が首だけ振り返る。


「もしかして欲情しましたか?」


ニシシ、といたずらっぽく笑う。


できるわけがない。

僕の中にあったのは同情と、彼女が確かに死へ向かっているという現実感だけだ。


「あの、そろそろ湯船に入れてもらってもいいですか。

 さすがに恥ずかしいので」

「ああ、ごめん。触るよ」


ここへ運んだときと同じように、そっと抱き上げる。

素肌が密着する。彼女のすべてが視界に入る。


それでも彼女を性的に見ることはできない。

そんな目で見たら、僕は自分の罪――「彼女を殺す本」を面白おかしく書いてきた罪悪感に押しつぶされる。


「ありがとうございます。

 先輩のおかげで、足湯が人生最後のお風呂にならずに済みました」


彼女はうっとりと「極楽極楽」とつぶやいた。

 安心して――いや、裸の異性が目の前にいるという居心地の悪さに負けて、その場を離れようとする。


「逃げないでくださいね。

 うっかり、あっさり死んじゃうかもしれないので」

「……わかってる。君をこんなところで死なせはしないよ」

「というわけで、話し相手をお願いします。これでも今、おセンチなんです」

「死語だよ、それ……」


諦めて、風呂椅子に腰を下ろす。

ズボンが濡れて不快だが、今は彼女を優先だ。


「しかし、まさかこんなに早く足が動かなくなるとは思いませんでしたよ」

「そうだね。僕もだよ」


僕は自覚が足りなかった。病気の進行に対する、現実の直視が。


「最後に旅行、行きたかったなぁ……」

「……」


どうしてこの言葉を「浴室で」口にしたのか、わかった気がした。

彼女はずっと気丈に振る舞っていた。


髪も頬も、シャワーでびしょ濡れだ。

だから今、彼女がどんな表情をしているのか、僕にはわからない。


「先輩は『魂』って、何だと思いますか?」


突拍子もない問いに聞こえたが、声には妙な切迫があった。


「もし私が――記憶を失い、代わりに偽りの記憶を信じ込んでしまったら。

 先輩は、それでも私を同じ人間だと思えますか?」


唐突なようで、地続きの会話だ。

足が動かない今、その先にあるのは病の進行――いずれ記憶さえ失われる。

最終段階は認知機能の喪失。

認知症のように記憶の齟齬が起きても、おかしくない。


「僕は……同一人物だと思うよ」


そう答えるしかなかった。

否定したら、将来の彼女を“化け物”と呼ぶみたいで。


「私は、自分を忘れる人間を、同一人物だとは思いません」


その一言だけが、浴室に重く残った。

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