少女と車いす


 次の日の朝、僕はまた彼女の家へと訪れていた。


 呼び鈴を鳴らすと同時にポケットの中から鍵を取り出した。

 既に元の持ち主は使うことが出来ないため僕が譲り受けていた。


 リビングへと入るとソファーの前に座る彼女はこちらへと視線を向けた。


「勝手に入ってもいいですよ。

 その為に鍵を渡したんですから」

「そういうわけにもいかないよ。

 君にだって心構えをする時間ぐらい必要だろ」


 彼女は僕の言葉にうーんと悩み「まぁ、そうですね」と納得したように視線をテーブルに向けた。


 テーブルの上には一冊のノートが閉じられた状態で置かれていた。

 更にその上にはボールペンが置かれている。


「なにか書いていたの?」

「エンディングノートですよ。

 もうすぐ手も動かなくなるでしょうから、今の内に書いておこうと思って」


 彼女がそれを書くのは、あまりにも虚しかった。

 一体誰に残すつもりなのだろう。


 母親は死に、父親には見捨てられ、僕に小説を書くように頼んだ彼女は。

 誰にどんな言葉を残すつもりなのだろうか。


「読みたいですか?」

「……いや、いいよ」

「そう言うと思っていました。

 それに今は“先輩”には読ませてあげませんよ」


 その返答は僕に残したノートであることを意味した。

 一体何を遺言として書き残すのだろうか。


 僕を責め立てる言葉であればどれほど救いがあるのだろうか―――だが違うのだろう。


「私が読んでもいいって言ったら、読ませてあげますよ」

「……わかった」


 僕は頷く。どれだけ辛いことが書いてあっても読まなければならない。

 それが小説の為であり、僕の贖罪だ。そんなことを考えていた。


 だからこそ、違和感に気づくことはなかったのだろう。

 もしくは彼女が功名に話題を逸らした為だろうか。


「それよりご飯を食べに行きませんか?お腹ペコペコなんですよ」

「…そっか、気づくべきだったね」


 自分の不注意さに申し訳なく思えた。

 彼女はここ最近まともな食生活を送れていない。

 お菓子でずっと飢えを凌いでいたのだから。


「ちょっとコンビニでご飯を買ってくるよ。何か食べたい物はある?」

「待ってください。一緒にいきましょうよ」

「……さすがに君をおぶってコンビニには行けないよ」


 最寄りのコンビニまで近いとは言え、流石に背負って買い物をするほど僕は筋肉にも体力にも自身は無い。

 何より彼女のこんな痛々しい姿を周囲に知られたくなかった。


 だが彼女はいつも通り自信満々に「ちっちっち」と指を左右に揺らし、ドヤァという顔をしていた。


「二階の突き当りの部屋に行ってみてください。

 こんなことも有ろうかとあるものを用意してます」

「そっか、君のお母さんの車椅子があるか」

「……

「えっと…どうしたの?」

「いえ、先輩の推理力と空気の読めなさに呆れているだけなので、

 さっさと取ってきてください」

「……」


 そういえば以前にこんな反応をされたのを思い出した。

 それならと、僕は一度咳払いをして喉の調子を整えた。


「イッタイ、ナニガアルンダロウ。ボク、ワカラナイ」

「なんですか、その胡散臭ささ!! 絶対おちょくってますよね!!」


 彼女の強烈なツッコミと非難の声から逃げる為に、僕は二階へと上がることにした。



 二階の突き当りの部屋。

 ぶら下げられた木製のネームプレートには『おかあさんのへや』と書かれていた。


 僕はノックをした。中に誰もいるはずがないのに。

 それはある意味でお参りにも似た感覚だった。

 神聖な空間に立ち入る為の合図、そんな気持ちだった。


 ドアを開ける。当然中に人影はない。湿気の匂いがするものの、埃っぽさは感じられない。彼女が定期的に掃除をしていたのだろう。


 室内は整理整頓されているものの、生活感というものは感じられない。

 まるでショールームにいるかのように、展示されているという表現がしっくりとくる部屋だった。


 全部母親の形見の品なのだろう。衣類、電子ピアノ。棚には料理や育児に関する書籍。

 壁には子供が描いたような、下手だけど愛嬌のある似顔絵が飾られている。


 それらの品々は、ある一定の時間で止められたかのように年代が統一されていた。

 ここには、病気になる前の日常がそのまま閉じ込められている。

 しかもこの部屋は2階。病気での生活にはあまりに適さない位置だ。


 そして隅には、目的の品である折り畳み式の車椅子もあった。


 僕が車椅子を取ろうとした時、それが目に入る。

 机の上に、不自然に倒された写真立て。


 どうするか悩んだ。いくら故人とはいえ、守られるべきプライバシーはあるだろう。それでも好奇心が勝った。

 どうしても知りたかった、確かめる必要があった。


「…そうだよな」


 そこには二十代そこらの男女と幼い少女の姿があった。

 子供の頃の彼女と両親だろう。女性は自分の足で立っていた。

 多分まだ病気になっていなかったのだろう。


 笑い合っていた。幸せな時間を切り取っていた。

 そして永遠に続くと思っていたに違いない。


「いつまで探しているんですか?もしかして違う部屋に入りました?

 あっ!!もしかして私の下着とか漁ったりしてます?」


 一階から彼女の声が聞こえた。思っていたよりも長く考え込んでいたようだ。


「丁度見つけたところ」


 写真を元と同じように倒し、僕は車椅子を持ち上げた。


 部屋の扉を締める前に、一度黙祷をした。

 彼女の母親の死を悲しむように。そして天国から彼女のこれからを幸福にしてもらうように。

  


 玄関で折り畳みの車椅子を広げる。

 左右に引っ張り留め具で固定するようなタイプ。


 車椅子を使ったことのない僕でも感覚でわかる程度には簡易的なものだった。


 見た所多少錆こそあるものの、操作するのに不自由するものではなさそうだ。

 タイヤを前後に動かすが問題なく回っている。壊れてもいなさそうだ。


「懐かしいですね」

「わぁっ!!」


 思わず声が上がってしまった。

 這うようにして現れた彼女は、幽霊そのものだった。

 深夜ならご近所さんから通報されるレベルだろう。


「良い声で鳴きますね。一発芸に採用しておきます」

「出来れば二度とやらないで欲しいな。

 あと言ってくれれば連れてきたのに」

「これぐらいの移動は馴れましたから。

 それに一人で動ける所を見せておかないと、トイレに行ってないと思われますし」


 別に疑ってこそいないが、確かにこの様子なら一人でトイレにはいけそうだ。

 彼女は身体を器用に動かし、僕の隣へと座った。


「それでどうですか?動きますか」

「多分大丈夫。君が乗ってみないとわからないけど」

「それなら安心してください。

 今の私は骨と皮ぐらいしかありませんから、乗って壊れるようなことはありませんよ」

「……そうだろうね」


 彼女の黒い冗談を受け流す。

 女性の平均体重がどうかはわからないが、彼女はその半分程度しかないだろう。

 運動のしていない僕が普通に持ち上げられるのだから。


「そうだ、出掛けるなら着替えないといけませんね。先輩、私の部屋から服を取ってきてもらえますか?」

「着替えるんだね」

「当然です。乙女はいついかなる時でもファッションに気を遣うものです」


 彼女の言葉を聞いて僕は安心していた。足が動かなくなっても、彼女は出来ることを諦めていないようだ。


「わかった。君の部屋から何着か持ってくればいいかな?」

「ふふっ、服は既に選んでありますよ。着替えるのを手伝ってください」


 そういうと彼女はリビングに戻ると、それは無地の紙袋を見せてきた。

 中から取り出されたのは―――先日一緒に選んだ服ではなかった。


「この前の買い物で選んだ服じゃないんだね」

「ええ。あれはあれ、これはこれです。こっちの方が今回は私に似合うと思ったので」


 少し不満が胸に残った。せっかく一緒に選んだのに、と。

 彼女は気にも留めず、慣れた手つきで着替えを始める。

 僕は今さら動揺もなく、必要なときだけ手を貸した。


 やがて淡い色合いのワンピースに、クリーム色の上着をまとった彼女が現れる。

 オシャレとは縁遠い僕でも思わず「似合っている」と思った。


 けれど口に出たのは――


「うん、普通にいいと思う」

「普通は余計ですよ」


 そして最後に彼女はつばの深い帽子を被った。

 日焼けは乙女の敵――けれど彼女にとっては、文字通りの敵になりかねない。


 僕はすっかり馴れ始めたお姫様抱っこで彼女を車椅子に乗せる。やはり彼女の体重は車椅子の耐荷重よりもかなり軽いらしく、軋む音すらなることはなかった。

 車椅子を軽く前後させる。違和感なく動いた。


「大丈夫そうですか?」

「とりあえずはかな」


 車椅子の正常、不調は素人である僕にはわからないものの、それでもすぐに壊れるようには思えなかった。


「それでは行きましょう」


 彼女は大げさに腕を前に突き出して、出発の音頭を取った。僕はそれに習い車輪を回した。


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