第1楽章「波乱のマードック」 3-1
翌週の金曜日。時刻は19時過ぎ。都内の大学に通う桂菜は電車を乗り継いで1時間近くして方ヶ谷駅に到着し、今日の練習場所に着いた。つい先週、楽団の見学を経て正式入団したため、今日が初めての練習日だ。主な練習場所である方ヶ谷市市民会館は、西洋風の外観に広いロビーがホテルのような造りで、去年の方ヶ谷市花火大会に大学の友達と来た時に「大使館か何か?」と聞かれたほど豪華な出立である。特に有名な特産物があったり観光地があるわけでもないのに、随分と見栄を張った市民会館だなと、前を通るたびに桂菜は思っていた。ロビーを通り抜け右手の階段を上がって2階の練習部屋に向かう。先週の練習の様子から、光博や広史がいなければ安泰な楽団だと感じていた。合奏は大体19時半頃から始まるため、扉の前に立つとすでに様々な楽器の音が聞こえている。
「お疲れ様でーす……」
そろりと室内に入ると、気づいた団員たちが「お疲れー」と声を掛けてくれた。まだトランペットパート以外のメンバーは顔もろくに覚えていないが、皆すでに桂菜を団員として迎えてくれているようで心底ほっとする。
合奏隊形に組まれた座席で、さてと、と楽器ケースを開ける。シャイニーケースと呼ばれる軽量で運びやすいケースが桂菜愛用の楽器ケースだ。カラーバリエーションも多いため、学生の間では自分のカラーを主張するために持ち歩く人も多い。例に漏れず、桂菜も中学生の時に母親に散々ねだってパステルイエローのシャイニーケースを買ってもらい、黄色いチューリップのキーホルダーをつけてずっと大事に持っていた。ケースから取り出したマウスピースを口にあて、唇を振動させてバジングをする。金管楽器奏者のウォーミングアップ法の1つで、楽器を吹く前に今日の唇の状態を確認する練習法だ。桂菜はイマイチこの練習法の目的を理解していないので、何も考えず音を出しているだけだが。
「桂菜、お疲れ」
後ろから掛けられた声に振り向くと、藤色のシャイニーケースを肩に掛けたかれんが立っていた。彼女が携えているのは桂菜のケースをうんと引き伸ばした形をしている。トロンボーンのケースだ。
「お疲れー。かれんも大学帰り?都内からだとちょっと遠いよねー。……あれ?すんすん……。なんかかれん、臭いよ?」
「ひっ、人の臭い勝手に嗅がないでよ!今日は実習で牛の子宮とか触ってきたから、その臭いがついてるだけ!一応学校でシャワー浴びてきたし!」
「牛の……子宮……?へぇ……。かれんの大学って、あんまりみんなが知らないことやるよね」
かれんは都内にある大学の農学部2年生だ。農学部の中でも畜産学科に所属するかれんは、1年生の頃から北海道や九州の牧場・生産現場に実習に行っているらしく、さまざまな動物の姿を見てきている。今日の実習では、と殺された雌牛の実物の内臓を触りながら勉強したおかげで、ちょっとだけ鼻が敏感な桂菜は、生臭いにおいに気づいていた。
「今日も練習あるから速攻で帰ってきたし!……ところで桂菜、ちょっと話があるんだけど……」
カラコンもしてないだろうに、目薬も差してないだろうに、自然とうるっとしている愛らしい瞳に見つめられ、桂菜は吸い込まれそうになりながらも、親友の声かけに応じ耳を傾ける。
「これから、開理さんたちとパーリーの人たちで会議するみたいなの。話聞きたいから、その……桂菜も来てくれない……?」
「え、嫌だ」
即答だ。
なんで私が?なんで聞く必要があるの?それを聞いて何になるの?何か仕事、与えられるんじゃない?
いろんな不安がよぎり、理由を聞く前に拒否反応を示してしまった。そんな桂菜の鋭い拒絶の言葉に、かれんはうるうるとした瞳で懇願してくる。
「……一緒に来てよぉ……。ひ、一人じゃ心細いもん……」
中間中吹部時代に部長を務めていた桂菜は、何かとかれんに助けられながらその職を務め上げた。そのせいもあって、彼女のお願いはなかなか断れない。
「……話聞くだけだからね」
やったぁ!と桂菜の手を握り小躍りするかれんは相変わらずだ。彼女の愛らしい動きに、どうしてそんなに開理たちの話を聞きたいのか、理由を尋ねるのも忘れてしまった。
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