第1楽章「波乱のマードック」 2

19時から始まった合奏練習が終わったのは、21時頃であった。茶栄子が曲の前半を根気良く練習してくれたおかげで音程は改善されたものの、団員たちのゆるゆるとした態度を見るに、おそらく次週の練習ではまた元通りになっている予感を桂菜は感じた。帰り支度に、団員たちは各々楽器にスワブを通したり、たまったツバ(結露した呼気)を流したりと片付けを始めている。桂菜もマウスピースに洗浄用のスプレーを掛けブラシを通してお手入れを始めた。お手入れに夢中になっていて、目の前に愛らしいローファーが見えたことに気づかずに。

「桂菜ちゃん久しぶり!うちに入ったんだね!」

可愛らしい声に名前を呼ばれ顔を上げると、アルトサックスを携えた小柄な女性が桂菜を見下ろしていた。

「和葉ちゃん!久しぶり!!中学卒業以来だから、6年ぶり……になるのかな?ご近所さんなのに、全然会わなかったねー」

「ね!小さい頃はいっぱい遊んだのにねー」

樋口和葉は桂菜の1つ上の幼馴染だ。中学でも同じ吹奏楽部で一緒に演奏した仲で、その後は市内でも強いと噂の高校に進学したと聞いている。和葉が携えるアルトサックスは自持ちの楽器で、かなり丁寧に手入れが行き届いているのか、キラキラと輝いていた。

「あら、樋口さんも中間中だったの?サックスならあたしの一つ上の夏目先輩もいるし、コンミスの浅井さんもそうよね?多いわよね、中間中出身者」

隣で話を聞いていた夏子が「そういえば」と話に加わる。

「そう言われるとそうですね…。私の代だとフルートの野口さんもですし、1つ上ならホルンの渋澤先輩に、クラリネットの前田先輩も……」

夏子と和葉の会話に反応し、桂菜はぐるりと壇上からステージを見渡した。自分と同期の代がいないか探したが、見覚えのある顔は見当たらない。

「桂菜ちゃんの代はいないかしら?あたしの代は宮本に明智がいてほんと嫌。あ、ひろくんは別ね」

え。と桂菜はまたステージを見渡した。と同時に、夏子のはるか頭上から嫌な人物1人目の声が聞こえ、桂菜は思わず椅子に身を隠した。

「北条、あのペットの男の子って新入りの子?ずいぶんいい音させてるじゃん」

「でしょ!!春栄出身なんだから、そりゃいい音してるわよ!今年に入って二人も抜けちゃったけど、たけしに桂菜ちゃんが入って、抜けた分ちゃんと埋めたんだから!」

あなたに勧誘されて入ったわけじゃないのにやけに鼻高々だな、と桂菜は思ったが、余計な一言で自身の存在を告げ口されたことに驚き、訂正する余裕など持ち合わせていなかった。声の主は桂菜に気づき、わざと意地悪気な声で囁く。

「あぁ。チューニングの時にやけにへたっぴでピッチあってないペットがいると思ったら、桂菜ちゃんか」

見つかったからには仕方ない。そろりと顔を上げると、高い背を曲げてこちらを覗きこむ不敵な笑みと目が合った。トロンボーンパートの明智光博は開理の同級生で、その意地の悪そうな顔つきが爬虫類のようだと桂菜は記憶していた。小さい頃に何度か会ったことがあるが、開理を足で蹴突いたり小馬鹿にした態度が目立ったため、桂菜は彼のことをかなり嫌っていた。

「そのレベルだと、開理の小間使いで終わっちゃうんじゃないかな。せいぜい頑張りなね」

「いや……私だって楽器やりたくて入っただけなんですけど……」

桂菜のボソボソとした反論もよそに、楽器ケースを携えた光博は早々と帰ろうとしていた。その去り際、夏子にこそっと耳打ちした。

「北条、来週の練習前に話したいことあるからパーリーで集まれって、開理から伝言」

「え?話したいこと?」

ひらひらと手を降って去ってしまった光博を、きょとんとした顔で夏子は見つめる。

すると今度は客席の方からツカツカと壇上に近づく足音が聞こえた。

「なっちゃん、今ミッツから聞いた?来週相談したいことあるんだけれど……」

ギョッと桂菜は振り返った。眩く光る銀色のホルンを携え、眼鏡を掛けた穏やかそうな男性が雛壇の下からこちらに向かってくる。藤原広史も開理の同級生でホルン担当だ。小さい頃に会った時も馬のように優しげな瞳をもった穏やかな少年で、桂菜と一緒に遊んでくれたが、本能的にどこか心を許してはいけない雰囲気を感じていたため、できれば関わりたくない人物であった。

なっちゃんと親しげに呼ばれた夏子は、光博の時とは打って変わった猫撫で声で、鼻の下を伸ばしながら広史に返答する。

「えぇ〜!ひろくん、相談したいことって何〜??ここじゃ言えないことぉ〜?」

「うん、ちょっとみんなの前で話すには早いかなって。なっちゃんたちパーリーにだけ先に伝えておきたいんだ」

頼られていることが嬉しいのか、夏子はくねくねと無意識に体を揺らしながらだらしない顔をしている。あ、夏子さんって広史さんのこと好きなんだな。

聞いている限り、なんだか面倒くさそうな話題なので、桂菜は椅子に隠れながらこそこそとその場を去ろうとした。

「桂菜ちゃんも入団早々ちょっと環境変わりそうなんだけれど、ごめんね」

ぎくっ。隠れていたのにしっかり見つかった。夏子と話しながらも自分の存在を認知していた広史を、桂菜はめざとい人だと心の中で独りごちた。

あと曲のことで聞きたいことがあるんだけれど、と広史は夏子を連れてステージ袖の方へはけていった。残された桂菜と和葉は、広史がこぼした「環境が変わる」という発言が気にかかっていた。

「私も方吹(ここ)に入ったのは2年ぐらい前なんだけど、変わるって、なんだろう?桂菜ちゃん、宮本団長さんから何か聞いてない?」

くりくりとした愛らしい瞳で尋ねる和葉に、桂菜は残念な顔をすることしかできない。

「ごめん、身内のよしみでも何も聞いてなくて……。開ちゃんのツテもあってここに入ったけど、実はほとんど知らないんだ、この楽団のこと」

「そっか!ごめんね、なにか知ってると思って聞いちゃって」

わたわたと手を振りながら申し訳ないというジェスチャーをする和葉に、桂菜は苦笑しながら返答する。

「ううん!私も何も知らないで入るって、ちょっとまずいよね……。今度いろいろ聞いてみるよ!」

ごめんね、と手を合わせて去った和葉を見送る。やり直せると舞い上がって何も聞かずに入団を決めたのは迂闊だったな、と反省する桂菜の背後から、突然自身の名を呼ぶ声が聞こえた。

「桂菜!ここに入ったの!?」

振り返ると、黒い艶やかな長髪に包まれた白磁の肌に、アーモンド型のガラス玉をはめ込んだ瞳を持つ、一目見てわかる美女が桂菜を見つめていた。紛れもない、この顔は。

「かれん!え!かれんもここに入ってたの!?同期の子、いないと思ってたのに!まさかかれんがいたなんて!」

互いにきゃあきゃあと手を取り合って年甲斐もなくはしゃいで喜ぶ。小田牧かれんは中学時代の親友だが、卒業以来、各々進学先で忙しい毎日を過ごしていたせいか、一度も会うことはなかった。5年越しの再会に二人は興奮を抑えることができず何度も手を握り合う。

「トロンボーン、続けてたんだね!うわぁ……中学以来で懐かしい〜」

「桂菜こそ!大学のサークルじゃなくてこっち選んだの、正直驚きだよ!高校でも吹いてたの?」

その問いに、桂菜は一瞬固まってしまった。高校の時のことは、思い出したくない。嫌な思い出しかなくて、ずっと記憶の奥底に封じていた。その時から楽器から、吹奏楽から離れてしまった。(私は離れたくなかったのに)今こうして市の楽団に入ろうと決めた時も、楽器を見て、勝手にあの時のことが思い出されて腰が重かった。

でも、やり直したいと思ったのは、心の底から、これが好きだから。

はっと我に帰ると、かれんが不思議そうな顔で見つめていた。冷たい印象を与えるが、桂菜からするとコロッとしていて愛らしい瞳に見つめられ、昔のことを悟られてはいけないと気丈に振る舞う。

「ぜーんぜん!他にやりたいことあって、すっかり離れてたんだ!だからもう、今日吹いただけですっごい疲れちゃって!」

あはははと空笑いする桂菜だったが、かれんはそんな様子に気づかず、つられてあははと笑い返す。

「私も!高校も吹いてたのに、受験勉強始まってから遠のいちゃって!方吹(ここ)で桂菜に会えて、本当に本当に嬉しい!」

そんなかれんの言葉と笑顔に、桂菜の曇り空な心も晴れていくようだった。

「私も……!これからもよろしくね!」

さあ帰るか!と身支度を整える桂菜に、かれんがぽそっと誘い言葉をかける。

「あの……さ、この後、そこのファミレスでお茶しない……?なんか、このまま帰るのもったいなくて……」

確かに、久しぶりの再会に花を咲かせるのも悪くない。だって今日は華金だし!そう軽くオッケーを出した桂菜だったが、これがまさか毎週末開催される「本日の推しの尊いポイントを報告する会」になるとは、この時は露も思いもしなかった。

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