方ヶ谷吹奏楽団
加里手鞠
第1楽章「波乱のマードック」 1
意外と人、いっぱいいるんだなぁ。
ホールに満ちる様々な楽器を目にし、聞いてた以上に人数がいることに驚く。各々チューニングや音出しをして様々音が鳴っているこの空間は、まるでいろんな色の絵の具を溶かしたパレットのようだ。
2024年4月某日。トランペットを携えた佐々木桂菜は、高校1年生以来だった吹奏楽をやり直そうと、つい先週、地元・方ヶ谷市の吹奏楽団「方ヶ谷吹奏楽団」に入団希望を出していた。
今日は見学として、地元のコミュニティセンター『ムーンシティ』のホールに来ていた。小学生の頃に総合学習の一環として劇団の演劇を鑑賞した場所だったが、舞台側からの景色は初めてで、ホールの広さに少し圧倒される。
これから合奏練習が始まるため、桂菜はライトに照らされキラリと光るトランペットを見下ろし、雛壇の座席に腰を下ろした。
「まさか桂菜ちゃんが『方吹(うち)』に入ってくるとは思わなかったわよ。頼れる従妹が入ってきて、宮本も嬉しいんじゃない?」
隣に座るパートリーダーの北条夏子が気さくに笑いかけてきた。彼女は桂菜の従兄である宮本開理の中学の同級生で、同じトランペットパートである。小さい頃開理と一緒に遊んでもらったため、桂菜は少しだけその顔を覚えていた。一年ほど前に離婚し今はバツイチで、先ほどのパート練習中も別れた旦那の愚痴を散々聞かされてうんざりしてたけど。
「えぇ〜頼られるのは勘弁ですよぉ。でも開ちゃんは関係なくて、私自身も楽器やり直したいなぁと思って」
「そうなの?桂菜ちゃん大学生よね?大学には吹奏楽のサークルとかないの?」
「うーん……。大学のサークルは肌に合わなかったというか……。経験者多いしコンクール出てたりするんで、ちょっと腰がひけちゃうというか……」
吹奏楽コンクールが特に盛んなのは高等学校の部だが、大学でも熱心に活動するところもある。桂菜が通う大学の吹奏楽部はコンクールに出場するほどの熱量でいるため、高校1年生以来楽器を吹いておらず、中学でも大会に出たことのない桂菜は、地元のカジュアルな楽団を選んだのだ。
「ここは緩くていいですよね。なんか、趣味の延長線上でできるっていうか」
「そうね。あたしも本気でやるつもりはなかったからココを選んだんだけど。ゆるっとしたスタイルがちょうどいいわ」
自分と同じスタンスの夏子に桂菜は少し安堵した。それぐらいの意識でやっていける、これが方ヶ谷吹奏楽団のいいところなんだ。
「僕はちょっと新鮮です。こんな空気感で練習できる環境って……」
夏子の向こう側に座る青年・徳川武之進がぼそっと呟いた。彼も桂菜と同じタイミングで入団した経験者で、全国でも有名な吹奏楽強豪校・埼玉春栄高校のトランペットパート出身だ。全国金という高い目標を掲げ3年間切磋琢磨してきたこれまでの生活とは、今は打って変わるものなのだろう。
「まぁ〜、春栄と比べちゃあねぇ〜。社会人バンドだし、楽しくやれればいいのよ!」
「はい……!そんな空気感がいいなって……!」
武之進は照れながら頭の後ろを掻いた。重い前髪で見えない彼の照れた時の癖だ。
「宮本が幹部で会議してるから練習出れない分、今日はあたしらでなんとかやらなきゃね〜」
「開ちゃん、やっぱり忙しいんですね。まともに吹けてなさそう」
ガヤガヤと話している間に、指揮台にテナーサックス兼コンサートミストレス、通称コンミスの浅井茶栄子が立った。団員たちはしんと静まり、コンミスを見つめる。
「今日は団長くんがいないから、アタシが振るわね!じゃあ尾根崎くん、B♭(ベー)ちょうだい」
バンドにもよるが、各々の楽器の音程を合わせる「チューニング」という工程では、オーボエが基本となる音を出す。その音を聴きながら、木管・金管の順で音を重ね、音程を合わせ、バンド全体の音程を合わせて初めて合奏に移ることができる。
が。
思っている以上に、このチューニングという作業は難しい。桂菜も一生懸命に周りの音に集中しているが、今自分が吹いている音が高いのか低いのか、さまざまな音に自分の音が混じると全くわからない。なんとなくモワモワとした音のぶつかりは聞こえるが、音を高くしても低くしても聞こえてくるもんだから、わからない。隣の夏子も首を傾げながらチューニング管を抜き差ししている。一方で武之進は、誰よりもまっすぐキラキラした音で確実に音程を合わせていた。
(やっぱり強豪校は違うなぁ……)
ぼやっと武之進の音に耳を傾けていると、いつの間にかチューニングは終わっていた。
コンミスの茶栄子もさすがに合ってない音程に顔をしかめている。
「うん、まぁ……うちはいつもこんなもんよね……。これ以上やってもどツボにはまるだけだし……。それじゃあ曲合わせましょうか!今度の市内音楽祭に向けて、マードックからやるわね!」
マードック、正式な曲名は「マードックからの最後の手紙」。吹奏楽経験者ならほとんどの人が知っている有名な曲で、作曲者の解説にある通り、タイタニック号の航海をモチーフにしており、1等航海士であるマードックが彼の家族に宛てた手紙に綴った航海の様子を描いた楽曲である。桂菜も演奏会や動画配信サイトで何度も聴いたことがあり、曲のイメージは完璧に描けていた。
皆の準備が整ったことを確認し、茶栄子はスッと指揮棒を静かにあげる。振り下ろされた指揮棒の合図に合わせ、底から唸るような木管の低音が響き、サックスとクラリネット、ホルンの美しいメロディーが流れ…、流れ…、流れ…、ているのだが、先ほどのチューニングで全く合っていない音程のせいで、ヨヨヨヨと絶妙な不協和音が奏でられ、すでにタイタニック号は氷山目掛けて突き進んでしまっている。
奏者たちも合っていない音程に違和感を抱いているものの、そこそこ吹けている自負があるのか、気持ちよさそうに歌っている者ばかりである。
あれ……、マードックってこんな曲だったっけ……?
桂菜の違和感をよそに、曲はどんどん進む。船内の華やかなパーティーシーンを描くアイリッシュのリズムから静けさが増し、美しいフルートのソロに移るのだが、どうやらこのソロ担当はあまり上手くないようで、指揮と伴奏に合わず、ましてや最後のフレーズは息が続かず絶え絶えだった。その担当が『方吹のマドンナ』と呼ばれている人なだけに、残念感がすごい。
さらに輪をかけて酷いことに、フルートのソロから打楽器や低音楽器たちが鋭いリズムで焦りをかける沈没のシーンに移るのだが、金管の中低音楽器たちは力任せにリズムを刻んでいるせいで、沈没というか、これは船が自ら解体し始めているように思える。このシーンではトランペットがやっと目立つメロディーをもらえるが、夏子も桂菜も高音に苦戦し音を出すので精一杯だ。そんな中、イメージの音にぴったりな高らかな音色でメロディーを奏でる武之進は、悠々とまっすぐ指揮者を見据えて吹いていた。
結局縦の揃わないフレーズで締められ、中間部に入る前に指揮棒は下ろされてしまった。
「……さすがにちょっと、合わせていきましょうか……」
いつも明るく朗らかな茶栄子も、この時は笑顔を引き攣らせていた。正史よりも酷いタイタニック号の沈没だ。
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