希望ヶ丘駅のキューピッド

トムさんとナナ

希望ヶ丘駅のキューピッド

## 第一章 霊媒師と亡霊


薄曇りの午後、結月は重いため息をついた。


「彼氏が欲しいって言ったって、どうせまた変な目で見られるのがオチよね」


二十二歳の春、大学を卒業したばかりの結月は、友人たちが次々と恋人を見つける中、一人取り残されていた。


理由は簡単だった。彼女には生まれながらにして霊と会話する能力があり、それを隠しきれずにいつも相手に気味悪がられてしまうのだ。


「今度こそは普通の恋をしたいのに」


そんな時、テレビで偶然目にしたのが「希望ヶ丘駅」の特集だった。


廃線となった古い駅舎は、壁一面に恋人たちが残した切符が貼られ、使い古された南京錠の山が築かれている。


一見重苦しい雰囲気だが、「縁結びのパワースポット」として若いカップルに人気だという。


結月の霊感がざわめいた。テレビ越しでも感じる、強烈な思念の波。


まるで何かが彼女を呼んでいるかのようだった。


「行ってみようかな」


翌日の夕方、結月は希望ヶ丘駅に足を向けていた。


噂通り、駅舎は古く、夕暮れの光が差し込む中で切符の壁が琥珀色に輝いている。


ところどころ剥がれた切符からは、「永遠に愛してる」「ずっと一緒にいよう」といった文字が見える。


「うわあ、すごい念がこもってる」


結月が呟いた時、突然目の前に若いカップルが現れた。


大学生らしき二人は、幸せそうに手を繋いで南京錠を選んでいる。


「ねえ、どれにしようか」

「何でもいいよ、君が選んで」


微笑ましい光景に、結月も思わず顔がほころんだ。その時だった。


「ふん、また愚かな人間どもが」


空気が急に冷たくなった。結月の霊感が警告を発する。


振り返ると、そこには透けて見える青年の姿があった。


二十代半ばぐらいの整った顔立ちだが、その表情は暗く、瞳には深い憎悪が宿っている。


亡霊だった。


青年の亡霊は手を振り上げ、目に見えない力でカップルの周りの空気を操り始めた。


すると、さっきまで仲睦まじかった二人の表情が急に険しくなる。


「なんで僕の意見を聞かないんだよ」

「は?あなたが『何でもいい』って言ったんじゃない」

「それは建前だろ!普通分かるよね?」


見る見るうちに、二人の口調が刺々しくなっていく。


「やめてあげて!」


結月は思わず声をかけていた。


亡霊が振り返る。その瞬間、時が止まったような感覚に陥った。


「君には見えるのか」


亡霊の声は低く、どこか悲しみを帯びていた。


結月は恐怖よりも、その声に込められた深い孤独感に胸を締め付けられた。


「ええ。あなたは、どうしてそんなことを?」


「愛などというものは幻想だ。いずれ必ず破綻する。ならば最初から離れていた方が、傷つかずに済む」


亡霊の言葉に、結月は直感した。この人には、きっと辛い過去がある。


カップルは激しく言い合いを続けている。


このままでは本当に別れてしまいそうだった。


結月は意を決して、亡霊に向かって歩いた。


「でも、愛し合って幸せになれる人たちもいるじゃない。どうしてそんなに愛を否定するの?」


亡霊は一瞬、表情を緩ませた。しかし、すぐに険しい顔に戻る。


「君に何が分かる。愛した相手に裏切られ、挙句の果てに」


言いかけて、亡霊は口を閉ざした。


その瞬間、結月の霊感が彼の過去を垣間見た。


恋人への愛、そして別れ話の最中に起きた悲劇。


刃物の冷たい感触と、絶望の中で息を引き取った記憶。


「あなた、殺されたのね」


亡霊の瞳が見開かれた。


「なぜそれを」


「霊媒師の家系なの。あなたの無念が見えるわ」


結月の優しい声音に、亡霊の心に小さなひびが入った。


生前、誰も自分の痛みを理解してくれなかった。


この世に縛り付けられてからも、ずっと孤独だった。それなのに、この少女は。


「君は優しいんだな」


呟くように言った亡霊の言葉に、結月は少し驚いた。


さっきまでの憎悪に満ちた表情が、まるで別人のように穏やかになっている。


その時、カップルの喧嘩がエスカレートした。


「もういい!別れましょう!」

「上等だ!こっちから願い下げだ!」


女性が南京錠を地面に叩きつけ、男性も憤然として駅を出て行く。


二人の後ろ姿が消えるのを見送って、亡霊は満足そうに頷いた。


「また一組救ってやった」


「救った?あの二人、すごく悲しんでたわよ」


結月の指摘に、亡霊は眉をひそめた。


「悲しむのは最初だけだ。いずれ感謝するだろう。別れた相手に殺されずに済むのだから」


「全部の恋愛がそうじゃないのよ。あなたのケースは特別だったの」


「特別?」亡霊の表情が歪んだ。


「愛していたんだ、心の底から。それなのに『もう冷めた』『別の人を好きになった』と言われた。そして別れ話の最中に、あいつは」


声が震えている。結月は彼の痛みがどれほど深いかを理解した。


「辛かったのね。でも、だからって他の人の幸せを奪うのは間違ってる」


「奪ってなどいない!救っているんだ!」


亡霊の反論に、結月は首を振った。


「本当にそう思う?さっきの二人、本当は愛し合ってたのよ。あなたがいなければ、きっと素敵な未来を築けたはず」


亡霊は言葉に詰まった。確かに、あのカップルは最初幸せそうだった。


自分が介入する前は。


「でも」


「ねえ、お名前は?」


突然の質問に、亡霊は戸惑った。


「...蒼真(あおま)」


「蒼真さん。私は結月よ。霊媒師の結月」


にっこりと笑顔を見せる結月に、蒼真は生きていた頃の感情を思い出した。


誰かにこんな風に微笑みかけられたのは、もう何年ぶりだろう。


「結月」


名前を呼ぶ声が、さっきとは全く違う響きを持っていた。


「もしかして、本当に人を幸せにしたいって思ってる?」


蒼真は頷いた。嘘ではなかった。


歪んだ方法ではあるが、彼なりに人を救おうとしていたのだ。


「だったら、別れさせるんじゃなくて、本当に愛し合える相手を見つけてあげればいいじゃない」


「え?」


「キューピッドみたいに!」


結月の提案に、蒼真は目を丸くした。


「キューピッド」


「そう!愛の天使よ。素敵じゃない?」


結月の輝く瞳を見つめながら、蒼真の胸に不思議な感情が芽生えた。


この人のためなら、何でもしてあげたい。


生きていた時に求めてやまなかった、特別な存在。


「君がそう言うなら」


「本当?」


「ああ。やってみよう、キューピッドとやらを」


結月の嬉しそうな笑顔を見て、蒼真は初めて、この世に縛られて良かったと思った。


この瞬間のためだけに。



## 第二章 キューピッド、はじめます


翌日、結月が希望ヶ丘駅に向かうと、蒼真が既に待っていた。


「おはよう、蒼真さん」


「おはよう」


気恥ずかしそうに挨拶を返す蒼真を見て、結月は微笑んだ。


昨日の憎悪に満ちた表情とは別人のようだ。


「それで、キューピッドのお仕事はどうするの?」


「考えてみた」蒼真は得意げに言った。


「まず、カップルを成就させる。そうすれば、その倍の数だけ別れるカップルも生まれるはずだ」


結月は困った顔をした。


「ちょっと待って。それじゃあ結局同じじゃない?」


「そうか?」蒼真は首をかしげた。


この人、根本的にずれてる。結月は苦笑いを隠しきれなかった。


結月のためにキューピッドになると決めたものの、別れへの執着がまだ残っているようだった。


どうすれば効率よく別れるカップルを増やせるかという思考から抜け出せずにいる。


「蒼真さん、目的を見失ってるわ。私たちは人を幸せにするのよ?」


「そうだった。君のためにキューピッドに」


「私のためじゃなくて、人のためよ」


蒼真は混乱した顔をした。


この人の不器用さが愛おしくて、結月は思わず笑ってしまった。


その時、駅に若い女性がやってきた。


一人で来て、切符の壁を眺めながら小さくため息をついている。


「あ、あの人恋人募集中かも」結月がささやいた。


蒼真の目が輝いた。


「よし、行くぞ」


「ちょっと待っ」


結月の制止も聞かず、蒼真は女性に近づいていく。


そして手をかざすと、霊的な力で周囲の空気を操り始めた。


すると、駅の入り口から男性が現れた。


しかし、なぜかふらつきながら、まっすぐ女性の方向に向かってくる。


「あの、すみません」


男性は女性に声をかけたが、その表情はどこか虚ろだった。


「え、はい?」


女性が振り返ると、男性は突然膝をついた。


「結婚してください!」


「はああああ?!」


女性の驚愕の声が駅に響く。周りにいた他の観光客たちも振り返った。


「ちょっと、あなた誰?!」


「僕は、僕は」男性は混乱している。


「よくわからないけど、あなたと結婚したいんです!」


女性は恐怖を覚えて逃げ出した。男性もよくわからないまま、反対方向に走り去る。


「これは失敗だな」蒼真が呟いた。


「当たり前よ!」結月が駆け寄った。


「いきなりプロポーズって、怖いに決まってるじゃない!」


「そうなのか。人間の恋愛は複雑だ」


蒼真の困惑した表情に、結月は思わず笑ってしまった。


「もっと自然に出会わせてあげなきゃダメよ。それに、相手のことを知りもしないのに結婚なんて」


「君に教わりたい」蒼真が真剣な顔で言った。


「恋愛について」


その真摯な眼差しに、結月の胸がドキリと高鳴った。


「わ、わかったわ。でも私だって恋愛経験豊富じゃないのよ」


「君なら大丈夫だ。君は」蒼真は言葉を選んだ。


「僕にとって特別だから」


いつも変わり者扱いされてきた自分が、特別だと言われた。


結月の心に暖かい気持ちが広がった。


「ありがとう」


二人の間に、優しい空気が流れた。


午後になって、また新しいカップルがやってきた。


今度は付き合い始めたばかりらしい初々しい二人だ。


「今度こそ」蒼真が意気込んだ。


「待って、まずは観察から」結月が止めた。


「どんな問題があるか見てみましょう」


二人は少し距離を置いて、カップルを見守った。


「僕、こういう場所初めてで」男性が恥ずかしそうに言った。


「私も。でも、二人で来れて嬉しい」女性が微笑む。


微笑ましい光景だったが、よく見ると男性は緊張で手に汗をかいており、女性も何を話していいかわからず困っているようだった。


「あ、あの二人緊張してる」結月が指摘した。


「よし、リラックスさせてやろう」


蒼真が力を使おうとした瞬間、結月が彼の腕を掴んだ。


「霊的な力じゃダメ。自然にお手伝いするのよ」


「自然に?どうやって?」


結月は周りを見回した。そして、駅の片隅に落ちている一枚の写真を見つけた。


「あれ、拾ってきて」


蒼真は首をかしげながらも、写真を取ってきた。


古い白黒写真で、昔この駅を利用していた人たちが写っている。


「これを風で飛ばして、あの二人の前に落として」


「それで?」


「きっと二人で『誰の写真だろう』って話すきっかけになるわ」


蒼真は感心した顔をした。


「なるほど、直接的でない方法か」


写真がふわりと舞って、カップルの前に落ちた。


「あ、これ何だろう」女性が拾う。


「昔の写真ですね。この駅で撮ったのかな」


「そうみたい。この頃はまだ電車が走ってたのね」


「調べてみませんか?この駅の歴史」


二人は写真をきっかけに会話が弾み始めた。


緊張もほぐれて、自然な笑顔を見せている。


「成功ね」結月が満足そうに言った。


蒼真は結月を見つめていた。


「君は本当に賢いな」


「そんなことないわよ。でも、人の幸せを考えるのは好きよ」


「幸せ」蒼真が呟いた。


「君といると、僕も幸せな気持ちになる」


結月は顔を赤らめた。


「も、もう。からかわないで」


「からかってない。本当だ」


蒼真の真剣な表情に、結月の心臓が早鐘を打った。


いつの間にか、この不器用な亡霊に惹かれている自分がいた。


夕暮れが近づく頃、また一組の来訪者があった。


しかし、今度は様子が違った。


中年の男性が一人で来て、古い南京錠を見つめて涙を流している。


「あの人」結月が心配そうに見た。


蒼真も表情を曇らせた。男性の周りに漂う深い悲しみを感じ取っていた。


「奥さんを亡くしたみたい」結月が小さく言った。


「南京錠に刻まれた名前、二人のものね」


男性は震える手で古い南京錠に触れ、声もなく泣いていた。


「こういう時は、どうすればいいんだ」蒼真が結月に尋ねた。


結月は考えた後、静かに近づいていった。


「こんにちは」


男性は振り返った。涙で濡れた顔に驚きの表情を浮かべる。


「あ、すみません。こんなところで」


「いえいえ。素敵な南京錠ですね」


結月は男性の隣に座った。蒼真も見えない存在として近づく。


「亡くなった妻と一緒に付けたものです。もう三十年も前ですが」


「三十年、長い間愛し続けられたんですね」


男性は微笑んだ。悲しい微笑みだったが、その中に確かな愛が込められていた。


「ええ。最後まで愛していました。今でも愛しています」


その言葉を聞いて、蒼真の胸に雷が落ちたような衝撃が走った。


真の愛とは、相手がいなくなっても続くものなのか。


自分は恋人に裏切られ、憎しみを抱いて死んだ。


しかし、この男性は妻を失っても愛し続けている。


「愛って終わらないものなんですね」結月が優しく言った。


「ええ。本当の愛は永遠です」男性が答えた。


「だからこそ、生きている間は精一杯愛し合わなければいけない」


蒼真は立ち尽くしていた。自分の価値観が根底から覆されていく感覚だった。


男性は夕暮れの中を去っていった。結月は蒼真を振り返った。


「蒼真さん」


蒼真の表情は複雑だった。困惑と、そして何かに目覚めたような光が混じっている。


「僕は間違っていたのかもしれない」


「間違いじゃないわ。ただ、傷ついていただけ」


結月の優しい言葉に、蒼真は胸が締め付けられた。


この人になら、全てを打ち明けてもいいかもしれない。


「結月」


「何?」


「君に話したいことがある。僕の過去について」


結月は頷いた。


「聞かせて」



## 第三章 十年の呪縛


夜の希望ヶ丘駅は、昼間とは全く違う顔を見せていた。


月明かりに照らされた切符の壁が、まるで星空のように輝いている。


結月と蒼真は、駅舎の隅に腰を下ろしていた。


「僕が生きていたのは十年前」蒼真が口を開いた。


「大学院生で、文学を専攻していた」


結月は静かに聞いている。


「恋人の名前は美咲。同じ研究室の後輩だった」


蒼真の声に、懐かしさと痛みが混じった。


「美咲は明るくて、いつも笑っていて。僕にとっては光のような存在だった。僕は内向的で友達も少なかったから、彼女が僕を選んでくれたことが信じられなかった」


「きっと素敵な人だったのね、美咲さん」


「ああ。二年間付き合った。僕は本気で結婚を考えていた。卒業したらプロポーズしようって決めていたんだ」


蒼真の表情が暗くなる。


「でも、ある日突然、美咲が『話があるの』って言ってきた。僕は答えを準備していこうって、指輪まで買っていたんだ。馬鹿だったよ」


結月の胸が痛んだ。続きが想像できてしまう。


「美咲は僕に言った。『もう気持ちが冷めちゃったの。他に好きな人ができた』って」


蒼真は拳を握りしめた。


「僕は必死に引き止めようとした。『何がいけなかった?直すから』『一度でいいから考え直して』って。でも美咲は冷たい顔で『蒼真くんって、重いのよ。束縛がひどいし、一緒にいるのが苦痛だった』と言った」


「そんな」


「僕は混乱した。愛しているのに、どうして苦痛だなんて言われなきゃいけないんだって。そして」


蒼真の声が震えた。


「僕が『君なしでは生きていけない』と言った時、美咲は嘲るように笑って『じゃあ死んじゃえば?』って言ったんだ」


結月の目に涙が浮かんだ。


「その瞬間、僕の中で何かが壊れた。バッグからカッターナイフを取り出して。でも、僕が自分を傷つけようとしたんじゃない」


蒼真は苦しそうに続けた。


「美咲が慌てて僕からカッターを取り上げようとして、もみ合いになって。気がついた時には、僕の胸にカッターが刺さっていた」


「美咲さんが?」


「意図的じゃない。事故だった。でも美咲は僕が血を流して倒れているのを見て、パニックになって逃げていった。僕はそのまま」


蒼真の告白に、結月は言葉を失った。


それは彼が語っていた内容とは全く違う真実だった。


「でも、あなたは美咲さんに殺されたって」


「そう思い込んでいたんだ。『死んじゃえば?』という言葉と、結果的に死んでしまったことで、彼女に殺されたと。でも本当は」


蒼真は顔を覆った。


「僕が彼女を困らせていたんだ。束縛して、重い愛情を押し付けて。美咲が逃げたくなるのも当然だった」


結月は蒼真の隣に座り直した。


「でも、あなたは愛していたのよね?」


「愛していた。でも、それは独占欲だったのかもしれない。本当の愛って何なのか、僕にはわからなかった」


二人は黙り込んだ。夜風が切符をかすかに揺らしている。


「蒼真さん」結月が口を開いた。


「今日、あの男性の話を聞いてどう思った?」


「衝撃だった。愛する人を失っても憎まない。むしろ、失った後も愛し続ける」


「そういう愛もあるのよ」


結月は蒼真を見つめた。


「あなたは確かに間違っていた。でも、それは愛し方を知らなかっただけ。今のあなたは違う」


「違う?」


「私を見てる時のあなたの目、とても優しいもの。押し付けがましくないし、私の気持ちを大切にしてくれる」


蒼真は驚いた顔をした。


「それに、今日あのカップルを手伝った時、あなたは相手の幸せを一番に考えていた」


「君が教えてくれたからだ」


「違うわ。あなたの中にもともとあったものよ。私はただ、それを引き出しただけ」


蒼真の瞳に、希望の光が宿った。


「僕は変われるだろうか」


「もう変わってるわ」結月が微笑んだ。


「私、あなたといると安心するの」


「本当に?」


「ええ。あなたは私を受け入れてくれた。霊が見えるという変な能力も含めて」


蒼真は立ち上がって、結月に手を差し伸べた。


「ありがとう、結月。君に出会えてよかった」


結月は彼の手を取った。触れることはできないけれど、確かに何かが伝わってくる。


「私こそ。あなたに出会えて幸せよ」


その時、駅の向こうから足音が聞こえた。


深夜にも関わらず、誰かが近づいてくる。


現れたのは、三十代の女性だった。


疲れた表情で、駅舎をきょろきょろと見回している。


「あの人」結月が呟いた。


女性は切符の壁の前に立つと、震える手でバッグから一枚の切符を取り出した。


古い切符で、十年前の日付が印字されている。


蒼真の顔が青ざめた。


「まさか」


女性が振り返った瞬間、蒼真は確信した。


「美咲」


十年前とは違い、彼女の顔には深い疲れと後悔の影が落ちていた。


美咲は切符を壁に貼りながら、小さく呟いた。


「ごめんね、蒼真くん。許してもらえるとは思わないけど」


彼女の声は涙で震えていた。


「毎年、この日に来てるの。あなたを傷つけた日に。どうか安らかに眠ってって、お祈りしに」


蒼真は立ち尽くしていた。


十年間憎み続けた相手が、実は自分のことを想い続けてくれていた。


「私、あなたのこと忘れられないの。あの時のことも、ずっと後悔してる」


美咲は切符を貼り終えると、その場にしゃがみ込んで泣き始めた。


「こんなこと言う資格ないって分かってる。でも、今でもあなたのことを」


蒼真は結月を見た。結月は小さく頷く。


「行って。話してきて」


「蒼真は美咲の前に立った。彼女には見えないけれど、その存在を感じ取ってもらおうと精神を集中させた。


すると、美咲がふと顔を上げた。


「誰かいるの?」


蒼真は全力で思いを込めた。


憎しみではなく、感謝を。十年間自分を想い続けてくれたことへの感謝を。


美咲の表情が変わった。まるで重荷が降りたような、安らかな顔になる。


「蒼真くん...許してくれるの?」


風が吹いて、美咲の髪を優しく撫でた。それは蒼真からの答えだった。


「ありがとう」


美咲は涙を拭って立ち上がった。


その表情は、十年ぶりに心の重荷から解放された安らぎに満ちていた。


彼女は切符の壁にもう一度手を触れると、静かに駅を去っていった。


蒼真は美咲の後ろ姿を見送りながら、胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。


長い間凍り付いていた憎しみが、ついに昇華されていく。


「終わったのね」結月が側に立った。


「ああ。やっと終わった」蒼真が振り返る。


「君のおかげだ」


「私は何もしてないわ。あなたが自分で選んだのよ、許すことを」


蒼真は結月を見つめた。月光の下で、彼女は本当に美しかった。


外見だけでなく、その優しい心が輝いて見える。


「結月」


「何?」


「僕は君が好きだ」


結月の頬が赤く染まった。


「私もあなたが好き」


二人は見つめ合った。触れ合うことはできないけれど、心は確実に通じ合っている。


「でも、私たち」


「違う世界の存在だ」蒼真が苦笑いした。


「わかっている」


でも、今この瞬間の幸せを大切にしたかった。たとえ短い時間でも。



## 第四章 再会、そして奇跡


翌朝、結月が駅に着くと、蒼真の姿は薄くなっていた。


「蒼真さん?」


「ああ、結月。どうやら時間が来たようだ」


蒼真の体が透けて見えるようになっている。


昨夜、美咲を許したことで、彼を現世に縛り付けていた怨念が解けたのだ。


「そんな...まだお話したいことがたくさんあるのに」


結月の目に涙が浮かんだ。


「僕もだ。でも、これでいいんだ。君のおかげで、僕は本当の愛を学ぶことができた」


蒼真は結月に向かって手を伸ばした。


触れることはできないけれど、愛情は確実に伝わってくる。


「ありがとう、結月。君は僕の光だった」


「蒼真さん」


その時、駅に慌ただしい足音が響いた。


振り返ると、若い男性が駆け込んでくる。息を切らしながら、彼は切符の壁を見上げた。


「間に合った」


男性は美咲が昨夜貼った切符を見つけると、その隣に新しい切符を貼った。


そこには「美咲へ 愛してる 健太」と書かれている。


「あの人」結月が呟いた。


蒼真も理解した。きっと美咲の現在の恋人だろう。


彼女が毎年この日に一人でこの駅に来ることを知って、後を追ってきたのかもしれない。


男性は切符を貼り終えると、携帯電話を取り出した。


「美咲?僕だよ。君がいつも一人で抱え込んでるのがつらくて...一緒に乗り越えよう。過去のことも含めて、君の全部を愛してる」


その会話を聞いて、蒼真は微笑んだ。


「よかった。美咲にも、本当に愛してくれる人がいるんだ」


結月も安心した。美咲もまた、幸せになれそうだった。


男性が電話を終えて駅を出て行くのを見送った後、蒼真の姿はさらに薄くなった。


「もう時間がない」


「待って」結月が叫んだ。


「お願い、もう少しだけ」


しかし、蒼真の体はどんどん透明になっていく。


「結月、君に約束する。君にも必ず、本当に愛してくれる人が現れる」


「そんな人いらない!あなたがいいの!」


結月の叫びに、蒼真の心は引き裂かれそうになった。


「僕だって、君と一緒にいたい。でも」


その時だった。切符の壁が突然光り始めた。


無数の恋人たちの想いが込められた切符が、まばゆい光を放っている。


光は駅全体を包み込み、まるで天から降り注ぐ星屑のように美しく輝いた。


「何これ」


結月が息を呑む中、光は蒼真を包み込んだ。


温かく、優しく、そして力強い光。


数え切れないほどの愛の想いが彼を包んでいる。


そして、信じられないことが起こった。


蒼真の体が実体化し始めたのだ。


透明だった輪郭がはっきりとし、触れることのできない存在だった彼に、確かな重さと温もりが宿っていく。


心臓が鼓動を刻み、血が体を巡り、息が肺を満たしていく。


「これは」


蒼真は自分の手を見つめた。確かに、実体がある。生きている。


「奇跡よ」結月が涙を流しながら言った。


「みんなの愛の想いが、あなたを生き返らせてくれたのよ」


光が収まると、蒼真は完全に人間の姿に戻っていた。


結月は恐る恐る手を伸ばした。今度は、確かに彼の頬に触れることができた。


「結月」


「蒼真さん」


二人は抱き合った。


長い間求めていた温もりを、ついに感じることができた。


蒼真の心臓の鼓動が、結月の胸に響いてくる。


「これで一緒にいられるのね」


「ああ。でも、本当にいいのか?僕なんかで」


結月は蒼真の顔を両手で包んだ。


「あなた以外考えられない。あなたは私に本当の愛を教えてくれた。相手の幸せを願うことが愛だって」


蒼真も結月を抱きしめた。


「僕も同じだ。君がいなければ、僕は永遠に迷い続けていただろう」



## 第五章 キューピッドカフェの二人


それから三か月後、希望ヶ丘駅には小さな喫茶店ができていた


。「キューピッドカフェ」という名前で、結月と蒼真が経営している。


店内には駅の切符が額に入れて飾られ、温かい雰囲気を醸し出していた。


カップルや一人で来る恋愛に悩む人たちが、よく訪れている。


「いらっしゃいませ」結月が明るく迎える。


お客さんは大学生のカップルだった。


しかし、二人の間には微妙な空気が流れている。


「何か悩み事でもあるの?」結月が優しく尋ねた。


「実は」女性が口を開く。「彼が最近冷たくて」


男性は困った顔をした。


「冷たいんじゃなくて、就活で忙しくて」


「でも、全然連絡くれないし、会ってくれないし」


典型的な誤解とすれ違いだった。蒼真がコーヒーを運んでくる。


「僕たちも昔、似たような経験がありました」


蒼真と結月は顔を見合わせて微笑んだ。


「本当に大切なのは、相手の立場になって考えることです」結月が言う。


「彼も就活で不安なのよ。あなたに心配かけたくなくて、距離を置いているのかもしれない」


「そんな」女性が驚く。


「君に嫌われたくないんだ」蒼真が男性に言った。


「でも、何も言わないのは逆効果だよ。素直に『忙しくてごめん、でも君のことを愛してる』って伝えればいい」


男性は目を輝かせた。


「そうか...僕、馬鹿だった」


「私も。彼の気持ち考えてなかった」女性も反省する。


二人は手を取り合い、仲直りした。


「ありがとうございます」二人は深々とお礼をして店を出て行った。


「また一組幸せになったね」結月が嬉しそうに言う。


「ああ。君と一緒だからできることだ」


蒼真は結月の手を取った。


この三か月で、二人は本当の意味でのパートナーになっていた。


お互いを支え合い、理解し合い、相手の幸せを願い合う関係。


「ねえ、蒼真さん」


「何だい?」


「私たち、いつか結婚する?」


蒼真は驚いた顔をした後、優しく微笑んだ。


「もちろん。でも、その前にやりたいことがある」


「何?」


蒼真はカウンターの下から小さな箱を取り出した。


中には手作りの指輪が入っている。


「正式にプロポーズしたい。結月、僕と結婚してください」


結月の目に涙が浮かんだ。


「はい!喜んで!」


二人は抱き合った。店の外では、夕暮れの中を手を繋いだカップルたちが歩いている。


みんな幸せそうな笑顔を浮かべていた。


希望ヶ丘駅は、今では本当の意味での「縁結びの駅」になっていた。


そして、そこには愛の奇跡を体現したカップルがいた。


死者と生者という越えられないはずの壁を、愛の力で乗り越えた二人。


彼らの存在そのものが、訪れる人たちに希望を与えている。


「ありがとう」蒼真が結月の耳元でささやいた。


「何の?」


「僕に愛することを教えてくれて。君に出会えなかったら、僕はずっと迷い続けていただろう」


「私こそ。あなたがいなかったら、私はずっと一人だったかもしれない」


二人は窓の外を眺めた。


切符の壁がオレンジ色の夕日に照らされて、温かく輝いている。


そこには新しい切符が貼られていた。「蒼真と結月 永遠に愛し合うことを誓います」と書かれている。


希望ヶ丘駅には、今日も新しい愛の物語が生まれ続けている。そして、その全てを見守るように、二人の愛も深まっていくのだった。



## エピローグ 一年後


「キューピッドカフェ」の一周年記念日。


店内はお祝いに駆けつけた常連客たちで賑わっていた。


その中には、一年前に結月と蒼真が最初に手助けしたカップルの姿もあった。


二人は無事に婚約し、幸せそうに結月たちにお礼を述べている。


「本当にありがとうございました。あの時、お二人に出会えなかったら、僕たち別れていたかもしれません」


「そんなことないわよ」結月が微笑む。


「あなたたちには最初から愛があった。私たちはきっかけを作っただけ」


「でも、そのきっかけがあったからこそ」女性が言った。「今の幸せがあるんです」


夜になって、お客さんたちが帰った後、結月と蒼真は二人きりで店を片付けていた。


「一年か。あっという間だったな」蒼真が感慨深げに言う。


「本当ね。でも、充実した一年だった」


二人は手を取り合って、希望ヶ丘駅に向かった。


今でも時々、二人で訪れるのが習慣になっている。


月明かりに照らされた駅舎は、相変わらず美しかった。


切符の壁には、この一年で新たに貼られた無数の愛の誓いがあった。


「みんな幸せになってるといいな」結月が呟く。


「きっとなってるよ。君が見守ってくれているから」


蒼真は結月を振り返った。


「実は、君にサプライズがあるんだ」


「サプライズ?」


蒼真はポケットから一枚の切符を取り出した。


しかし、それは普通の切符ではなかった。


「結月行き 片道 有効期限:永遠」と印刷されている。


「これは」


「僕から君への、愛の証だ」


蒼真は切符を結月に手渡した。


「僕の心は、君だけに向かう片道切符なんだ。もう戻ることはない」


結月は感動で胸がいっぱいになった。


そして、彼女もバッグから一枚の切符を取り出した。


「実は私も」


結月の切符には「蒼真行き 片道 有効期限:永遠」と書かれていた。


「お互い、同じことを考えてたのね」


二人は笑い合った。そして、お互いの切符を交換すると、壁の一番目立つ場所に貼った。


「これで永遠に一緒ね」


「ああ、永遠に」


二人は抱き合った。その瞬間、駅全体が優しい光に包まれた。


まるで、全ての恋人たちの愛が祝福してくれているかのようだった。


希望ヶ丘駅は、今夜も新しい愛の奇跡を見守っている。


そして、その中心には、死をも超えた愛で結ばれた二人がいた。


彼らの物語は、ここで終わるのではない。


これからも続いていく。多くの人の愛を育み、支え、祝福しながら。


愛とは、相手の幸せを願うこと。

愛とは、互いを支え合うこと。

愛とは、時を超え、死をも超える奇跡。


希望ヶ丘駅のキューピッドたちは、今日もそんな愛の素晴らしさを、訪れる全ての人に伝え続けているのだった。


【完】

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希望ヶ丘駅のキューピッド トムさんとナナ @TomAndNana

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