第3話 贄の少女

 ――一年前のこと。

 我が家は地元では老舗と名の知れた宿だ。昔は参勤交代の大名が宿泊したというだけあって、幾つかの部屋はたいそう風情がある。とはいえ、そうした部屋は高価なためいつも客が入っているわけではない。

 家にいた頃、私は跡取り息子とされていたにも

 かかわらず、不出来だった。父親と不仲であったため、寛げるような場所がない。そんな私が唯一、落ち着くことができるのが、うちの宿の客のいない部屋だった。その当時はまだ、父は不出来な私に跡を継がせるつもりだったらしい。父は家業について、私にあれこれと厳しく教え込んで、手伝わせようとした。おかげで、その日に予約の入っていない部屋――つまり、私がひとりで過ごすことのできる場所がどこなのか、知ることは容易い。そうやって、私は毎日、空き部屋に潜り込んでは本を読んだり、小説を書いたりしていた。

 宿屋の経営のあれこれを学ぶより小説を書く方が、私にはずっと楽しかった。

 そんなある日のこと。ちょうど桜の花が咲く時期に、いつもなら予約で埋まってしまうはずの部屋が、珍しく空いていた。その部屋は桜の木のある中庭に面しており、春はいつにも増して風情がある。私は喜んで、その日の余暇を桜の見える部屋で過ごすことに決めた。

 柔らかな光の差し込むその部屋へ入っていく。すぐさま桜の見える間へ私は歩いていった。と、庭に面したその部屋の畳の上に桃色の衣が広がっている。びっくりして見ると、どうやって入り込んだのか一人の娘が日溜まりで眠っていた。年齢は十八歳くらいだろうか。まだあどけなさの残る顔立ちは整っている。畳の上に花びらのように広がる桃色の衣は防寒のためにか、娘の身体の上に掛けられたものだった。

 娘はいったいなぜ、この部屋にいるのか。この部屋には予約は入っていないというのに。

 私が呆然と立ち尽くしていると、少女が小さく呻いて目を開けた。

「……あなたはこの宿のひとなの……?」

「君は誰だ……?」

 娘は身を起こして私を見上げた。その動作で桃色の衣が彼女の上から滑り落ちる。娘が着ているのは、鮮やかな赤の着物だった。

「……あたし? あたしはさくら。あなたは?」

「――私は聖治というんだ。君はここで何をしてる? ここはうちの宿の上等の部屋だ。君が昼寝していい場所じゃない」

「聖治さんはこの宿の人なのに、知らないの? しばらく、このお部屋はあたしのお部屋なのよ。あたしの初めてのお役目が終わるまで」

「お役目とは何だい?」

 尋ねてみても、さくらの説明は要領を得ないあやふやなものばかり。私に分かったのは、さくらがしばらくこの高級な部屋に滞在するということだけだった。しかし、そんなことがありえるだろうか。一泊だけでもかなり値の張る高級な部屋に、少女がひとりで何日も宿泊するというのは。

 翌日、私は再びさくらと会った部屋をのぞいてみた。もしかして、彼女は私の空想の産物なのかもしれない。そう思いもしたけれど、さくらは相変わらずその部屋にいた。縁側の縁に腰を下ろして、見事に花をつけた桜を眺めている。

 彼女は私に気付いて、微笑んでみせた。

「綺麗な桜ね」

「ああ、この部屋の売りなんだ。春はいつも宿泊したいというお客がいるんだよ」

 さくらは小さく頷いて、庭の桜を見上げた。風に舞う花弁を受け止めようと手を伸ばしている。

「庭へ降りても構わないよ」

 私の提案にさくらは首を横に振った。

「庭へは降りられないの。足が悪くて、あまり歩けないから……」

 残念そうに膝をさするさくらの姿を見て、彼女を喜ばせたいという気持ちがわいてくる。私はさくらの元へ行って、彼女を抱き上げた。さくらは「キャッ」と驚きの声を上げる。しかし、私が沓脱ぎ石の上に置いてある履き物を履いて庭へ降りると、「綺麗」と歓声を上げた。

「ありがとう」

 にっこり微笑むさくらは、たいそう愛らしかった。

 その日の夜のことだ。経理の帳簿に用途の不明な記述を見つけたため、私は父に尋ねようと部屋へ向かった。と、廊下の途中で父の姿を見つける。なぜか客室の方へ向かって歩いているようだった。

 まさか父が夜中に客室に行く用事があるとも思えない。いったい、どういうことなのか。不審に思った私は、ひそかに父の後をつけていった。

 父があのさくらにいったい何の用があるというのだろう。父が部屋の中に消えた後、私はそっと近づいてふすまを細く開けた。その隙間からのぞいてみれば、父母と番頭がさくらと向いあって座っているところが見えた。さくらの後ろにも付き人らしい女が二人、控えている。付き人たちが来ている着物は鈍色のうろこのような模様のもので、お仕着せにしてはかなり独特だ。

 両親と番頭が、低くお経のようなものを唱えているのが聞こえてくる。何やら異様な空気が部屋に満ちていた。

 付き人の一人がさくらに小声で何か囁くと、彼女は立ちあがって私の両親に近づいていった。父の前に立って、さくらが腕を差しだす。桃色の着物の袖からあらわになった白い腕を前に、父は傍らに置いていた短刀を手にした。短刀を鞘から抜いて、ゆっくりとさくらの腕に宛がう。さくらは怯えたように、ギュッと目を閉じた。

 ――まさか。

 私が息を呑んだとき、父はさくらの腕を切り裂いた。さくらは呻きながら、突っ立っている。彼女の付き人が素早くやってきて、朱塗りの杯にさくらの血を受けた。父に継いで母と番頭もさくらの腕を傷つける。朱塗りの杯には彼女の血が満ちていった。

 恍惚とした表情で、付き人から杯を渡された父がさくらの血に口を付ける。

 その光景に、私は無性に吐き気を覚えた。父も、この宿も穢らわしい気がする。

 そのとき感じた嫌悪感は、ずっと治まらなかった。翌日、父が私に当主として知っておかなければならない商売繁昌のための儀式があると言ったとき、私はすぐにさくらを傷つけるあの儀式なのだと分かった。我が家は少女をにえに繁盛してきた血塗られた家なのだと。そこで父と口論になり、父に言われたのだ。

『お前のような男には何の価値もない。世間に顧みられぬまま、死んでいけばいいのだ』

 私は父のようになるくらいなら、無価値でいいと応じた。本心だった。まだ若い娘を傷つけてまで商売繁昌の儀式をするくらいなら、宿なんか潰れてしまえばいい。家も絶えてしまえばいい。心からそう思っていた。

 父と口論したほどだったのに、肝心のさくらがどうなったのか覚えていない。彼女を助けてやりたいと思っていたのだが、数日後に気がつくと幻のようにあの部屋からいなくなっていた。それでも、あのとき感じた嫌悪感は忘れられない。結局、間もなくして、私は家を出て幾松の元へ転がり込んだのだった。


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