第4話 初夜


 どれだけ足掻こうとも望まぬ婚姻からは逃れられず、やがて婚礼の日がやって来た。三日もの間、土蔵に閉じこめられていた私が最初に感じたのは、解放されたことへの安堵だった。この三日間、外に出られたのは厠のときだけ、しかも監視付の目がある状態だったのだ。土蔵を出る頃には、私はすっかり精神的に参ってしまっていた。

 花婿である私がそんな状態であろうと、母は構わないようだった。母は私に紋付き袴を着せて、家の裏口に停まっていた迎えの車に放り込む。まるで犬か猫に対するような雑な扱いだ。

 私は土蔵に閉じこめられて精神的に弱っていたので、文句を言うような余裕はなかった。しかし、花婿に対してそんな扱いでよいのだろうかと疑問には思う。

 車が動き出す直前に顔を上げれば、裏口の前に母が立っていた。見送りのつもりらしい。しかし、なぜかその表情は強張っている。何かを恐れているようなその顔が、妙に印象に残った。

 私の婿入りする家は、かなり山奥の寂れた土地にあるという。車で三時間ほどかかって、ようやく私は妻となる女の家にたどり着いた。私の妻となるのは、花菱という家の女だった。花菱の屋敷はたいそう立派な佇まいをしている。こんなひなびた場所に、いったいどうやってこれほどの家屋を建てたのか不思議なくらいだった。

 婚礼は花菱の屋敷で身内だけで挙げるのが代々の習慣だという。そのため、母も弟もついては来なかった。本音を言えば、はみ出し者の長男の婚礼なんかどうでもいいのだろう。ただ私が融資してくれる花菱家を怒らせることなく、大人しく婿の座に収まればよいと考えているらしい。そうと分かっても、私には特に異論もなかった。今更、家族らしい顔で婚礼の席で祝いを言われたって白々しいだけだろう。

 花菱の家に入った私はしばらく、大広間で待たされた。大きな割に人の気配のない家だ。忙しく立ち働いているのは、白と黒を基調とした着物をまとった女ふたり。彼女たちはそれぞれ、あやめと桔梗と名乗った。年齢は三十くらいだろうか。二人の容貌は双子かと思えるくらいによく似ていて、どちらがどちらか見分けがつかない。端正ではあるが、見た傍から忘れてしまうような不思議な容貌の女たちだった。

「しばらくこちらでお待ちください」

「本来なら主がご挨拶すべきなのですが、何分、今日は婚礼ですので」

 口々に女中たちが話す。それがあやめと桔梗のいずれなのか、私には判別がつかない。

「婚礼のときまで花嫁は花婿に会わないのが、花菱家の決まりなのです」

「待ってください。花嫁というのは、この家のご当主のことなのですか?」私は驚いて尋ねた。

 母や弟の話では、確かに花菱家の当主が婿を探しているということだった。それを、私は当主が自分の娘か孫の婿を探しているものと思いこんでいたのだ。

「ええ、花嫁は当主自身です」

「花菱家は代々、女系ですので」

「では、今のご当主はずいぶん若くして家を継がれたのですね?」

 そう言うと、女中たちは顔を見合わせてクスクスと可笑しそうに笑った。

「さて、それはどうでしょう」

「女に年齢のことを言うのは無粋ですよ」

「申し訳ありません」

 思わず頭を下げる。そのとき、リンとかすかに鈴の鳴る音が聞こえてきた。二人の女中は顔を見合わせて「いけない」と呟く。女主人に呼ばれたらしい。それでは失礼しますと言って、彼女たちは大広間を出ていった。

 それから間もなくして、女中の片割れが私の元へ戻ってきた。着替えを手伝うからと言って、別の部屋へ案内される。そこで私は女中から渡された紋付き袴を身につけた。紋は見たこともない、何か蛇のようなものが絡み合う複雑な構図だ。

 そうするうちに夜がやってきて、婚礼が始まった。とはいえ、花菱家のしきたりによると婚礼は極秘の儀式らしい。参列者は誰ひとりいない。おまけに、婚礼の儀式を行う間は、明かりが極度に絞られている。私は何度かこの家の女当主がどういう人物なのか確認しようと試みた。が、部屋が薄暗い上、花嫁が白い綿帽子を目深に被っているせいで、彼女の顔は見えなかった。ただ白い打掛の袖から手だけがのぞいている。

 ――美しい女なのだろうか? それとも、醜い?

 粛々と婚礼が進む間、私はまったく見えない花嫁の容貌が気になって仕方なかった。

 三三九度の杯を交わした後、祝宴が始まった。祝宴といっても、私と花嫁が誰もいない大広間に並んで座り、祝いのごちそうを食べるだけだ。祝いの唄もなく、踊りもなく。私は幾度か他人の婚礼に出たことがあるが、これほど静かな祝宴は初めてだ。

 音楽を奏でる者もいない。開け放たれた大広間の向こう、燭台の明かりが落ちる庭から響いてくる秋の虫の音だけが、室内を満たしていく。私は何度か花嫁に話しかけた。が、彼女は無口な性質らしい。何を話しかけてもうつむいてしまって、相変わらず綿帽子の奥の顔は見えない。

 やがて、陰気な祝宴が終わり、床入りの時刻になった。私だけが女中に寝所に案内される。妻は支度して後から来るのだと言われた。

 私はまじまじと寝所の中を眺めた。

 その部屋の広さは大広間ほどではないが、広い。部屋の中央に延べられた布団は真新しく、寝心地がよさそうだった。壁際に文机が一脚、置かれている。文机の上に香炉が一つあった。香炉の中では沈香に似た匂いの香が炊かれていて、部屋の中に漂っている。女中の説明によれば、それは花菱家に伝わる特別な香ということだった。初夜の床でその香を炊けば、じきに跡継ぎが生まれるのだという。

 布団を前に座っているうちに、私は眠気を覚えはじめた。朝早くからこの屋敷に連れてこられたのだ。それから、緊張の連続。眠くなったとしても仕方がない。いっそ、このまま布団に入って眠ってしまおうかという考えが頭をかすめた。けれど、こんな夜に夫がさっさと眠ってしまえば、新妻は困惑するだろう。

 ――花菱さまのご機嫌を損ねてはいけませんよ。

 母と弟からさんざん言い聞かされた言葉を思い出す。私は眠気と戦いながら、新妻を待っていた。そうして、どれくらい経っただろうか。

 不意に足を引きずるような音が聞こえた気がした。ハッとして私は目を開ける。気がつけば、少し離れたところに寝間着用の着物をまとった女が正座していた。

 顔は影になっていて、よく見えない。行灯の明かりがあるのだが、女が座っている場所は明かりの届く範囲外だ。

「あなたが私の妻ですか……?」私はおそるおそる声を掛けた。

「……はい。あなたの妻の小夜です。よろしくお願いいたします」

 妻――小夜は少し掠れた声でそう答えて、畳に平伏するかのように深々と頭を下げた。私は立ち上がって、彼女の方へ歩いていく。小夜の前でひざまずいて、頭を下げたままの彼女の肩に手を触れた。

「そのように他人行儀なことを言わずに。私たちはもう夫婦になったのですから」

「ですが、あなたはご迷惑なさったでしょう? こんな寡婦の元へ婿入りとは。……しかし、花菱の家の掟なのです。家の繁栄のために、当主は跡継ぎを残すまで連れ合いを持っていなくてはならないと」

 寡婦と聞いて、私は小夜の後頭部をまじまじと見つめた。彼女の前夫はいったいどんな男だったのだろうか、と不思議に思う。いったいどうして小夜を置いていったのか。死亡したのか、出ていったのか。

 とはいえ、私にとって前夫がいなくなった理由はさほど重要ではない。幾松という居場所を奪われた私は、家族に押しつけられた小夜の婿という居場所を受け入れる他はないのだから。そう心を決めて、私は小夜を促した。

「過去の話はおいおい。今日はもう床に入りましょう」

 私は小夜を起こすべく、彼女の手を取った。手の中に収まった小夜の手はかさついて、しわだらけ、とてもではないが、資産家の当主の手とは思えなかった。手の甲には血管が葉脈のように浮かび上がっている。まるで私の母の手のように。

 思わず私は動きを止めた。

 手には隠しきれない年齢が現れるという。これは年増女の手だ。しかも、幾松よりずっと年上の。ギョッとして私は左手で小夜の肩を掴んだ。右手で彼女の顎を取って、顔を上げさせる。小夜の顔を見た瞬間、私は叫びそうになった。

 小夜の顔は浅黒く、しわだらけ。明らかに老女の顔だ。婚礼のときには綿帽子で隠れていたけれど、よく見れば髪も真っ白だった。

 跡継ぎを成すための婚姻ならば、子を成すことのできる年齢の女がするのが普通だろう。この縁談は母と弟の意向によるものだ。とはいえ、まさか老女と婚姻することになるとは予想していなかった。

「お、お前は……」

 私は小夜から身を離した。そのまま後ずさる。部屋の壁が背中にあたって、私は顔をしかめた。

「旦那さま、大事はありませんか?」

 慌てた様子で小夜が近づこうとする。私は「動くな」と鋭く叫んだ。これは妻だ。これから床を共にしなくてはならない。そう自分に言い聞かせようとした。けれど、こみ上げる嫌悪感を止めることができない。

「来るな! 私に触れるな……! 消えてくれ!」

 顔を背けたまま、気がつけばそう叫んでいた。小夜が怯えたように動きを止めるのが、視界の端に見える。部屋の中に痛いほどの沈黙が落ちた。私は小夜へ目を向けない。彼女を正面から見てしまえば、自分がひどい罪悪感を覚えるだろうと思ったから。

「……わたくしが醜いからですか?」小夜は震える声で尋ねた。

 私は答えなかった。答えられなかった。いくら彼女の姿に驚いたとはいっても、正直に打ち明けるのはあまりに心ない行為ではないか。

 しばらくの間の後に、小夜は「申し訳ありません」と呟いた。衣擦れの音がして、彼女が部屋を出ていく気配がある。そこでようやく、小夜への罪悪感がこみ上げてきた。だが、だからといって彼女と床を共にするのは、心理的な抵抗が大きすぎる。せめて幾松くらいの年齢の女であれば、幾松のようないい女であればよかったものを。

 小夜の気配が完全に消えるまで、私はずっと戸口に背を向けて黙っていた。部屋に満ちる香の香りが眠気を誘うのか、次第に目蓋が重くなっていく。いつしか私は眠りこんでしまっていた。次に目が覚めたときには朝が来ていた。


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