第2話 望まぬ縁談

 気がついたとき、私は見慣れた部屋にいた。一年前に飛び出した自宅の一室に。男二人に気絶させられ、ここまで運ばれたらしい。

 私は起き上がり、戸口へ向かった。引き戸を開けようとする。しかし、外からつっかえ棒でもしてあるのか、戸がガタつくだけだった。窓から逃げようにも、この部屋には窓がない。戸口以外の三方を壁に囲まれている。

 私は戸口に戻って、戸をガタガタ揺らした。そうすれば、そのうち戸が外れるかもしれないと考えたのだ。けれど、それよりも先に廊下から足音が聞こえてくる。戸が開いて、母が部屋に入ってきた。その背後には弟も続いている。母は小柄だが、弟は徴兵検査で身体頑強とされる甲種に合格した上、二年間の兵役で鍛えた体格の持ち主だ。弟が小柄な母の後ろをついて回る様は、何だか滑稽だった。

「静かになさい。お客さま方がお休みですよ」母がビシリと言った。

「そんなこと、私の知ったことじゃない」

「何ということを。お前だってこの家で生まれ育ったんだから、宿のお客さまがどれだけ大事か分からないとは言わせませんよ」

「もう私には関係のないことだ」

 この家に私の居場所はどこにもない。ずっと居心地の悪い思いをしていた。それでも長男だからと父の見習いなどしてみたが、ものにはならず。結局、父を失望させただけだった。家業を継がせられないと判断された無能な長男に、今更、帰ってきて何をせよというのか。

「お前には戻ってきて、してもらわなくてはならない仕事があります」

「仕事だって?」

「うちに融資してくださっている方が、婿を探していらっしゃる。お前はその方の伝手で、婿入りするんですよ」

「婿入り……。どうして私がそんなことを」

「すまない、兄さん」弟が私の前にひざまずいて、頭を下げた。「父さんが生前に粗相をして、融資をしてくださる方の機嫌を損ねたようなんだ。だが、うちが宿屋を続けていくためには、その方の融資がなくては不可能だ。頼めるのは、兄さんだけなんだ」

「今さら何を勝手なことを。私を追い落として家を継いだくせに」

 私の言葉に弟は「すまない」といっそう深くうなだれる。しかし、母は怯まなかった。

「聖治、お前に宿を経営するような才覚はありませんでした。お父様の判断は正しかったのです。長男としての誇りがあるのなら、大人しく婿入りしなさい」

 誰が母や弟のために、望まない婿入りなんかするものか。「帰る」と言って私は部屋を出ていこうとした。そのときだ。

「いいんですか? お前がこの話を受けないのなら、お前が世話になっている芸者の悪い噂を流して、二度とお座敷に呼ばれないようにしてしまいますよ」

 その言葉に私は思わず動きを止めた。

 幾松は娘時分からずっと、芸者として生きてきた女だ。芸者としてはもういい年齢だが、彼女の唄を好む客も多い。幾松自身も唄が好きなようだった。それなのに突然、芸者として働けなくなったら、生きる術を失ってしまうだろう。私のせいで彼女がどうなってもいいと言うことは、できそうもない。

「……分かった。言うことを聞くから、幾松に手出ししないでくれ」絞り出すようにそう答えた。

「それでこそ、我が家の長男です」

 母が満足そうに微笑む。長男という言葉に私は吐き気を覚えた。これまで、長男という言葉の元にどれだけ義務や不本意な行為を押しつけられてきたことか。長男だったことの利点は徴兵を免除されたことくらいだろう。しかし、実際には私は家業の跡継ぎとしては不適格だった。結局、父は三年の兵役期間を軍隊で過ごして戻った弟に家業を譲る決断をした。そのことでいっそう、父は私を嫌悪するようになったのだ。幾松の傍にいるときだけ、私は長男という立場の重荷から自由でいられた。彼女の家で過ごした日々が懐かしく思える。

 明日、幾松には今までの礼を言って、別れを告げよう。そう考えていたのだけれど、翌日、私はその考えが甘かったことを悟った。母の意を受けた婚姻を承諾したにもかかわらず、私の軟禁状態は変わらなかったのだ。

 なぜ私を閉じこめておくのか。

 大声を上げてみても、暴れてみても、母も弟もやって来ない。代わりに母が新たに雇ったらしい屈強な若者たちが駆けつけて、私を取り押さえた。そんなことを何度か繰り返すと、今度は若者たちが部屋の戸の前に立って私の出入りを監視する始末。私は母の言いなりに婚姻を承諾したというのに、こんな扱いを受けるとは、どういうことなのか。

 納得がいかない私は、ある夜、こっそりと自室を抜け出した。今夜こそ、幾松に会いに行くつもりだったのだ。ところが、逃げ出す前に表で店の者に見つかった私は、連れ戻されて土蔵に放り込まれてしまった。土蔵はもともと金銀や高価な工芸品を保管しておくために建てられたものだ。頑丈な上、外から鍵を掛けることができる。

 私がどれだけ暴れても、土蔵の扉はびくともしなかった。それだけではない。壁が厚く、普段から中まで日の差さない土蔵の中はかなり冷え込んだ。暴れ、叫び疲れた後、震えながら私はうずくまって時が過ぎるのを待った。

 そうして明け方、ようやく母が現れた。

「逃げようとした罰です。婚礼まであと三日……お前はその日までそこにいなさい」

「嫌だ! 出してくれ! もう逃げないから……」

「前に逃げない約束したのに、お前は破ったでしょう?」

「私は幾松に別れを言いたかっただけだ!」

「信用できません」

 母はそう言い捨てて、土蔵を出て行った。

 昼間になると、店の下働きの者が食事と布団を持ってきた。出してほしいと言っても聞き入れられはしない。仕方なく私は布団にくるまって、寒さを防ぎながら時が過ぎるのを待った。本も他の娯楽もない土蔵の中でぼんやりしていると、この家で受けたさまざまな仕打ちが蘇ってくる。

 老舗の宿だろうと何だろうと、潰れて絶えてしまえばいいのだ。家族を虐げなければ保てない家なんか。悔しさを噛みしめながら、私は家を出るきっかけになった出来事を思い出していた。


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