第12話 佐伯の再起

あの夜、路地裏で蓮に言われた言葉が、耳の奥にずっとこびりついていた。


 ──水瀬をこれ以上泣かせるな。

 

胸の奥に沈殿していた重い泥を、強引にかき混ぜられたような感覚だった。


 家に帰っても、机に向かっても、文字が頭に入らない。

 予備校で授業を聞いても、蓮の声と、水瀬の笑顔が交互に浮かんでくる。



 「変わらなきゃ」

 その言葉は簡単に浮かぶくせに、何をどうすればいいのかがわからない。

 焦りが募るほど、机に向かう時間が空回りしていく。

 模試の判定はEのまま。

 自分が立ち止まっている間にも、時間だけは残酷に過ぎていく。


 深夜、バイト終わりにコンビニのガラスに映った自分を見た。

 疲れ切って、髪も乱れ、目はどこか濁っていた。

 「このままじゃ……」

 小さく口に出した声が、自分に跳ね返ってきた。



 翌朝、いつもより少し早く家を出た。

 予備校の自習室が開くと同時に席に座る。

 最初は、ただ「変わってるふり」だったのかもしれない。

 でも、参考書を開いているうちに、昨日よりは長く集中できている自分に気づいた。


 昼休み、水瀬からメッセージが届く。

 「お昼、食べた?」

 いつも通りの短いやり取り。

 その“いつも通り”が、どれだけありがたいことか、今になってわかる。



 数日後、偶然駅前で会った水瀬は、手に買い物袋を持っていた。

 「たまたま安かったから」と笑って見せた中身は、俺の好きなカップ麺だった。

 あの危ないバイトのことには、一切触れない。

 まるで最初から何もなかったように振る舞う彼女を見て、胸の奥が締め付けられた。


 ──僕は、この笑顔を守れる人間になれるのか。

 その問いが、焦燥よりも強い原動力になっていくのを感じた。




 週末、駅のホームで蓮と鉢合わせた。

 「あの日から、変わったか?」と彼はストレートに聞いてきた。

 「……少しずつな」

 嘘じゃない。だが胸を張れるほどでもない。


 蓮は短くうなずき、「焦らずやれ」とだけ言って電車に乗り込んだ。

 その背中を見送りながら、奇妙な安心感があった。

 俺はもう、完全に一人じゃない。



 その夜、机に向かいながら思った。

 俺は勉強も生活も、中途半端にやってきた。

 結果も出せず、支えてくれる人まで危険に晒してきた。


 ──終わらせよう、この甘えを。

 水瀬に笑ってもらうためにも、自分で胸を張れる未来のためにも。


 ペンを握る指先に、いつもより力がこもった。

 浪人一年目の秋、俺はようやく再スタートを切った。

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