第9話 佐伯の再起 1 (水瀬梨花)

昼下がりのキャンパスは、柔らかい風が抜け、開いた本のページをくすぐった。

 

図書館のテラス席で参考文献を広げてはいるけれど、視線は同じ行を何度も往復していた。


指先が紙の端をなぞる癖が出るのは、集中が途切れている証拠だ。


ふと、軽い笑い声が耳に入る。

 

視線を上げると、ベンチの向こうに篠宮くんがいた。

光の中で横顔を緩め、クラスメイトと何かを話している。

 


あの夜、鋭く私を引き寄せた腕と同じ人とは思えない。

光の縁取りのせいか、表情がやけに柔らかく見えた。


気づけば目が合っていた。

彼は軽く手を上げる。

私は慌てて視線を戻し、本の文字に目を落とす。


……だけど胸の奥で、心臓が一拍だけ乱れた。



スマホが震く。

“今日、駅前で”

佐伯くんからの短いメッセージに、指先が少しだけ熱くなる。

私は「わかった」と返し、本を閉じた。


夕方の駅前は、人波の合間を光がすり抜けていた。

佐伯くんは腕を組み、私を見るとわずかに笑った。


「悪い、時間取らせて」

「ううん。勉強、順調?」


返事は曖昧で、すぐに話題が変わる。


「ちょっと相談。友達に、いい稼ぎ方を教えてもらってさ」

「稼ぎ方?」

「うん。少額から始められて、すぐ増えるって」


その言葉で、胸の奥に冷たい水が落ちる。

“すぐ増える”なんて、危ないに決まっている。


「……どういうやつ?」

「会って直接話すってさ。今夜、ちょっと」

「行くの?」


声が硬くなった。佐伯くんは苦笑して肩をすくめる。


「大丈夫だって。水瀬は心配性だな」


その一言で、反論が飲み込まれてしまう。

笑顔を作って頷いたけれど、心の奥はざわついたままだった。



別れてから間もなく、スマホにまた通知が入る。

“一緒に帰るか?”

差出人は、篠宮くん。


なぜか、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。



ホームで並んで電車を待つ。

ドアが開くと、自然に並んで座った。

車内は空いていて、座席の青い布地が少しひんやりしている。


「さっき、駅前にいたろ」

「……見られてた?」

「たまたま」


 それ以上、彼は詮索しない。ただ、視線の端で私を気にかける気配だけがある。


「最近、ちゃんと寝てるか?」

「前よりは、ね」

「ならいい」


 それだけのやり取りなのに、なぜか胸の奥がほどける。

 言葉が多すぎない距離感が、今の私には心地よかった。


「……ねえ、“効率よく稼げる方法”って、どう思う?」


自然に口からこぼれていた。

彼は少しだけ間を置き、窓の外に目をやったまま答える。


「“すぐ増える”は、だいたい“すぐ減る”」


その短い言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。

まるでそこだけ水面が揺れない湖のように。



降りる駅に着き、改札を出ると夜の群青が空を覆い始めていた。

ふと視界の端に佐伯くんの姿が映る。電話を終えると、

足早に路地へ消えていった。


隣を歩く篠宮くんが、何も言わずこちらを見た。

私は「大丈夫」と笑ってみせる。

けれど、笑みの奥で、何かが小さくきしんだままだった。




少し、心にモヤがあるものの

蓮くんと出会ってから、少しずつ日常の色が変わっていくのを感じていた。


講義終わりにふと同じ方向へ歩く帰り道、

カフェでの短い会話、何気ない視線のやり取り。


高校時代には想像できなかった、

彼の静かな優しさに触れるたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。


だけど、その変化が嬉しい反面、私の中にはずっと小さな棘が刺さっていた。

 

──佐伯くんが、どんどん追い詰められていく。


浪人生活は長く、そして孤独だ。

予備校代を稼ぐために必死でバイトを掛け持ちしても、足りない。

彼の口調は日に日に尖り、笑顔は減っていった。

それでも、私は「今は支えなきゃ」と思ってきた。

 

でも、限界は近いのかもしれない

……そんな予感が、冷たい手で胸を掴んで離さなかった。



ある日、駅前で偶然見かけた。

佐伯くんが、知らない男たちと話していた。

革ジャン姿の、どう見ても学生には見えない二人組。

 

彼らの笑い声の中に、妙な棘と匂いを感じた瞬間、背筋が冷たくなった。


声をかけるべきか迷ったけれど、足が動かなかった。

 

代わりに、気づけばスマホを握りしめていた。

 

──蓮くんの番号を呼び出していた。


「……佐伯くんが、ちょっと変なんだ。助けてほしい」


 その一言を送ったあと、後悔と安堵が同時に押し寄せた。

 でも、もう後戻りはできなかった。

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