第9話 佐伯の再起 1 (水瀬梨花)
昼下がりのキャンパスは、柔らかい風が抜け、開いた本のページをくすぐった。
図書館のテラス席で参考文献を広げてはいるけれど、視線は同じ行を何度も往復していた。
指先が紙の端をなぞる癖が出るのは、集中が途切れている証拠だ。
ふと、軽い笑い声が耳に入る。
視線を上げると、ベンチの向こうに篠宮くんがいた。
光の中で横顔を緩め、クラスメイトと何かを話している。
あの夜、鋭く私を引き寄せた腕と同じ人とは思えない。
光の縁取りのせいか、表情がやけに柔らかく見えた。
気づけば目が合っていた。
彼は軽く手を上げる。
私は慌てて視線を戻し、本の文字に目を落とす。
……だけど胸の奥で、心臓が一拍だけ乱れた。
◇
スマホが震く。
“今日、駅前で”
佐伯くんからの短いメッセージに、指先が少しだけ熱くなる。
私は「わかった」と返し、本を閉じた。
夕方の駅前は、人波の合間を光がすり抜けていた。
佐伯くんは腕を組み、私を見るとわずかに笑った。
「悪い、時間取らせて」
「ううん。勉強、順調?」
返事は曖昧で、すぐに話題が変わる。
「ちょっと相談。友達に、いい稼ぎ方を教えてもらってさ」
「稼ぎ方?」
「うん。少額から始められて、すぐ増えるって」
その言葉で、胸の奥に冷たい水が落ちる。
“すぐ増える”なんて、危ないに決まっている。
「……どういうやつ?」
「会って直接話すってさ。今夜、ちょっと」
「行くの?」
声が硬くなった。佐伯くんは苦笑して肩をすくめる。
「大丈夫だって。水瀬は心配性だな」
その一言で、反論が飲み込まれてしまう。
笑顔を作って頷いたけれど、心の奥はざわついたままだった。
◇
別れてから間もなく、スマホにまた通知が入る。
“一緒に帰るか?”
差出人は、篠宮くん。
なぜか、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
◇
ホームで並んで電車を待つ。
ドアが開くと、自然に並んで座った。
車内は空いていて、座席の青い布地が少しひんやりしている。
「さっき、駅前にいたろ」
「……見られてた?」
「たまたま」
それ以上、彼は詮索しない。ただ、視線の端で私を気にかける気配だけがある。
「最近、ちゃんと寝てるか?」
「前よりは、ね」
「ならいい」
それだけのやり取りなのに、なぜか胸の奥がほどける。
言葉が多すぎない距離感が、今の私には心地よかった。
「……ねえ、“効率よく稼げる方法”って、どう思う?」
自然に口からこぼれていた。
彼は少しだけ間を置き、窓の外に目をやったまま答える。
「“すぐ増える”は、だいたい“すぐ減る”」
その短い言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
まるでそこだけ水面が揺れない湖のように。
降りる駅に着き、改札を出ると夜の群青が空を覆い始めていた。
ふと視界の端に佐伯くんの姿が映る。電話を終えると、
足早に路地へ消えていった。
隣を歩く篠宮くんが、何も言わずこちらを見た。
私は「大丈夫」と笑ってみせる。
けれど、笑みの奥で、何かが小さくきしんだままだった。
◆
少し、心にモヤがあるものの
蓮くんと出会ってから、少しずつ日常の色が変わっていくのを感じていた。
講義終わりにふと同じ方向へ歩く帰り道、
カフェでの短い会話、何気ない視線のやり取り。
高校時代には想像できなかった、
彼の静かな優しさに触れるたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
だけど、その変化が嬉しい反面、私の中にはずっと小さな棘が刺さっていた。
──佐伯くんが、どんどん追い詰められていく。
浪人生活は長く、そして孤独だ。
予備校代を稼ぐために必死でバイトを掛け持ちしても、足りない。
彼の口調は日に日に尖り、笑顔は減っていった。
それでも、私は「今は支えなきゃ」と思ってきた。
でも、限界は近いのかもしれない
……そんな予感が、冷たい手で胸を掴んで離さなかった。
◇
ある日、駅前で偶然見かけた。
佐伯くんが、知らない男たちと話していた。
革ジャン姿の、どう見ても学生には見えない二人組。
彼らの笑い声の中に、妙な棘と匂いを感じた瞬間、背筋が冷たくなった。
声をかけるべきか迷ったけれど、足が動かなかった。
代わりに、気づけばスマホを握りしめていた。
──蓮くんの番号を呼び出していた。
「……佐伯くんが、ちょっと変なんだ。助けてほしい」
その一言を送ったあと、後悔と安堵が同時に押し寄せた。
でも、もう後戻りはできなかった。
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