第十二話 高木の人魚伝説 side:七瀬華
「日本海の魚ってすごくおいしいんだね」
「やっぱり、荒波にもまれているから身が引き締まって、おいしくなるんじゃないかな」
卜井さんと遠藤さんが夕食の刺身や焼き魚について感想を言い合っている。
大山先生を先頭に、私と美月先生、その後ろを佐藤さん、鈴木君、卜井さん、遠藤さん、飯田君、物部君がついてきている。夕食を終えた私たちは、民話の集いの会場である、談話室『若紫』に向かっていた。
「さあ、ここですよ」
大山先生は、そういって、洋式の扉を開く。
部屋は和室ではなく、洋室であり、床はフローリングであり、段差のないバリアフリーの造りであった。中央のテーブルには花瓶があり、ここにもスイレンが活けられていた。
花瓶の隣にはLEDランタンが置かれていたが、インテリアなのだろうか、何の用途に使うのか、私には見当がつかなかった。
「皆さんお待たせしました」
後ろから大女将の滝子さんの声が聞こえる。
「今日のゲストのタチアナさんがいらっしゃいました。皆さん、どうぞソファーにおかけになってください」
滝子さんの後ろから車いすに乗った老女が入ってくる。白髪で顔立ちはどことなく日本人に近いが、彫が深い。高めの鼻が印象的だ。瞳の色はミハエルさんと異なり、私たちと同じ暗褐色をしていた。若い頃は美人だったのだろう。上品な佇まいをしていた。
車椅子を押していたのは、白衣を着た初老の医師で柔和な顔立ちで眼鏡をかけていた。優しそうな町医者という印象だ。
その後ろには、長い髪をポニーテールにした眼鏡をかけた女性がついてくる。医師の助手なのだろうか。看護師というよりも銀行で見かけるような事務員の制服を着ていた。きれいな顔立ちをしていたが、キツめの化粧がその顔を台無しにしている。真っ赤なルージュに濃いめのアイシャドウ。化粧の趣味が悪いように感じた。
そして、その後ろからミハエルさんが入ってきた。
「皆さん。どうも初めまして。私は、この街で医者をしています、
樹先生は、そう言ってにこやかに挨拶をした。白衣の胸に付いた名札には『M.ITSUKI』と書かれており、山根さんの名札にも同様に『M.YAMANE』と書かれていた。
「あのー。くだらない質問かも知れませんが、名札がローマ字なのって、理由はありますか」
美月先生が興味津々な様子で質問する。
「いや。鋭くて非常にいい質問です。普通、名札は日本語で書かれていることが多いかも知れませんが、それはあくまでも日本人相手に仕事をするという前提に立っているのです。でも、この高木町は違う。ここにはロシアの方が住んでいるだけでなく、港から色々な国の人々がやってきます。そのような人々の診療をするためには、日本人以外の方からも分かりやすい名札が必要だということで、私たちのクリニックでは、ローマ字表記の名札を導入しています」
樹先生が熱く語る。一方で山根さんは相槌を打つことなく、表情を変えずに立っていた。
「なるほど。この土地の特色が見えて、とても興味深いです」
美月先生は楽しそうだ。
「そろそろ、在宅患者さんの回診に向かうので、私たちは失礼します。それと、あと、集いが終わりましたら、タチアナさんを迎えに来ますので。滝子さん。連絡お願いします。ミハエル君。タチアナさんをよろしく」
そう言って、樹先生と山根さんは談話室を後にした。
「さあ、そろそろ始めましょうかね」
滝子さんがLEDランタンを点灯させ、部屋の照明を落とす。LEDランタンの光が灯火のように揺らめいている。一定間隔で揺らめく反射板を使っているのだろうが、私には仕組みはよく分からない。物理の相澤先生なら、そこら辺の事をよくご存知なのかもしれない。
明るかった部屋が一気に民話を語るのにふさわしい空間に変化していた。
「タチアナさんは、五十年以上、日本に住んでいます。旦那さんは貿易商で、それがきっかけで来日したそうです。ロシアの南部、ウクライナに近いところの出身で、民族的にはトルコ系の血を引いているそうです。ロシアは広いので、実は沢山のルーツを持った人々が暮らしています。私とタチアナさん、似ていませんが、祖国は同じ。同胞です。あまり日本語が話せないので、私が通訳をさせてもらいます」
ミハエルさんは、ゆっくりとした口調で丁寧にタチアナさんの紹介をした。
その後、タチアナさんに優しい眼差しで、ロシア語で一言、二言話しかけた。
タチアナさんはゆっくりとロシア語で語り始める。
「これから話すのは、ロシアの人魚、ルサールカの物語です」
ミハエルさんが通訳した。
昔、ドニエプル川の近くの村にイリーナとマーシャという年の離れた姉妹が暮らしていた。イリーナはその村一番の美人で公爵の三男との結婚を控えていた。
イリーナが十七歳になって、いよいよ結婚式が開かれるという前夜、イリーナは姿を消したのだった。
イリーナの母親のターニャは、村のあらゆる人に娘の行方を聞いた。村の何人かに声をかけたところ、村の猟師が、その夜、ドニエプル川のほとりの林でイリーナを見かけたという。ターニャは猟師にその夜のことを詳しく尋ねる。
猟師は言う。
「俺が鹿狩りで遅くなった時、林に突っ立っているイリーナを見つけて『どうした』って声をかけたんだ。するとイリーナは『寝苦しかったから涼んでいるだけよ』と答えたんだ。俺は『結婚式、嫌なのか』って聞いたんだ。すると『仕方ないじゃない。故郷を離れるから見納めておこうと思っただけ』そう言って、目元を拭った。まぁ、年頃だし色々と思うところはあるんだなと思って『お袋さん、心配するから早く帰れよ』と俺はそう言い残して、先に帰ってしまったんだ。すまなかった。無理にでも連れて帰れば良かった」
ターニャは猟師の話を聞いて、イリーナはもうドニエプル川の底に沈んでしまっている事を悟った。
十年後、美しく成長した妹のマーシャは十六歳になり、恋人のニコライと共にドニエプル川のほとりに夕涼みにやって来た。楽しく語らい合い、日が傾いて満月が顔を出し始めた頃、どこからともなく聞き覚えのある歌声が聞こえてくる。イリーナの歌声だ。
そう思ってマーシャとニコライは歌声の聞こえる方向に向かう。
そこには、川の真ん中に立って長い髪を梳く、裸のイリーナがいた。
十年という歳月を感じさせない若く美しい容姿に見とれたニコライは、マーシャの腕をつかんだまま川に入ろうとする。
マーシャは、「ニコライ、止めて。姉さんは死んだの。これは現実じゃないわ。すぐに引き返して」と言って必死に抵抗するが、ニコライの手に更に力がこもる。イリーナは構わず美しい声で歌い続ける。
ニコライはマーシャもろとも川に入り、ついには川底に沈んでいった。
マーシャは薄れゆく意識の中で川底から姉を見上げた。そこにあったのは、美しい鱗で覆われた大きな鰭だった。
タチアナさんが話し終え、談話室は温かな拍手に包まれる。ミハエルさんは拍手に応えるように「ありがと、ありがと」と言いながら、少しお辞儀をした。
拍手が静まって、すっと一人が手を挙げる。
「あの。ロシアのルサールカって、大体人魚の形なのでしょうか。それと、この話って昔から伝わる話なのでしょうか」
鈴木君はミハエルさんを真っすぐ見て質問する。
ミハエルさんは一瞬だけ少し目を見開いたが、すぐに元の表情に戻って、タチアナさんにロシア語で鈴木君の質問内容を伝えた。タチアナさんから回答を得たミハエルさんが口を開く。
「おっしゃる通り、ルサールカの伝承は様々で、日本の幽霊みたいな話もあります。この話はタチアナさんのおばあさんから教わった話とのことです」
「ありがとうございます」
そう言いながらも、鈴木君の表情は固く、何かを考えているようだ。持参していたノートにいくつかメモを書き留めていた。
「それじゃ、私が話しましょうかね」
鈴木君の質疑応答からしばらくして、滝子さんが切り出した。
「私が話すのは、この高木町に伝わる『人魚送り』というお祭りの由来についての民話です。人魚送りは高木町の祭りで、毎年六月に人魚を象った藁人形を川に流します」
そう言って、談話室の上部に設置されたプロジェクターから藁人形の写真が映し出される。パソコンは大山先生が操作しているようだ。談話室が意外とハイテクなことに驚いた。洋室であることといい、きっと企業研修にも利用できるように工夫しているのだろう。照明を落とした理由もよく分かった。祭りの様子が次々と映し出される。藁人形を流すのは皆、小学生くらいから二十代前半くらいの若い女性だった。
「お祭りの由来はいくつかありますが、最も有力なのが、生贄説です。その昔、高木町の前身である高木村で、ひどい飢饉が起こり、この山に住むと言われる仙人のところに、
滝子さんが話し終えて、照明がつく。思った以上におどろおどろしい話だ。それにしても、この話と人魚にどんな関係があるのだろうか。単に生贄の娘を弔うならば、わざわざ人魚型の藁人形を作る必要がない。人形が訛って人魚になったのか。あるいは、両足を縛った姿を人魚になぞらえているのか。それとも……。
私が考え込んでいると、「はいっ」という元気な声がした。卜井さんだ。
「この話と関係ないかも知れませんが、だいぶ前のオカルト雑誌に、T町の浜に八十年以上前に水難事故で亡くなったはずの女の子が当時の姿のまま打ち上げられたっていう記事があったのですが、もしかして、ここの浜だったりしますか。記事には時空の歪みとか、尼の比丘尼の呪いとか、色々あったんで気になります」
一呼吸おいて、滝子さんが答える。
「そうね。確か今から二十年位前に、それと似た話があった気がするわ。私が女将でバリバリ働いていた頃、身元不明の女の子、確か十代後半から二十代前半位の子だったかしら。その子が浜に打ち上げられていたみたいで、警察が、この子に心当たりはないかと、色々捜査していたの。私も色々聞かれたけど、直近の宿泊客にそれらしき女の子はいなかったのよね。難破船から流されてきたのではないかと、地元では噂になったの。ただ、難破船の報告も無かったみたいで、結局、その子はどこから来たのか分からなかったの。それで、警察は
滝子さんは現実的な人だと思う。きちんと怪談話と現実を分けている。だからこそ、滝子さんの後半の話は少し不気味だ。本当に身元不明の女の子がフキさんだとしたら、現代の生物学では説明がつかない。そもそも、その女の子はヒトであったのか、それとも『シェイプシフター』に連なる何かの擬態であったのか、犬飼誠司先生が、かつての松井美弥さんを取り戻そうとしたように、何者かが同じ事をやろうとしていたのなら。私は、自身の妄想に寒気がした。
「さて、これでお開きにしましょうかね。折角なので、タチアナさんから一言いただきましょうか」
滝子さんがそう言ってタチアナさんの方を見る。
ミハエルさんがロシア語に翻訳して、タチアナさんに伝える。
タチアナさんがゆっくりと話す。
私はロシア語がわからないが、何となく『ルサルカ』という単語と、それに続く『ヴァジノイ』という単語が聞き取れた。
タチアナさんは凄く満足げに話し終えた。
ミハエルさんが翻訳する。
「こんな素晴らしい場に呼んでいただき、ありがとうございました。こうやって若い人に伝承を伝えることが出来て嬉しいです。ここの民話にも私たちの伝承が息づいていることに驚きました」
ミハエルさんは、そう言って優しく微笑んだ。その言葉に、その場にいた全員が拍手して、タチアナさんは樹先生に連れられて、談話室から退室した。そして、ミハエルさんも明日の花の配達の準備があるからと帰っていった。
この民話の会で、ミハエルさんは皆に分かりやすく意訳していたのだろう。それでも、『ヴァジノイ』という言葉が重要な意味を持っているようで、何となく胸の奥につかえていた。
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