幻想の彼方

ちょむくま

幻想の彼方

 こんなことがあって、いいのか。

 死んだはずの人と、再び会えるなんて。


 俺は交通事故で彼女を失った。大切で、大切で、もう二度と戻らないと思っていた彼女を。

 今でもその悲しみは、胸の奥に深く根を張ったままだ。消えることも、薄れることもない。


 ちょうど一年前のことだった。


「好きです!付き合ってください!」


 この告白、どっちがしたと思う?

 実は、あっちからだったんだ。


 彼女は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにモジモジと身をよじりながら言った。

 その姿が今でも、目の奥に焼き付いて離れない。


 俺は驚きながらも、素直に返した。


「はい、これからよろしくね。」


 その場で2人、自然と抱き合った。

 けれど、その瞬間を偶然見てしまったクラスメイトがいた。


「わあっ!拓哉くん、抱き合ってる!てっきり草食系でおとなしい人かと思ってたのに、白石さんは学校一の美女で誰にも興味ないと思ってたのに!これはもう、みんなに報告しなきゃ!」


 彼女はそう言いながら、慌てて逃げていった。

 その話はすぐに学校中に広まった。


「まじで羨ましい!お前があの白石さんと付き合うなんて、誰も信じられないよ!」

 クラス中がザワザワと騒ぎ出す。


 白石さんの友達グループも負けてはいなかった。


「え、拓哉、静かなふりして実はやるじゃん!」

「は、はずかしいよ⋯⋯」

「俺もだよ。でももうやってやる!」


 そして。


「チュッ⋯⋯」


「えっ!?」


 「わ――っ!」


 教室中が叫んだ。


「キスしたぁぁぁ!」


 それを聞いて涙を流す男子もいた。


「うう⋯⋯俺も白石さん好きだったのに⋯⋯」


 そんなことを、数ヶ月後の今日、突然思い出したんだ。


「なあ、なんで白石さんとお前が付き合うことになったん?」


 急に友達に聞かれて、俺は戸惑った。


「えっ⋯⋯なんでだっけな?あれ⋯⋯覚えてねぇや!」


「はあ?」


「覚えてないっていうか、あんまり思い出せないんだよな」


 友達はため息をついて、焦った口調で言った。


「まあ、とにかく帰ろうや!」


「お前がこんな話振るから遅くなったんだよ」


 親友は真っ赤な顔で文句を言う。


「う、うるせえ!」


 ⋯⋯あいつも、白石さんが好きだったのかな?

 俺は心のどこかでそう思った。


 家に着いた。


「父さん、ただいま」


「ああ、おかえり、拓哉!今日の晩ごはんは、お前の大好きなカレーだぞ!」


「ありがとう、父さん」


 リビングでテレビを見ていると、ニュースが流れてきた。


「最近、ひき逃げ事件が多発しています。皆さん、くれぐれも気をつけてください」


「物騒だなあ」


 俺は父さんと2人で暮らしている。

 母さんは、俺が小さい頃に急病で亡くなった。


「うん⋯⋯怖いよね」


 ご飯の支度が整い、食卓を囲む。2人で。


「いただきます」


「カレー、美味しいな」


「そうか、喜んでもらえてよかった」


 けれどこのカレー、正直あまり美味しくない。

 母さんの作ってくれたあのカレーの味だけは、なぜか鮮明に覚えている。


 母さんが死んでから、うちにはあまりお金がなくて、古いアパートで暮らしている。


「ごちそうさまでした」


「うん」


「部屋に戻るね」


「ああ」


 ガチャッ。


「ぷぅぷぅ⋯⋯」


「あっ!ソラ、ただいま!」


 俺はペットのうさぎ、ソラを飼っている。


「お前もお腹すいたよな⋯⋯ごめんな、いいもの食べさせてやれなくて」


「ぷぅぷ!」


「ごめん、ごめん、撫でるからな」


 サラサラ⋯⋯。


「毛並み、最高だ。やっぱりソラは俺の癒しだよ」


 ソラのためにフードを用意していると、下から上目遣いで見つめられた。


「どうした?かわいいなあ、ソラは」


 撫でてやると、ソラは安心したように鼻をすり寄せてくる。


「ずっとこうやって撫でていたいな」


 ピヨッ⋯⋯。


「ん〜」


「拓哉!もう七時だぞ!」


「あれ?俺、ソラと寝てた?」


「ああ、2人ともぐっすりだな」


「やべえ!急いで学校行かないと!」


 勢いよく玄関の扉を開け、外へ飛び出した。



 偶然、家の近くを通りかかった親友に声をかける。


「よ!おはよ!」


 爽やかな朝の光が差し込むなか、彼の声が弾んでいる。


「あ!おはよう拓哉!」


 彼女の名前とともに、懐かしい笑顔がパッと広がった。


「何やっけ⋯⋯えーっと⋯⋯今日は何があったっけ?」


 曖昧な記憶を必死に掘り返そうとする俺の声に、彼は軽く呆れたように返す。


「知らねえよ」


 そう言われて、拓哉はバッグの中を慌てて漁り始めた。


「え⋯⋯あ⋯⋯。」


 手が小刻みに動く中、やがて見つけたものは彼女の財布だった。


「なんか⋯⋯白石さんの財布が入ってんだけど⋯⋯」


 驚きと戸惑いが入り混じる声に、親友も思わず目を見開く。


「な、ナニい!?どうすんだよ!ってかなんで!」


「おとといデートに行ったとき、多分間違えて自分の鞄に入れちゃったんだと思う!とにかく急いで学校に行くよ!」


 その言葉に、俺たちは無言で頷き合い、急ぎ足で学校へと向かった。


 ⋯⋯。


 学校に着くとすぐに、彼女のもとへ駆け寄った。


「ごめん!白石さん!君の財布、僕のバッグにあったんだ!」


 白石さんは驚きと安堵の入り混じった表情で答えた。


「本当に?!昨日友達とショッピングモールに行って、遊んで、お金を払おうと思ったら財布がなかったんっだから!」


 その言葉に俺は深く頭を下げる。


「本当にごめん⋯⋯これからは気をつけるから⋯⋯。」


「まあ、いいわ。今回は、許してあげる。」


 彼女の優しい言葉が胸に染み渡る。


「ありがとう白石さん⋯⋯。」


 ⋯⋯


 終礼が終わると、親友が声をかけてきた。


「なあ、今日一緒に帰らん?」


「え、珍し!今日も白石さんと帰らんの?」


「うん、まだ多分あっちも怒っているから⋯⋯今日はやめておく」


「了解!」


 校門を出て、歩道を歩く俺たちの視線の先に、彼女とその友達が見えた。


「あ、白石さんじゃん⋯⋯」


「うん⋯⋯」


 2人の間に少しだけ、気まずい沈黙が流れた。


「バイバイって言わんの?」


「うん⋯⋯今日は⋯⋯。」


 その時、遠くから聞こえるサイレンの音とは対照的に、静かな赤信号の交差点。


 ピーッ⋯⋯ピーッ⋯⋯。


 しかし、目の前の白石さんは、赤信号を無視してゆっくりと横断歩道を渡り始めた。


「え?」


 俺の視線が彼女に釘付けになる。


「え⋯⋯白石さん!?」


 その瞬間、背後から聞こえた巨大なエンジン音が徐々に近づいてくる。


 ブロロロロ⋯⋯。


 彼女の友達も異変に気付いたのか、慌てて声をかける。


「え?しーちゃん!?」


「白石さん!危ない!」


 俺の叫びは虚しく、次の瞬間、鋭い金属音とともにガコンッ⋯⋯。


 彼女は空中に舞い上がった。


 ドタッ⋯⋯。


「しーちゃん!」


 周囲に泣き声が響き渡る。


「嘘でしょ⋯⋯白石さん⋯⋯」


 俺は言葉を失い、その場に固まっていた。


 やがて我に返り、震える手で救急車を呼んだ。


「火事ですか?救急ですか?」


 拓哉は慌てて答える。

「救急です!」


「い、一旦落ち着いてください。現在の状況を教えてくれませんか?」


「三丁目の横断歩道で!彼女は頭と体から血を流して倒れています!意識がありません!」


「分かりました、すぐ向かわせますので、お待ちください!」


「はい、分かりました。ありがとうございます!」


 電話を切り、再び彼女の名を叫んだ。


「白石さん!白石さん!」


 彼女の瞳がかすかに開いた。


「大丈夫?救急隊がもうすぐ来るから!」


 白石さんの目に溢れた涙が、俺の心を締め付ける。

「拓哉⋯⋯ごめん⋯⋯ね。こんな私のために⋯⋯」


 彼女の弱々しい声に、俺は涙が止まらなくなった。

「なんで君が謝るんだよ。謝らなきゃいけないのは俺なのに⋯⋯白石さん⋯⋯」


 遠くからサイレンの音が近づいてくる。


「てか、待って?!白石さんを轢いたトラックは?!もしかして、轢き逃げ?いつの間にか居なくなってる」


 救急隊が到着した。


「この方で間違いないですね?」


「はい、お願いします」


「ご家族の方ですか?」


「いえ、彼氏です」


「分かりました、そこの方、着いてこられます?」


「あ、はい。もちろん行きますよ⋯⋯」


 親友の目にも涙が溜まっていた。


 救急隊員2名、親友、そして俺は救急車の後部に乗り込んだ。


「いま病院が見つかりました。急いで向かいます!」


 現場を離れ、救急車は疾走した。


「出血がかなりひどい⋯⋯。圧迫止血!このまま出続けると出血死する!直ちに手術しなければ」


「まじすか」


「あなた達は彼女さんに声をかけ続けてあげてください。意識を失うとかなり危険です。さあ、早く!」


「白石さん?俺だよ!拓哉。わかる?」


 涙で視界が霞む。


 親友も必死に声をかける。


「俺、わかる?拓哉の親友!」


 すると、かすかに白石さんが微笑み、小さな声で言った。


「2人とも⋯⋯わかるよ⋯⋯」


 その瞬間、胸に大きな痛みが走った。


 彼女の命の灯が、少しずつ消えていくようで、涙が止まらなかった。


「なに⋯⋯泣いてんの?」


「当たり前だろ⋯⋯悲しいんだから⋯⋯」


 やがて病院に到着した。


「急患です!先生!」


「これはひどい。今すぐ手術室に運べ!さあ早く!」


 手術室の明かりが点り、看護師が俺たちを待つ。


「ここでしばらくお待ちください。終わり次第、伝えさせていただきます」


「⋯⋯分かりました。」


 俺と親友は静かなソファに座った。


 ⋯⋯静寂が空間を包み込む。


 俺は小さな声で親友に話し始めた。


「大丈夫かな、白石さん⋯⋯そもそもなんで赤信号なのに渡ってたんだろう。朝のあのことが気になってたのかな」


「なんでだろう⋯⋯」


 どれだけ考えても、責められるのは俺の心だけだった。


 胸が締め付けられ、苦しくてたまらなかった。


「少し時間があるし、俺の過去の話、してもいいかな?」


「うん、いいよ」


「俺の⋯⋯」


 母さんと妹は俺が6歳のときに亡くなった。


 あの日はクリスマス。母さんと妹は突然の交通事故で。


 悲しみに囚われたまま朝を迎えた。暖炉のそばに置かれた大きなプレゼントボックスが音を立てていた。


 怖くて震えながらも、最後の勇気を振り絞って開けた。


 中からは、白くて小さなウサギが顔を覗かせた。


 きっと母さんは、自分の余命が短いことを知っていて、俺が悲しむだろうと想い、最後の贈り物としてこのペットを置いていってくれたのだと思う。


 でも、当時の俺は何も嬉しくなかった。


 世界で一番大切な母さんと妹が死んでしまったから。


 ⋯⋯。


 思い出す。雨に濡れながら母さんと妹の墓前で下を向いていたあのときの自分を。


 自分の目から滴るものが涙なのか雨なのか区別もつかなかった。


「って感じだ、俺は今でも母さんたちが死んだことを悲しんでいるし、父さんともあまりうまくいっていない。」


 親友が突然泣き出した。


「うう⋯⋯なんて話だよ。なんで今まで俺に教えてくれなかったんだよ?親友だろ?」


「ごめん、言う勇気がなかったんだ。だから、また大切な人に死んでほしくないんだ」


 親友の鼓動が速くなる。

 拓哉の目は、いつもとは違って鋭く光っていた。


「え、ああ」


 あとはただ、手術の成功を祈りながらソファに座って待つだけだった。


 意外に時間は早く過ぎていった。


 手術室のランプが消えた。6時間後。

 俺は彼女が助かるなら、何時間でも待てると思った。


 手術室の扉から先生が現れた。


「脳への損傷がひどいです。今は落ち着いていますが、これからどうなるかは予断を許しません。」


「はい。」


 それ以上の言葉は出なかった。


 ⋯⋯。


 家に帰った。

「どうだった?白石さん。」

 父さんが迎えてくれた。

 

「白石さん、脳に損傷があるって。回復するかもわからないらしい。」

 俺はまた泣いた。こんなに連続して泣いたのはいつぶりだろう?母さんが死んで以来かな。

 

 父さんが俺を抱きしめてくれた。

「⋯⋯回復すると良いな。」

 父さんはそれだけ言い残して部屋を出ていった。扉越しに父さんが言ってきた。

「落ち着いたら、ご飯食べなさい」

「うん」

 父さんがすごく優しい。そう感じたのは久々だった。

 

 俺はすぐ部屋を出てリビングに行った。

「え?」

 父さん、リビングの母さんの遺影を見て号泣していた。

「うわぁぁ⋯⋯母さん⋯⋯」

 と、小声で言っていた。

 

 すると俺に気づいて後ろを向いた。

「ん?!拓哉!?」

 サッ⋯⋯。

 俺は父さんを抱きしめた。

「父さん、大丈夫。きっと大丈夫だから、2人でこれからも乗り越えていこう⋯⋯。」

 震えた声で言う。

 

「拓哉⋯⋯ありがとな⋯⋯」

 

 父さんが涙を拭いて元気よく言う。

「よし、飯食うか!」


 「うん!」


 翌日。

 俺の家に傘がなかったので雨が降る中、俺は走って学校に行った。

 親友が来て言う。

 

「おはよ拓哉!って、なんでそんなに濡れてるの?」


 「うん、走ってきてて」

 

 こういうときはいつも、白石さんがタオルを貸してくれたり、心配してくれたんだけどな⋯⋯。


 あれ、拓哉の目の下と鼻の下、すごい赤い⋯⋯。

「お前、昨日ずっと泣いてただろ」

 

「うるせぇな!当たり前だ。大切な人が危ない状況の俺の気持ち、わかんねぇだろ!」

 

 2人は教室の前で言い争っている。

 サッ⋯⋯。

「え?」

 この感覚、昨日の父さんと同じ。

 

 拓哉はそう思った。そして言う。

「さっきは強く言って悪かったよ、でもさ、しょうもないことで笑うくらいなら、泣いたっていいだろ?!」

 

 親友が真剣な顔で言う。

「ねえ、そんなこと言ったって、白石さんの体調は回復しないでしょ?」

「⋯⋯。」

「どれだけ自分を責めたって、現実では何も変わんないじゃん?」

「まあ、そう。」

 

「だからさ、俺はお前に笑顔でいてほしいんだよ。」

 

「え?」

 そんなこと親友に言われたのは初めてだ。

 拓哉は泣きそうになった。

 キンコンカンコン。

 

 チャイムが鳴った。

「やべ!」

 

「早く行こう!」


 拓哉は、今日も白石さんのことで頭が一杯で集中できず、すぐに1日が終わった。

 夕方になり、俺は急いで白石さんの入院している病院に向かった。

 病室に入る。

 

「今日も来たよ、白石さん。」

「拓哉⋯⋯。」

 

「大丈夫?」

 

「看護師さんたちには大丈夫って言ったんだけど、本当は私⋯⋯もう息がしにくくて⋯⋯頭がくらくらして⋯⋯今にも意識が飛びそう⋯⋯」

 

「え?!嘘でしょ!?早く先生を呼ばないと!」

 

 すると白石さんが手を握ってくる。

「いいの⋯⋯でも、最後に2つだけ、言わせて?」

 

「最後とか、言わないでよ白石さん⋯⋯。これからもずっと⋯⋯俺のそばにいて笑っていてよ⋯⋯」

 

「⋯⋯ごめん」

 

「⋯⋯。」


「うん⋯⋯」


 「1つ目、もっと幸せに生きて⋯⋯私の分まで。2つ目、覚えておいて⋯⋯私は天国で、あなたを待ってる⋯⋯」

 

 拓哉は涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらも呟く。

「他の男なら、もっと白石さんを幸せにできていただろうに⋯⋯」

 

「そんなこと言わないで。私はあなたが一番好き」

 

 俺は泣いたまま勢いで言ってしまう。

「白石さん⋯⋯最後にキスして良い?」

「うん」

 

 熱いキスではなく、ほんの一瞬のキスだった。

 最後に見た白石さんの表情は、泣き笑いの顔だった。


 「ありがと、拓哉⋯⋯」


 「え、白石さん?!」


 「⋯⋯」


  もう白石さんは何も喋らなかった。


 「白石さーん!うわぁぁぁぁぁぁ!」

 俺は泣き崩れた。

 

 騒ぎを聞きつけた院長が病室にやってきた。

「白石さん?!検査の時と状態が違う!今すぐ心肺蘇生だ!」

 たくさんの医者が病室に入ってきて、緊急治療が始まった。


 だが時すでに遅し、白石さんはその場で息を引き取った。

「白石さ⋯⋯ん。」

 その後、俺はどうやって家に帰ったかは覚えていない。

 

 いつの間にか俺は部屋にいた。

 俺は思った。

 なんで白石さんは自分を治そうとしなかったのか?俺に迷惑をかけたくなかったからなのか。そんなことは絶対にない!俺は迷惑だなんて思っていなかったし、むしろ回復してくれないと迷惑だった。

 

 今すぐにでも会って聞きたい。

 なぜ白石さんは自分が助かろうとしなかったのか?


 一週間後⋯⋯。

 俺は引きこもりになっていた。一週間、まともに飯も食っていない。1日も忘れることなく、白石さんのことしか考えてなくて⋯⋯。

 

 一度、自殺しようと思ったが、白石さんの言葉を思い出して俺にはできなかった。

 

 それから数日後、俺は久々に学校へ行こうと決意を固めた。

 親友、そしてみんなにすべてを話そうと思った。


 「父さん、行ってくるよ」


 「あ、あぁ。行ってらっしゃい。気をつけろよ。」

 ガチャッ⋯⋯。

 

 外に出た拓哉は太陽の光を見て手で顔を隠す。久しぶりに外へ出たから眩しかったのだろう。

 

 学校に着き、拓哉が教室に入ると教室中の生徒全員の視線が拓哉に向いた。

 拓哉は黙って席につく。

 拓哉の表情はもう、なんとも言い表せない。魂が抜け落ちたような、闇落ちしたのかというほど。

 

 すると黙っていた拓哉の顔が急に青白くなり、拓哉は手で口を覆った。そして急にトイレに走り出す。

 どうやら吐き気を催したようだ。

 

 トイレから出てきた拓哉の顔は先程と比べれば少しはマシになったようだが、やはり体調が悪そうな顔をしている。

 

 教室にふらふらの状態で帰っていると廊下の角で担任とすれ違う。

「拓哉?来ていたのか。って、どうしたその顔色は!すぐに保健室に行こう!」


 「いえ、僕は大丈夫ですので。」

 と言って拓哉は倒れそうになると、担任が支えてくれた。


  そして担任が言う。

「いや、顔色悪いから行こう。」


 「分かりました。」

 

 保健室に入る。


 「しばらく休んどけ。」

 そう言い残し担任は僕を布団に寝かし、部屋を出ていった。

 

 なぜかその時にはもう、体調の悪さはなかった。

 3時間後、担任がまた保健室に来て言う。


 「拓哉、今日はもう早退しなさい。」


「はい。」



 拓哉が学校からの帰り道、普段通り歩道を歩いていた。


 数ヶ月前の大きな地震で道路にぽっかりと穴が空いてしまった場所の向こう側に、不思議な光を放つ雲が見えた。


 それはただ見ているだけで、どこか引き込まれそうな、不思議な魅力を持っていた。


「入ってみよう⋯⋯」


 拓哉は思わずそうつぶやき、足を踏み出した。


 向こう側は眩しい白い光で視界がぼやけていて、まるで別世界に繋がっているように見える。

 しかも、何か奇妙な感覚が体を包んでいた。


「なんでこんなところに橋があるんだろう?」


 橋は、こちら側の街と、光に包まれたあちら側を繋ぐ一本の細い道だった。


 渡り始めると、体が急に軽くなり、ふわふわと宙に浮くような感覚に襲われた。


「このままずっと漂っていたい⋯⋯」


 そんな気持ちに浸りながら、拓哉はぼんやりと夢心地になっていた。


「はっ!俺は何をしてるんだ?」


 我に返ると、いつの間にか橋の向こう岸に立っていた。


 振り返っても、さっきまでいた街はどこにも見えず、広がっているのは光に包まれた雲だけだった。


「嘘だろ⋯⋯」


 後悔の念がすぐに胸を締めつけた。


「渡らなければよかった」


 でも、拓哉は心のどこかでこう感じていた。


 本当は渡りたいと思っていたわけじゃない。


 何かに引き寄せられるような、不思議な力に導かれたのだ。


「さて、どうしようか」


 見渡すと、近くに神殿のような荘厳な建物があった。


 迷いながらも、拓哉はその建物へ足を踏み入れた。


 中に入った途端、身体が急に動かなくなった。


「誰だ?」


 ふと顔を上げると、白い服をまとった大きな男が目の前に立っていた。

「お前は誰だ?」


 拓哉が声を震わせながら問いかけると、その男は静かに答えた。

「私はこの世界、そして天国を守る神。お前こそ、なぜここにいるのだ?お前は死んでいないな。魂がまだこの世界に残っている」


「死んでいないよ。俺は白石 結に会いに、ここへ来たんだ」


 突然口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。


 なぜ、関係のない白石さんの名前を呼んだのか分からなかった。


 神は髭を撫でながら言った。

「ほう⋯⋯白石か。お前がここに来たのは初めてではない。会わせてやろう」


「ありがとうございます⋯⋯」


「ついて来い」

 そう言って神は先に進もうとしたが、拓哉は動けないことを告げた。


「ああ、すまなかったな。侵入者かと思って警戒していた」


 やがて体が自由に動くようになると、2人は神殿の奥へ歩き出した。


「白石はここにいる」


 現実世界にありそうな普通の扉の前で、神はそう告げた。

 ガチャッ⋯⋯。

 扉が開く。


「白石、会わせたい人がいる」


 部屋の奥から白石さんがゆっくりと姿を現した。


「神様、わかりました⋯⋯」


 部屋の中は女の子らしい家具が揃っていて、白や緑、水色の壁紙が柔らかな印象を与えていた。


 拓哉は少し緊張しながら声をかけた。

「あの、白石さん⋯⋯だよね?」


「えっ⋯⋯?」


 その姿は間違いなく、いつもの白石さんだった。


 一瞬固まった白石さんは、すぐに泣き顔になって拓哉に抱きついた。


「拓哉?死んじゃったの?!」


「死んでないよ。謎の橋を渡って、気づいたらここにいたんだ」


「え。そんなことあるの?」


 神が拓哉の耳元でささやく。


「白石はな、体調が悪いことを隠していた。彼氏に迷惑をかけたくなかったんだそうだ」


「そうなんですか?」


「ここに来てからは毎日、部屋にこもって笑顔も見せず、ずっと泣いていた。顔を出すのは食事の時くらいだった」


 そうか。白石さんはなぜ俺に言わなかったんだ。


 彼氏なのに⋯⋯。


 胸が締めつけられた。


「何話してるの?」


 白石さんが部屋に戻ってきた。


「いいや、何でもないよ。2人の時間を大切にして。」


「はい⋯⋯」


 神が扉を閉め、空気が一瞬気まずくなる。


「あの、白石さん。話は聞いたよ」


「知ってる。少し聞こえてたから」


「⋯⋯白石さんには生きていてほしかったな」


「ごめんね。心配かけたくなかったんだ」


「そう。でも俺はいつまでも白石さんが好きだよ」


「ありがとう!私もだよ!」


 そうして時はあっという間に過ぎ、ドアの向こうから声が聞こえた。


「白石、彼氏さん、ご飯だよ」


 食堂のような場所に着くと、複数人分の食事が用意されていた。


「なんで俺たちは3人だけなのに、他にもあるんですか?」

 拓哉は神様に尋ねた。


「他にも天使たちがいるからな」


「そうなんですね」


「あまり顔を見せないけどな。まあ、その話は置いといて、食べよう。いただきます」


 白石さんと俺は続いて言った。


「いただきます」


 

 見つめ合いながら、2人は笑い合った。


「あはは!」


 こんなに白石さんと笑ったのは久しぶりだった。


 神様はそんな2人を静かに微笑みながら見つめていた。


「ごちそうさまでした!美味しかったです、神様!」


「おお、ここでしか取れない貴重な食材を使っているんだ。よかったら明日にでも、白石。ここを紹介してやりなさい」


 白石さんは食事を終えると、にこやかに言った。


「もちろん!任せて!拓哉、部屋に戻って一緒にお風呂に入りに行こう!」


「え?!お風呂?!」


「うん、一緒に!」


「ええ?!ムリムリ!」


 顔を真っ赤にして、拓哉は否定した。


 しかし白石さんの一言で、拓哉は急に静かになった。


「冗談だよ」


「⋯⋯」


 口をぽかんと開けて赤面したまま固まる。

「なんでからかうの!」


「じゃあ、先にお風呂入ってくるね!」


「うん⋯⋯」


 トットットッ⋯⋯と足音。


「白石さん、あんなに積極的だったっけ?」


 その間、白石さんはこう思っていた。

「拓哉、驚いてて可愛い⋯⋯!」


 拓哉は顔を赤くしたままソファに顔を埋めた。


 しばらくして。

「拓哉、あがったよ」


「はーい」


 白石さんが出てくると、拓哉は無意識に言った。


「白石さん、可愛い」


「えっ?!」


 白石さんの顔がさっきよりももっと赤くなった。


「そ、そんなこと急に言われても⋯⋯」


「え、ごめん、言っちゃった」


「別にいいけど⋯⋯」


「ありがとう!じゃあ、次入ってくるね!」


「おっけー」


 やっぱり、白石さんは可愛い。


 そう思う拓哉だった。


「なんで俺は気持ちをしっかり伝えられないんだろう?」

 そう言いながらシャワーを浴びる。


「それにしても、天使って頭の上に輪っかもないし、羽もない。漫画で見る天使とは全然違うな。普通の人間の姿形だ。」


 拓哉は、もう白石さんが死んだことなんか忘れかけていた。


 拓哉がお風呂から上がると、白石さんはリビングのソファに座っていた。髪を軽くまとめ、ふわりとした部屋着姿で、なんだか前より少し柔らかい印象になっている気がする。


 「なんか、寒いね」


 俺がそう言うと、白石さんは少し笑ってうなずき、すぐそばのレバーを引いた。


 ガタン。


 金属が擦れるような音がして、暖炉に火が灯った。オレンジ色の炎が、パチパチと音を立てて揺れている。


 「おぉ⋯⋯。」

 思わず声が漏れる。


 白石さんが得意げに言った。

 「結構、悪くないでしょ?この部屋」


 「うん、ありがとう。あったかいあったかい」


 炎の温もりが部屋中に広がっていく。まるで寒さだけじゃなく、さっきまでの不安も少しずつ溶かしてくれるような感じがした。


 しばらくすると、俺の声は少しだけトーンが落ちた。

 「あの⋯⋯白石さん。俺、そろそろ眠くなってきちゃった」


 白石さんは優しく微笑んで、うなずいた。

 「うん、新しい場所に来て、きっと緊張もしてたんだろうね。今日はもう、ゆっくり休もう」


 「うん」


 白石さんのついてきてという言葉に導かれ、俺は彼女の後を追う。


 部屋の奥へ進み、螺旋階段を上ると、そこにはガラス張りの寝室が広がっていた。


 「ここ⋯⋯怖いね」

 夜の静寂の中で、部屋の外が透けて見えるのはどこか不安だった。けれど、白石さんはあっけらかんと笑う。


 「そう? 私は慣れちゃってるからなあ。でも安心して。拓哉の分のベッドも、ちゃんと用意してあるよ!」


 「おぉ、ありがとう!じゃあ寝ようか!」


 「寝ますかぁ~!」


 笑い合いながら、眠りにつく準備をする。静かな夜。遠くで風の音が聞こえた。


 翌朝。

 

 「う〜ん。よく眠れた⋯⋯って、なんか、重い?」


 目を開けると、俺の胸の上に何かがある。

 いや、誰かが。


 「今、重いって言った?」


 白石さんが俺の上にまたがっていた。顔が近すぎる。というか、距離感おかしいって!


 「いや、言ってない。ていうか、なんで乗ってるの?」


 白石さんはくすくすと笑って、わざとらしくウインクした。


 「恋人同士なら、こんなこと当然じゃないの?」


 「んー、そうかもだけど、恥ずかしいから離れてっ!」


 「え〜、せっかくなのに~」

 彼女の茶化すような態度に、心の中がざわつく。


 「ん〜じゃあさ、白石さん!今日は、この天国を案内してよ!」

 話題を変えるように、俺は言った。


 白石さんはぱっと顔を輝かせて、嬉しそうに立ち上がった。


 「そういえばそうだったね!よ〜し、任せて!私がこの世界のガイドをしてあげる!」


 何があるんだろうか。楽しみだ。そう思いながら、俺は彼女のあとを追った。



 まず最初に案内されたのは、白石さんの部屋を出てすぐの、少し広めの空間だった。


 「ここはホールだよ」

 

 天井が高く、壁には見たことのない絵や模様が飾られている。空間自体が、何かを待っているような、そんな不思議な雰囲気を持っていた。


 「へぇ、確かに大きいもんね」

 

 「ここはね、死んだ人たちが最初に来て、色々と審査される場所なの。私も、ここで色々言われたんだ〜」


 「へぇ、どんなことを?」


 「それはちょっと、恥ずかしいから内緒⋯⋯」


 「そっか、なら無理に聞かないよ」

 

 「うん、ありがとう!」


 次に案内されたのは、広々とした公園のような場所だった。芝生がどこまでも続いていて、色とりどりの木々や、ベンチが点々と並んでいる。


 「ここ、私けっこう好きなの!」


 「うん、俺も結構好きかも。空気が気持ちいい」


 「だよね?!やっぱり、わかってくれると思った!」

 白石さんが笑顔でそう言ったとき、その顔がとても輝いて見えた。


 拓哉、私と一緒にいて、楽しんでくれてるかな?

 そんなふうに、白石さんもどこかで思っていた。


 「せっかくだし、これも見せてあげたい!」

 白石さんが、指を差した。


 そこには、いろんな色が混ざり合った、大きな木が立っていた。赤、青、黄、緑。その幹や枝、葉の一枚一枚が、まるで虹を抱えているようだった。


 「これは何?」


 「これね、すごいんだよ。見てて」


 パラッ⋯⋯。


 木から、花びらのようなものが一枚、落ちてきた。


 「おお!」


 それはまるで桜の花のように変化し、柔らかく風に舞った。


 「これ、いろんな木に姿を変えるんだ。桜にもなるし、スギにも、紅葉にも。ここでは、自然さえも自由なんだよ」


 「すごすぎる。まるで魔法みたいだな」


 「ふふ、ここは天国だからね!」


 「他には、どんな場所があるの?」


 「じゃあ、こっちに来て!」


 白石さんが元気に走り出す。そのあとを、俺は急いで追いかけた。



 大きな花畑のようなところに来る。たくさんの色の花が咲いている。


 拓哉は目を輝かせて周りを見てはしゃいでいる。


 「すごいね白石さん!ここ最高!」


 「でしょ?ここ、この天国で私の一番のお気に入りの場所なんだ。でもね」


 「ん?どうかしたの?」


 拓哉が立ち止まる。


 白石さんが続ける。


 「この花畑はね、ただの花畑じゃないんだ。ここに咲いている花は、訪れた者たちの忘れてしまった大切な記憶の断片なんだ」


 「えっ、記憶の欠片?忘れていたことが花になるってこと?」


 「そう。思い出してほしいけど、もう手が届かない遠い記憶。君が摘んだその花にも、誰かの笑顔や涙が詰まってる」


 「そんな、知らなかった。でも、こんなに綺麗なんだから忘れてても幸せな記憶なのかな?」


 「必ずしもそうとは限らない。嬉しい記憶もあれば、悔いの残る記憶もある。だから、ここは喜びと切なさが混ざった場所なんだ」


 「なんだか、ちょっと怖いな。でもだからこそ、忘れたくないって気持ちも湧いてくるよ」


 「そうだよね。ごめんね、次に行こ」


 「ううん、大丈夫!行こう!」

 

 少し浸水したところに来る…

 「ここはね、遺跡みたいになっているんだ。ここは私もあんまりわからないんだけどね」


 「なんか不思議だね」


 すると拓哉が、遺跡のすぐ横にある大量の鎖に繋がれた大きな扉を発見した。


 「ん?あれ、白石さんここ、進めないようだけど」


 扉の左右は両方、大きなフェンスで塞がれている。


 「あ〜!そうそう、そこ。浸水してるでしょ?この先は立入禁止らしいよ。現世へのゲートがあるんだって」


 広がる空間の真ん中には、大きな灯台がある。あそこにゲートがあるのだろうと、拓哉は考えた。


 「そうなんだ」


 「天国でのあるすべての条件を満たした人しか行けないんだって。どんな感じなんだろう。私、早く現世に帰りたいな、自分から死んでいて言えることじゃないんだけど」


 「俺もだよ。父さん、心配してるだろうな」


 夕方になり、部屋に戻った白石さんは拓哉がいないことに気づく。


 白石さんが探しに行くと、拓哉はさっきの花畑のところに佇んでいた。


 「拓哉、何してるの?」


 拓哉は少し驚いたように顔をあげて、そして照れくさそうに答えた。

 「うーん。ただ、母さんのことを思ってたんだ、小さい頃に死んじゃったから」


 白石さんはそっと隣に座って言った。


 「そうだったんだ、でも、ここでこうしているだけで少しは気持ちが楽になるんじゃない?」


 拓哉も座った。

 「うん。父さんに聞いたんだけど、母さんは花が好きだったみたいでさ。ここに居ると、会いに来てくれる気がするんだ」


 白石さんは優しい笑顔で言った。


 「拓哉の母さんも、きっとずっと見守ってるよ。だから1人じゃないよ」


 拓哉は。

 「ありがとう白石さん」

 とだけ言った。


 「それでさ、拓哉!もう少しで見せたいものがあるから、さっきの遺跡の前に来て!」


 「あ、わかった」


 夜になった。

 

 拓哉が着くと、白石さんは笑顔で拓哉に言った。


 「もう少しで始まる!」


 ヒューンッ。バンッ!バンバン!


 「花火だ⋯⋯」


 綺麗だ。今まで見た花火で一番キレイだったかも。拓哉はそう思った。


 拓哉が言う。

 「う〜ん、ここでの生活も楽しいけど、なんで現世と天国を繋ぐ橋が現れたんだろうな。俺、そこだけ引っかかるんだよ」


 すると白石さんが、焦った口調で。

 「そんなこと気にしない!今はここでの生活、楽しまなきゃ!」


 「あ、うん。そうだよね」


 白石さん何か隠してる?


 そう拓哉は思ったのだった。

 そしてあっ!という顔をして言う。

 「ねえ、ここ天国だよね?今気づいたんだけど、なんでこんなに天使が少ないの?」


 「うんそうなんだよ。ここでの試練を乗り越えた者は皆、新しい何かに転生して現世に戻るんだ。それはもしかしたら虫かもしれないし、また人間なのかもしれない。それは転生した本人にしかわからないことなんだけど」


 「そうだね」


 白石さんは今にも何かを話したそうな顔をしている。


 「ちょっと休もうか」


 「そうね!」


 広場のベンチに座る。


 「あ、あの!白石さん!」


 「ん?何?」


 「なにか、俺に隠していることはない?」


 「!?」


 時間が一瞬、止まった。


 「いや、なにもないよ!」


 「そう。わかったありがと!」


 「うん」


 「そうだ、せっかくなら、こういう綺麗なところを写真に収めたいし、白石さんの部屋に戻ってスマホ持ってくるね!」


 「おっけー待ってるね」


 「いってきまーす」


 拓哉は走っていった。


 部屋に着く。


 「どこだっけ?確かここに⋯⋯あった!」


 ベッドの上にあったスマホを手に取り、部屋から出ようと後ろを向いたとき、幼い天使がいた。


 幼いというより、小学生の高学年くらいの子だった。


 拓哉は聞く。


 「どうして君がここに?」


 「白石が言いたいこと⋯⋯知ってる。代わりに言おうか?」


 「え?言いたいこと?」


 「うん」


 少し戸惑ったが。

 「お願い」


 幼い天使は少し黙る。

 「この天国では本当に死んでいない人は、長く居られないの」


 「え⋯⋯?」


 「もしこのままここにいたら…現世では君は死んだことになる。現世に戻りたいのであれば彼女の死を受け入れること。そして、ここを出たらもう会えないということも。ここでの記憶や彼女との思い出もすべて消えるかもしれない」


「⋯⋯」


 拓哉は黙り込む。


 帰ったらもう白石さんには会えない。

 でも、帰らなかったら家族には二度と会えない。


 その狭間で、心が揺れていた。


 拓哉は叫ぶように言う。


 「白石さんは俺の彼女だ!急に…轢き逃げなんかされて!死んで受け入れられると思うか?!」


 拓哉は泣き崩れた。


 幼い天使はそっと拓哉の手を握り、言った。


 「大丈夫、その気持ち、私にはわかる。早まらずに、ゆっくりでいいから」


 「うん」


 スマホをポケットにしまい、拓哉は白石さんのもとへ走っていく。


 「ふぅ⋯⋯」

 幼い天使はため息をつき、静かにどこかへ歩いていった。

 

 タタタタ。

 「あ、来た!」


 「おまたせ!ごめん、結構探してて!」


 「もう本当に遅い笑」


 「ごめん」


 「ハハハハハ」


 幼い天使は思い出す。

 拓哉との、一瞬の昔の思い出を。


 私は、1歳で死んだ。


 私の生きていた頃は、こんなふうに笑った記憶なんてない。

 生まれてたった1年で、急に車に轢かれたんだ。

 お母さんに守ってもらったけど、私も頭を打って死んじゃったって。

 

 でも白石も、ここに来たときはずっと泣いていたのに、拓哉が来てから元気になってる。

 それだけ、あいつのことが大事なんだろうね。


 いいなぁ。私も家族に、もう一度だけ会いたいな。でももう拓哉に会えたからいいのかな。心の何処かで私はそう思ってる。


 「さて、持ってきたし、写真撮ろうか!」


 「そうだね!」


 拓哉がスマホを上に伸ばして、撮る。


 パシャッ。


 ベンチでいろいろ話しているうちに、朝になった。


 「そろそろ部屋に戻ろうか!」


 「そうだね!」


 2人は部屋に戻った。


 拓哉は言う。

 「時間が経つのって早いよね」


 「そうだよね〜」

 白石さんは、いつもの笑顔で答えた。


 拓哉は、白石さんの手を掴んで、言う。


 「白石さん。これからも俺の彼女でいて俺と幸せになってください」


 白石さんは驚いた顔をしながら。

 「ど、どうしたの急に?」

 焦った口調で言う。


 拓哉は頭を下げたままでいる。


 白石さんが顔を近づける。


 「顔を上げて拓哉。当たり前じゃん」


 拓哉の顔が赤くなる。

 「やったぁ」


 ベッドに横になる。


 「おやすみ、白石さん!」


 「おやすみ拓哉〜」


 2人は眠りに落ちた…


 

 「ん?え、あれ?」

 拓哉はいつの間にか、現世で友達と下校していた。


 「あれっ、なんで。え?現世に戻れたのか?でもこの場所見たことあるような」


 前を見ると、白石さんとその友達が歩いている。


 「まさか?!」


 奥から、ものすごいスピードでトラックが迫ってきている。


 信号は赤。

 白石さんは気づいていない。


 「しーちゃん…?」


 「白石さん!危ない!」


 ガコンッ!


 

 「はっ!」


 拓哉は、夢を見ていたようだった。


 「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯痛っ」


 白石さんが事故に遭って、病院で死んでしまったあの瞬間。

 それが頭にフラッシュバックして、胸が締めつけられる。


 慌てて飛び起きたが、外を見るとまだ真っ暗だった。

 拓哉は体を起こして、ベランダへと出た。


 「ふ〜星空が綺麗。天国からでも、星とかは見えるんだ。」


 空には、きれいな銀河と無数の星が浮かんでいた。

 

 拓哉が起きた音のせいか、白石さんも目を覚ましてきた。


 「ああ、ごめん⋯⋯起こしちゃったね」


 「いや大丈夫だよ。なんでここにいるの?」


 「ちょっと疲れてね。休めばすぐに治るから、大丈夫!」


 「ならよかった」


 「よし、スッキリしたしもう寝ようか!」


 「だね!」


 2人はまたベッドへと戻り、目を閉じた。


 翌朝。


 「おはよう拓哉」

 「白石さんおはよ」

 「拓哉。今日、私ね、神様との話し合いがあるから半日居ないかも」

 「そうなの?」

 「寂しくないの?」

 「うん別に」

 「む〜!」


 白石さんは頬を膨らませて、どこかへ行ってしまった。

 「あっ」


 まあ良いか、と拓哉は思った。自分が悪いことをしたという自覚すらなかった。

 支度を済ませて、部屋を出る。


 「あ、隣の人かな?」


 今になって拓哉は気づいた。隣の部屋が新しくできていたのだ。

 また、誰かが死んでここに来たのだろう。拓哉はそう思った。

 話しかけてみることにした。


 コンコン。

 ノックをすると、1人のおじいさんが顔を出した。


 「なんの用だね?」

 「隣りにいるものです。よろしくお願いします。少しお話しませんか?」

 「まあ、暇じゃからいいぞ」

 「ありがとうございます」


 2人はおじいさんの部屋に入った。拓哉はさっそく尋ねた。


 「おじいさんが現世で亡くなった理由ってなんですか?」

 

 「道路に飛び出した猫を庇って轢かれたよ」

 

 「そうなんですか。俺の彼女の死因も交通事故でした」


 おじいさんが聞く。



  「なんでお前さんはここに?」

 「現世と天国を繋ぐ橋が見えて、渡ったらここに着いてました」

 

 「そうなのか」

 

 「おじいさんは、現世でしっかりと守るべきものを守れましたか? 大事にすべきものを、大事にできましたか?」


 「ああ、そうだな。婆さんが歳で死にそうなときは、いつも側にいてやった。もう死んでしまったけどな。はは⋯⋯」


 全然笑えないよ、おじいさん。そんな悲しい過去があったんだ。


 おじいさんは続ける。

 「まあ最期は命を救えて死んだんだから悔いはないよ。お前さんはどうだったんだい?大事なものを守れたのかい?」


 拓哉は俯く。

 心の奥に隠していた感情が、込み上げてくる。


 「彼女を⋯⋯守れなかった」

 「!!」


 おじいさんは言葉を失った。


 「ある天使に会ったんです。もう自分に残された時間は少ないって。もし現世に帰れば、記憶から彼女と一緒にいた、一緒に過ごしたことを忘れてしまうかもしれない。それが怖いんです」

 


  「そうだったのか」

 

 「彼女を忘れたくない。でも、現世の父さん達とも、離れたくない⋯⋯」

 拓哉は涙を止められなかった。

 

 おじいさんは静かに言う。

 「さあ、これからどうなるんだろうな。彼女を忘れてしまうかもしれないという覚悟を持って現世に戻るか、このまま彼女と過ごすか」


 拓哉は手で涙を拭い、言った。


 「あんなに前に付き合って、こんなに今は大好きで、愛し合っているのに、忘れるわけないと思うんです」

 

 「でもな、ここはそういうところじゃ。忘れてしまうんだよ。家族との記憶や、恋人との記憶」

 

 「それがなかったら、今すぐ現世に帰って、すぐに父さんや友だちに会いたい。でも、大丈夫だとも思うんです。昨日、彼女とツーショット撮ってきたんで、写真さえ持っていれば思い出せると思います!」


  「おお、それは良かった」


 「わしと婆さんの歳の差は10歳あったからのぅ。前に婆さんはここに来たんだろうが、もう婆さんが死んで3年も経ったし、もうここには婆さんおらんじゃろ。でもわしはいつでも、婆さんと再会できることを望んでおる。顔も忘れかけじゃ。思い出せたら良いがのぅ」


  「そうですね。俺も昔、死んでしまった母さんと再会したいです。おじいさんの気持ち、わかります」

 

 「君の気持ちも、本当に分かるよ」


 しばらくの沈黙。風に揺れる花の音が、2人の間を静かに満たしていた。

 拓哉がぽつりとつぶやく。


 「彼女さんは、お前さんと居たことがどれほどの救いだったか、お前さんにはきっとまだ分からないかもしれないな」


 拓哉は目を見開いた。


 「俺と居たことが救い⋯⋯?」

 

 「そうじゃ、手を握ってくれただろう。一緒に泣いてくれた。彼女さんはきっと、それだけで救われていたはずだよ」


  「あ、あっ⋯⋯」


 拓哉は思い出した。白石さんとの病室。手を握り、一緒に泣いた夜のことを。

 拳を握りしめ、息が苦しくなる。過呼吸だ。

 それでも、心の奥の痛みは消えなかった。


 おじいさんと少しずつ話を重ねるうちに、拓哉は落ち着きを取り戻していった。

 胸の奥に残っていたのは、温かくて、どこか切ない痛みだった。


 「俺、ちゃんともう一度、彼女のことを考えたい。もう少し、ここに居ていいですか?」

 

 おじいさんは笑った。

 「もちろん。ここはそういう場所だよ。急ぐ必要なんてない」


 拓哉は空を見上げた。窓の間から差し込む光が、どこか懐かしく感じられた。

 「ありがとうおじいさん」


  「おう。わしも、忘れてしまいそうな妻の顔、もう一度しっかりと思い出したい」


 2人はしばらく黙ったまま、窓から入る風に揺られながら、それぞれの思い出と向き合っていた。


 「おじいさん。さっきおばあさんの顔を思い出せると良いって言ってたけど、忘れちゃうのって怖くないですか?」

 おじいさんは首を傾け、ゆっくりと答える。


 「怖いとも思うがそれ以上に、思い出を大事にしたいという気持ちの方が強いな。たとえ顔をはっきり思い出せなくても、残るものがあるんじゃ」

 

 「そう⋯⋯ですか」


  「ああ、あの人が笑ってくれた日、手を握ってくれた温もり、なんでもない言葉。そういうのが、ふとした時に心に浮かぶ。それが、わしにとっての今でも一緒にいるってことなんだろうな」


 拓哉はそっと自分の胸に手を置いた。

 「そうか、全部じゃなくて良いんだ。大事なとこだけ、覚えてれば」


  「そういうことさ。お前さんの彼女のことも、全部を思い出せる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも、お前が忘れたくないって思い続ける限り、その人はずっと、お前さんの中にいる」

 「⋯⋯なんかズルいですね」


 拓哉が笑った。泣いたあとの、少し乾いた声だった。

 

 おじいさんも、静かに笑った。

 「人生なんて、だいたいズルいもんさ」

 

 「ほんと、ズルいです」


  「はっはっは、そうかそうか」


 淡い金色の風が、カーテンを優しく膨らませた。


 しばらくして、拓哉が言う。

 「俺は絶対に彼女を忘れたくない。でも、覚悟を持って現世に戻ることを選んだほうが良いのかもしれない」


  「そうじゃな」

 

 「じゃあ、今日は本当にいろいろありがとうございました!」

 

 「ああ、元気でな」

 

 「はい。たくさんの勇気をもらいました!」


 拓哉が立ち上がり、部屋のドアの前まで行く。

 

 その背中に、おじいさんの穏やかな声が届いた。

 「行って来い、拓哉。心のままにな」


 ガチャッ。

 拓哉は扉を閉めた。

 そして、後ろを振り返る。


 「え。嘘でしょ」


 そこに立っていたのは。


 「か、母さん?」

 

 「拓哉?拓哉ぁぁぁ!」

 母さんは泣き崩れながら近づいてくる。


 ギュゥ。


 母さんのハグは、強かった。


 「どうしたの?!死んだの?!」


  「説明すると長いけど、死んではないよ」


 拓哉は涙をこらえていた。


 「よかった、ほんとうに。大きくなって。」


 なんだこの感じ。懐かしいような。拓哉は心の何処かでそう思った。


 「ごめんね。私、あなた達を置いて天国に行っちゃって」

 

 「そんな、謝らないで。母さんに会えてよかったよ。でも、妹は?」

 

 「うん。妹はね、ここには居るんだけど、滅多に会わないのよ私でも」


 「そうなんだ。でも時間が限られてるからもう俺、現世に帰らないといけないんだよ」

 

 「私もよ。結構時間が経ってやるべきこともやったし、もうここを出なくちゃいけないかもなの」

 


  「そう⋯⋯帰っても、母さんのことは忘れないでね!」

 

 「それは当たり前だ!」

 

 「本当に死んだら、どこかで話聞かせてね!私がその時ここに居るかはわからないけどね」


 「うん。また会おうね。ばいばい」


 「うん!」


 母さんは奥へと歩いていった。

 その背中は、どこか悲しかった。もう母さんには一生会えない気がした。


 でも拓哉は、忘れる気なんて、ひとつもなかった。


 拓哉は、心のなかで静かにつぶやいた。


 「最後に会えてよかったよ、母さん」

 ただ、それだけ⋯⋯。



 もう昼を過ぎていて、窓の外は夕暮れの柔らかな光に包まれていた。


拓哉が白石さんの部屋に戻ると、彼女はもう戻っていた。けれど、その表情はどこか寂しげで、普段の明るさとは違う影が落ちていた。


「拓哉、小さい頃にお母さん、亡くなってたんだね.」


「うん⋯⋯」


 短く答えた拓哉の声には、どこか遠い記憶をたどるような響きがあった。


「なんだか切ないな⋯⋯」


白石さんの目が少し潤んでいた。それを見て、拓哉は微笑む。けれど、それは彼女を安心させようとする、優しいけれど少し無理をした笑顔だった。


「うん、そうだね」


「さっき、少しだけおじいさんとの話が聞こえちゃったの⋯⋯ごめんね。黙ってて。でも、話すべきタイミングが分からなかった。拓哉に悲しい思いをしてほしくなかったの」


 白石さんがそう言うと、拓哉は静かに頷いた。


「大丈夫。でもさ、白石さんはいつもそうだよね。優しいけど⋯⋯自分のこと、言わない。何でかなって思ってた」


「ほんっとに、ごめん⋯⋯私ね、自分の気持ちを人に話すのが苦手で⋯⋯でも、これからは、ちゃんと話すようにする」


「ほんと?ありがとう⋯⋯嬉しいよ」


2人の間に、少しだけ暖かい空気が流れた。でもその直後、白石さんの表情が曇る。


「拓哉、現世には⋯⋯戻らないの?」


拓哉は少し俯いてから、小さな声で答える。

「今は、まだ戻らない。白石さんのこと忘れたくないんだ。」


「こんなに愛し合ってるのに?こんなに、私の名前を呼んでくれてるのに、忘れちゃうの?」


「⋯⋯多分、そういう仕組みなんだと思う。俺が戻ったら、ここでの記憶は全部、消えてしまうかもしれない」


白石さんは、しばらく何も言わなかった。ただ俯いて、ぎゅっと胸元を握りしめていた。拓哉が続ける。


「白石さんが死んだこと。俺、多分まだ受け入れられてないんだ。そして、現世に戻れば、君にもう二度と会えなくなる。それが怖い⋯⋯」


「うん⋯⋯」


ふたりの間に、また沈黙が流れる。


「ねえ、拓哉。どうして、ここへと繋がる橋が現れたと思う?」


「それは、俺にも分からない。でも心の奥にずっとしまってた届かない気持ちが、きっと限界だったんだと思う」


白石さんが静かに頷いた。


「うん、私もそう思う。現世と天国の境が揺れることって、本当はあり得ない。でも拓哉の気持ちが、あまりにも強くて⋯⋯橋が現れちゃったんだろうね」


「そうかもしれない」


「拓哉、帰っちゃうの?」


「今、決めたよ。おじいさんや、神様、そして、母さんが勇気をくれた。そして、帰って父さんや友達にちゃんとありがとうって言いたい」


 白石さんは目を大きく見開いて、それからぽつりと言った。


「⋯⋯じゃあ、もう二度と会えないんだね⋯⋯」


「うん。でも、君のことは一生、忘れない」


 白石さんが泣き笑いのような顔で、精一杯の笑顔を見せる。


「私も、拓哉の幸せを願ってる。たとえ私がいなくなっても絶対に、幸せになってね」


「うんありがとう。白石さん⋯⋯」


拓哉は堪えきれず、白石さんを強く抱きしめた。全身で、彼女の温もりを覚えようとするように。


「大丈夫。独りぼっちの人なんて、この世界にはいないんだから」


「うん⋯⋯」


「何があっても、誰かが必ず助けに来てくれる。必ず、迎えに来てくれる。命の大切さを、愛することの意味を、拓哉が教えてくれた。本当にありがとう」


 拓哉は涙をこらえきれず、静かに、でも止まらない嗚咽を漏らしていた。


 拓哉は白石さんの部屋で荷物をまとめ、遺跡の隣の大きな門へ向かった。そこには、神様と天使たちが立っていた。


「本当に戻るのか?」


 神様が問いかけると、拓哉は頷いた。


「はい。すべて、思い出しました⋯⋯妹のことも」


 そこへ、幼い天使の姿が現れる。


「ふふっ、気づいたか。さすが私の兄貴!」


「最初から気づいてたくせに⋯⋯なんで言わなかったんだよ」


「言ったら、つまんないじゃん。でも本当に、生きてて良かった。見てたんだよ、ずっと」


 白石さんも現れ、微笑む。


「拓哉、その子⋯⋯妹さんだったんだね」


「うん、そうみたい」


「やっぱり!なんとなく、似てると思った」


 みんなの温かい眼差しの中、神様が門を開いた。


「さあ、行くんだ。拓哉」


 拓哉は歩き出す。けれど、その途中で、白石さんの小さな声が風に乗って届く。


「⋯⋯もう、このことは忘れて?拓哉、また新しい人を見つけて幸せになって拓哉」


 拓哉は立ち止まり、振り返って叫ぶ。

「そんなことできるわけない!!」


「えっ⋯⋯?」


「俺は白石さんが大好きなんだ!君以外は選べない!」


 白石さんは涙をこらえきれず、静かに泣きながら言った。


「拓哉、私も大好き。ずっと、ずっと好きだよ⋯⋯。私の中にも、拓哉がいる。だから、安心して」


 拓哉は駆け寄り、強く彼女を抱きしめた。


「ごめん⋯⋯守れなかった」


「いいの。最後まで、拓哉は私のヒーローだったよ」


 お互いの涙が、肩に落ちていった。


「ずっと、大好きだよ。白石さん忘れない。」


「私も、拓哉の幸せを⋯⋯ずっと祈ってる。」


 拓哉は最後に、深く深く頭を下げた。


 白石さんが微笑みながら、口を動かす。


「た……ほ……う……ま……で……ね……」


 拓哉はその口の動きを見て、涙を浮かべて頷いた。


「ありがとう、白石さん。また、どこかで」


 門の先の光に向かって歩く拓哉の背中に、皆が手を振る。


 光の中へと消えていく彼の胸には、温かな記憶が静かに灯っていた。


 

 拓哉は灯台に入り、ひとつひとつ、鉄の螺旋階段を登っていった。金属の足音が、狭い階段の中に静かに響く。上に行くほど空気が澄んでいき、彼の心も少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 やがて、灯ろうのある一番上に辿り着くと、そこには見たことのないゲートが浮かんでいた。


 黒い金属のようなフレームに囲まれ、その内側には、かすかにオレンジが差した透明な膜のようなものが揺らいでいる。どこかあたたかく、でも異質で、非現実的で、それでいて懐かしいような光。


 拓哉は、迷わずそのゲートへと足を踏み入れた。


 一度も振り返らなかった。


 あれから。


 白石さんと過ごした天国での日々。それが現実だったのか、夢だったのか、それはもう分からない。


 もしかしたら、俺の心が見せた幻だったのかもしれない。都合よく作り上げた、心の中の慰めだったのかもしれない。だけど、それでもいい。


だって今も、白石さんがどこかで俺のことを応援してくれている。そんな気がしてならない。


 白石さんは、今も確かに俺の心の中に存在している。彼女の声、涙、笑顔、全てが心の奥底で、静かに息づいている。


「ありがとう、白石さん。」


目を開けると、目の前には見慣れた天井と光が差し込む窓があった。


「ん。あれ⋯⋯ここ」


自分の部屋だった。ベッドの上に寝かされている。隣には、父の顔があった。少しやつれて、でも安心したような目。


「ただいま、父さん。」


「拓哉?!どこに行ってたんだ!お前がいなくなって警察にまで頼んで探してもらってたんだぞ!」


「ごめんなさい。本当に。でも、ありがとう⋯⋯父さん。」


「⋯⋯え?」


「ソラもただいま。」


 隣の部屋から顔を覗かせたうらぎのソラが、ぽかんとした顔をしている。


「ま、まずはご飯を食べなさい。何も食べてなかったんだろ」


「うん、いただきます」


 その瞬間、確かに帰ってきたんだと、実感した。


 それから、七ヶ月が経った。


 季節は巡り、また稲の刈り取りの季節。

 父の運転する車に揺られながら、拓哉は静かな田舎道を眺めていた。両側には広がる田んぼ。黄金色に染まった稲穂が、風に揺れて波打っている。


「拓哉〜、今日はおばあちゃん家に手伝いに行くぞ!」


「うん、わかった!」


 祖母の家では、地域の人たちも集まり、拓哉は朝から草刈りや稲刈りの手伝いに明け暮れた。


 太陽が傾き始めた頃、作業がすべて終わり、汗と泥にまみれながら家へ戻る。


 今日は、祖母も父も外に出ていて、家には誰もいない。


「静かだな」


 ふと、仏間の棚に置かれたアルバムが目に入る。


 何となく手を伸ばして、ページを捲る。すると、ある一枚の写真が目に留まった。


「ん?これ俺とだれだ?隣の女の子は?」


 そこに写っていたのは自分。だが、その隣には覚えのない女の子。

 それでも、なぜか懐かしいような、不思議な感覚が拓哉を包んだ。


「誰、だっけこの子⋯⋯」


 思い出せない。けれど、心が揺れる。

 一緒にいた、ような気がする。


 ふと、窓の外を見ると、空は茜色に染まり、夕日が山の向こうに沈みかけていた。


 そのとき。


 ピンポーン⋯⋯。


 静かな家の中に、チャイムの音が響いた。


「誰だろう?」


 階段を下り、玄関の扉を開ける。


 その瞬間、拓哉の呼吸が止まった。


 そこに立っていたのは。


 あの写真に写っていた、女の子だった。

 髪はあの時よりも少し長く、背も伸びていた。でも、目元も、表情も、声も、まぎれもなく

彼女だった。


「⋯⋯名前は確か」


 言いかけて、言葉が詰まる。名前が出てこない。なのに、どうしてか涙が出そうになる。

 その子が、静かに拓哉の前まで歩いてきて、柔らかく笑った。


 そして。


「やっと、会えたね……。」

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幻想の彼方 ちょむくま @TakinsaCI

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