消えない愛の灯し方

紫吹明

炎は燃える

 夢だ、とわかった。

 目の前に立つ青年の瞳に冷たい軽蔑の色が浮かぶ。水底の石にも似た灰色の髪は柔らかく波打ち、けれど今の私はそれに触れるどころか手を伸ばすことすらも許されない。私の夫であったはずの水の精は、その美しくも冷え切った美貌を嫌悪にゆがめて薄い唇を開いた。


『もういい。お前のような淀みきった人間に用はない――出ていけ』


 平坦な声が硬い刃のように胸を突き刺す。痛い。傷口から血が溢れるように、胸の奥から言葉がせり上がってくる。

 言っても無駄だ。そう知ってしまっているのに、私の口はあの日と同じように言葉を紡ぐ。


『何故ですか……私を妻にと、ありのままでいればいいと言ってくれたのはあなたじゃないですか!』


 上擦りかすれた、耳障りな悲鳴のような声。私を娶った水の精は不快そうに眉をしかめて身を引いた。その口がもう一度開くのがスローモーションのように見える。

 嫌だ。聞きたくない。もうわかってる。どれだけ強く念じても、響く答えはあの日のまま。


『――期待外れだった』


 無慈悲で無感動な、別れの言葉だった。


 ◇


「――!」


 ハッと目を開けると、視界いっぱいに見慣れた寝具が広がっていた。真っ白なシーツは夜明けの影に薄青く染められ、窓枠が黒い影を落としている。それを目でたどっていくと、折りたたまれた翼を持つ広い背中に行き当たる。

 この背中に触れられたら。腕を回して抱きついて、「怖い夢を見たの」と囁けたら。そう思って伸ばした手は彼に届かず冷たいシーツへと沈んでしまう。胸の痛みが増し、こみあげる雫で視界がぼやけた。


 ああ、きっと。あの日のように、この人にも捨てられてしまう。


 ◆


 私が生まれたのは、小さな町の町長の家だった。温厚で気前のいい父と細やかで面倒見のいい母、そんな二人が大切に育てた活発で優しい兄姉。理想を詰め込んだような家庭で、みんなに見守られて私はすくすく育った。


 幼い私に、両親はよく「おまえはいつか"彼方の者"に嫁ぐんだよ」と言って聞かせた。


『彼方の者っていうのはね、人間とは違う世界に住んでいる精霊さんとか獣人さんのことを言うんだよ』

『こないだ風になったお姫様のお話を読んだでしょう、あんなふうに向こうの世界の人と結婚して向こうで暮らすのよ』


 母が引き合いに出したのは、この町がまだ村だった頃のお話。風の精に見初められた娘が結婚し、精霊の世界にある風のお屋敷で幸せに暮らす物語だ。

 あのお話みたいに。父と母のような夫婦に。


『せいれいさん、いつおむかえにきてくれるかな?』

『どうだろうねぇ』

『もっとうんと大人になってからじゃないかな』


 期待に胸を弾ませる私に、父と母はなんとも言えない笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。

 

 もっと大人になってから。祈るような父の言葉と裏腹に、私を見初める精霊が現れたのはそれからわずか数年後のことだった。


 ◇


「リン、起きて」


 柔らかい声が私を呼ぶ。いつの間にまた寝てしまっていたのか、目を開けると白い日差しが部屋を照らしていた。ゆっくり身体を起こすと、華やかな赤と金の翼を持つ男が同じ色の髪を揺らして微笑んでくる。


「おはよう」

「……おはよ、ございます」


 言葉とともに差し出された翼の先に、私はそっと手を重ねて立ち上がる。彼にとってはこの翼こそが腕なのだと、出会ってすぐに教えられた。最初こそ戸惑いもしたけれど今ではすっかり慣れた――それなのに、私が歩き出すと翼はするりと離れていってしまう。


「あの、」

「ん、どうした?」


 手を繋いでほしい――言いかけたその言葉は、振り向いた彼の目を見たとたん喉につかえてしまった。私を見下ろす静かな眼差し。熱を感じられないその視線に、今朝の悪夢が頭をよぎる。

 あの時と違って、今向けられる顔に嫌悪はない。でも、きっと、時間の問題だ。


 だって――あの人も、最初は私を愛してくれていたのだから。


 ◆


 幼い私にはお気に入りの遊び場がいくつかあった。

 パンの匂いがする裏路地。鳥が戯れる広場。そして、水車小屋の近くの空き地。空き地はきれいな円形に草が刈られていて、私はそこをステージにでたらめな歌や踊りを披露するのが日課になっていた。


 その日も私は朝見かけた猫の親子に思いを馳せながら両腕を振り回してステップを踏んだ。心の赴くままに旋律と戯れ、思い浮かんだ言葉を音に乗せ、感情に突き動かされるように身体をくねらせる。


『ふんふんふーん……じゃん!』


 そうして気が済むまで歌い踊り、最後にポーズを決めたその時。


『フフ……やはり面白い。お前、あの町の子供か?』


 後ろから、急に声を掛けられた。バッと振り返ると、ステージの向こうに生えた草のそのまた向こう、川のあたりに見覚えのない青年が立っている。

 水面のようにゆるく波打つ、川底の石にも似た灰色の髪。透き通るように白い肌。清らかだけれど冷たい美貌と、それを引き立てる空を映した青い瞳。それは、どこからどう見ても水の精の姿だった。


 ぽかんと口を開けたまま問いかけに答えもせず立ち尽くす私に、水の精は気を悪くした風もなく笑って口を開いた。


『明日またここへ来い。楽しみにしているぞ』

『わ、えっと……はいっ!』


 美しい顔が、私を見てほころぶ。たったそれだけのことで私の心は彼に握られてしまっていた。明日もここへ、この人のところへ。そう思うだけで夜の訪れすら待ち遠しい。


 それから彼は毎日水車小屋の近くの川に現れ、私は毎日彼に歌と踊りを披露した。私が姿を見せるたびに彼はその顔に笑みを浮かべ、何をしても手を打ち鳴らして喜んでくれた。

 だから、私は。彼が妻にと望んでくれた時、何の憂いもなくその場で頷いたのだった。


 ◇


 結局手を繋ぎたいとは言い出せなくて、私は「ハイルさまは今日もお仕事ですか?」なんて馬鹿みたいな言葉をひねり出す。私を見下ろす金の目はパチリと瞬いてすぐに逸らされた。


「……いや。急ぎの仕事はない、オレも今日は家にいよう」

「あ、……そうなんですね。じゃあ、お昼はポトフを作りますね……! 確かお野菜がいくつかくたびれてきてて、それに、ハイルさまがいるならお肉もたくさん入れちゃいましょう!」

「お、嬉しい。嬉しいけどオレがいなくてもちゃんと食いなさい」


 穏やかな会話。あの家からは失われてしまったもの。ハイルさまは、私にそれを与えてくれた。

 優しい人だ。温かい人だ。行き場を無くした私を家に招いて、安らげる場所とぬくもりと知識をくれた。


 だけど。


「さて、じゃあオレはこの部屋にいるから何かあったら呼んでくれ」


 最近、こうして一線を引かれている。


「……前みたいに、お邪魔したらダメですか?」

「ああ。もうしばらくは駄目だな」


 穏やかな声。

 怒りはない。蔑みも嫌悪もそこにはない。それなのに、柔らかい布で締め付けられるようにじわじわと胸が苦しい。


 作業部屋に姿を消したハイルさまを見送って、私も道具箱を手に取る。蓋を開けるとハイルさまがくれた赤と金の羽、革紐や金具やビーズが詰まっている。

 手を動かして革紐を編みながら、思考は自然と過去の記憶に潜っていった。


 ◆


 水の精に嫁いだ私は浮かれていた。

 待ちに待った精霊との結婚、物語の再演。しかも母が言うには「"彼方の者"と結婚した娘で泣きながら一人帰ってきた者はいない」、それだけ彼らは一途に愛してくれるのだ。


 婚姻ともなれば面倒くさいしきたりやら妻の役目やらがあるのかと思っていたけれど、水の精は私に何も求めなかった。相変わらず何をしても喜んで、「お前はありのままであれば良い」と言ってくれる。こんな日々がずっと続くのだと、私は心から信じ切っていた。


 けれど、幸せは長くは続かなかった。


『またその歌か』


 ある日、お気に入りの歌を口ずさんでいたら眉をひそめられた。幼い頃に歌ったでたらめとは違う、ちゃんとした詩人の歌だった。彼も聞き入って「悪くない」と笑ってくれたはずの歌。

 気分に合わなかったのだろうか。そう思って違う歌をいくつか歌ってみたけれど、彼の表情はすぐれないままだった。


 そこから転がり落ちていくのはあっという間だった。


 歌声がつまらない。所作に華がない。凡庸で退屈。何をしても喜ばれていたはずの私は、気づけば何をしても詰られるようになっていた。


 そして。


『――期待外れだ』


 彼に捨てられ、家を追い出されて。"彼方の者"たちの世界を彷徨って、私は知った。

 人間は、一人では世界を渡れない。泣きながら帰ってくる者がいないのは、捨てられないからではなく……ただ単に、帰る手段がないからだった。


『……どうして? 私、なにがいけなかったの? どうして、急に……こんな……』


 帰れない。行く先も、頼るあてもない。知らない世界に一人ぼっち。こんな目に遭わなければいけないことを、私は何かしたのだろうか?

 たまたま見かけたベンチらしきものに座って、私はぼんやりと考えた。何日も何日も、答えの出ない問いを頭の中で転がし続けた。そうしていないと気が狂いそうで……いや、もしかしたらすでに狂っていたのかもしれない。表情を繕うことすら忘れてひたすら「どうして」を繰り返す私は呪いの人形のようだった。


 そんな私に声をかけてきたのが、鮮やかな翼を広げた彼だった。


『なぁ、アンタ。もしかして訳ありか?』


 温かい声だった。


『オレの名前はハイル、不死鳥の神秘種アルカナ……そっちじゃ"彼方の者"って呼ぶんだったか? まぁそれだ』


 まっすぐ私を見る金の目に、星屑のような光が散っていた。


『あー……迷惑じゃなかったら、なんだが……』


 差し伸べられた翼が柔らかかった。


『……ウチに、来ないか?』


 ……信じてみたいと、思ってしまった。


 ◇


「……ハイル、さま」


 編み上がった革紐を指にかけ、先端にぶら下がる羽をそっと撫でる。鮮やかな赤と金。あの日、私の視界を染め上げた炎の色。私をすくい上げ、生かしてくれた一番星。


 この家に私を連れてきた彼は、終わりのない問いかけにも終止符を打ってくれた。

 曰く、私が嫁いだ相手は水の精の中でも特に淀みを嫌う急流の精で、成長し安定を望むようになった私と価値観が合わなかったのだろう、と。「アンタは悪くないさ、強いて言うなら巡り合わせが悪かったな」と言われ、泣くことしかできない私を彼は優しく抱きしめていてくれた。


「ずるいなぁ……」


 何故だろう、今日はやけに思い出が溢れてくる。作ったばかりの羽飾りを指先で弄びながら、私はこの家で過ごした時間を脳裏に描く。


 水の精にありのままを望まれ、それなのに手のひらを返したように疎まれて。何もできなくなっていた私を、ハイルさまは根気強く励ましてくれた。簡単な二択を選ばせたり、されて嬉しいことを教えてくれたり、逆に何もさせずに私を甘やかしてくれたり。

 少しずつしたいことが増えて、してあげたいことが増えて、してもらいたいことまで増えてしまって。


「……すきに、なっちゃったよ」


 このまま、ずっと。今度こそ幸せに暮らせたら。そう思うのに、頭にちらつくのは冷たい眼差しで。

 そして、たぶん、ハイルさまも。今ではもう、出会った時みたいな輝く目では私を見ないので。


「きっと愛なんてもう在庫切れなのに。私だけ、片思いだね」


 口にすると、胸のあたりが引っかかれたように鋭く痛む。じくじくと血が滲むように涙の膜が視界を覆っていく。


 いけない。このままではせっかく編んだ羽飾りを汚してしまう。涙がこぼれ落ちる前に急いで羽飾りを箱に収め、なんとか蓋をしたその時。

 ハイルさまの作業部屋から、何か重いものが落ちるような音がした。


「なに……?」


 ハイルさまが物を落とすなんてただ事じゃない。私は箱を放り出し、作業部屋に駆け寄ると力いっぱいドアをノックした。


「ハイルさま? ……ハイルさま、開けますよ!」


 返事がない。そうと分かった瞬間、私は勢いよくドアを開け放つ。嫌われてるかもしれないとか捨てられるかもしれないとか、そんなことは頭から吹き飛んでいた。

 ――部屋の主は、床に倒れている。


「ハイルさまっ!!」


 悲鳴じみた叫びが鼓膜を震わせる。それが自分の声だと一拍遅れて気付いた。その一拍で、ハイルさまの身体はどこからともなく吹き上がった炎に包まれてしまう。


「あ、ぁ……あ……」


 燃えていく。癖が強いのに意外と柔らかい髪が、少し乾いた肌が、優しく包みこんでくれる温かい翼が、跡形もなく燃えていく。炎が弾ける、その音に胸が軋む。私の世界が、燃えていく。

 そして、あとには小さな灰の山だけが残った。


「……ハイル、さま」


 集めなきゃ。何が起きたのかもわからないまま、頭の片隅で冷静な私が囁く。あれがハイルさまなら、全部この手で集めなきゃ。それなのに、足は床に貼り付いたように動かない。

 窓は開いていない。吹き散らされる心配はない。でも埃は混ざるかも。あぁ、やっぱり集めなきゃ。


 思考が空回る。無意味な過程が広がっていく。あの日、どこかのベンチで「どうして」を繰り返したのと同じ。

 それなら、どうか。差し伸べられる光も。


「……――」


 その時。視界の端で、灰の山が動いた。


 炎が灯る。ぶわりと燃え広がる。……違う、あれは翼だ。炎の中から赤と金の翼が姿を現した。続いて象牙色の肌が、翼と同色の髪が、金の瞳が現れる。パチリと視線が合い、私は思わず息を呑んだ。


 無、だった。今朝までの眼差しは温かかったのだと思い知る。それほどまでに、その目には感情らしきものが何一つ浮かんでいなかった。そして次の瞬間――その瞳の中に、星が弾ける。


「リン」


 名前を呼ばれた。温かい声だった。私を見る目にはあの日のように星が散っている。


「……ハイルさま」


 応える私の声は震えていた。ハイルさまは目を見開き、くしゃりと顔を歪めてそっと私を翼の中に閉じ込める。背を包む翼は柔らかく、触れ合ったところからぬくもりが伝わってくる。

 ずっと求めていたものだった。取り上げられたと思ったものだった。私は両手を力いっぱい伸ばし、今度こそ離すまいと目の前の身体を抱きしめる。


「……あぁ、そうか。アンタ、知らなかったんだな」


 耳元で、ハイルさまが噛みしめるように囁いた。


「オレたち不死鳥の神秘種アルカナは、数年に一度こうして生まれ変わるんだよ」

「……聞いてない、です。私、ハイルさまが死んじゃったかと……!」

「だよな……悪かったよ、教えてなくて」


 翼の先でそっと頬を撫でられる。そんなんじゃ全然追いつかないほどに、私の目からはとめどなく涙があふれて頬を濡らしていた。ぐっと力強く引き寄せられ、私はハイルさまの胸に顔を埋める。


 とくとくと心臓の鼓動が伝わってくる。溶け合う体温が心地よい。今なら何でも言える気がして、私はハイルさまに身体を預けたまま口を開いた。


「ほんとは、もっと、こうしたかった。朝は手を繋ぎたかったし、同じ部屋でくっついて過ごしたいし、怖い夢を見たら抱きついて寝たいです」

「ああ」

「でも……嫌われちゃったかなって、思って……!」

「そうか……いや、そうなるよな。ごめん、不安にさせてたんだな……」


 ハイルさまの声が揺らぐ。コツリと頭を合わせられた。全身に伝わるぬくもりと重みに心の芯が少しずつほどけていく。

 私を抱きしめたまま、ハイルさまはゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「生まれ変わる直前って、要するに老年期っていうか……触れて確かめなくても同じ家にいてくれるだけで満足できちまうようになるんだ。人間の老夫婦がちょっと離れて散歩してたりするだろ? あんな感じでさ」

「……私に触れたくなくなったわけじゃない?」

「ああ。オレが勝手に満足してたんだ、今日もリンはここにいてくれるって」


 燃え上がるような激しい恋が、結ばれて長い時を過ごすうちに穏やかな愛へと変わっていくように。静かに穏やかに、でも確実に私は愛されていた。

 黙ってしまった私をどう思ったのか、ハイルさまは身体を少しだけ離すと眉を下げて顔を覗き込んでくる。金の瞳には星屑が散って……そしてよく見ると、その色は今朝とそれほど離れていなかった。


 私の目をじっと見つめて、ハイルさまは乞うように愛を告げる。


「言葉足らずですまなかった。オレはアンタを愛してる。燃え尽きる寸前まで変わらずに、生まれ変わるたびに鮮烈にアンタに惹きつけられるんだ。どうか、オレと生きてくれないだろうか」


 その言葉に、私の口からは自然と素直な気持ちがこぼれていた。


「私は……ずっと変わらない気持ちを信じるのは、まだ難しいです。だけど、"生まれ変わるたびに"なら……新しい薪の上で炎が尽きることなく燃えるのは、きっと信じられる」

「! なら、返事は」

「うん……ハイルさま、あなたが好きです。私はあなたと生きたい」


 金の瞳が愛おしげにとろける。そこに映った私の顔もふにゃふにゃに緩んでいた。すぐ近くで顔を見合わせたまま、私たちは何を言うでもなく笑みを交わす。

 ――柔らかな熱が、重なった。


 ◇


 夢を見た。かつて私を求めた美しい人の心が、私を離れて流れ去っていく夢。

 遠くを流れるその輝きを、私は静かに見送った。


 振り向けば、何度でも尽きず燃え上がる炎が私を温めてくれる。

 私はここで、この炎とともに生きていく。

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