第22話 ひとりのおとなの男性

 ノジカは、ひと晩かけて、全速力で山の中を駆けた。


 山の中腹までたどりついた時は、まだ夜が明けきらぬ時間帯だった。幼い頃母に暗い森へ一人で入ってはいけないと言い聞かせられていたことを思い出した。まして今は春なので、冬眠から覚めた獣が腹を空かせてうろついているかもしれない。


 だがノジカは走った。脇目も振らず山の中腹の女神へ舞を奉納するための社を目指した。


 暗い森へ入るにはナホが一緒でなければならない。獣に見つかった時に火を焚いて追い払うことができるからだ。いつでも空気を燃やせるナホさえいれば、人間はどんなに深い山の中でも生きることができる。


 ナホが光り輝いている限りこの世は明るい。


 もうすぐ夜が明ける。ナホが社の拝殿で舞い始めるはずだ。今ならナホと一対一で話ができる。他の山の民に邪魔をされることなくナホ一人の説得に専念できる。


 ナホさえ頷けばいい。女神であり女王であるナホが戦を拒んでくれれば回避できる。


 やがて建物が見えてきた。巨大な木造建築、その手前の木々に渡された縄――拝殿のある社だ。人間と女神が対話するための空間だ。


 縄をくぐり、階をあがり、戸の前に立った。


 戸に手を伸ばした。


 触れる直前、ノジカはカンダチの村を出て初めてためらいを覚えた。


 ナホが舞っているかもしれない。


 神聖な、清浄な舞の空間を、自分が侵すのか。


 自分は禁忌を犯そうとしているのではないか。カンダチ族に染まって山の習わしを踏みにじろうとしているのではないか。女神の怒りを買わないだろうか。


 荒くなった息をあえて細く長く吐く。


 女神とはナホだ。ノジカが十七年間仕え守り慈しんできたナホだ。ナホなら自分の言葉が届くはずだ。きっと聞いてくれるはずだ。


 胸の前で両手を合わせ、深く首を垂れる。心の中で許しを求めて叫ぶ。


 このままでは山の民がカンダチ族を攻め滅ぼす。山のふもとに死の穢れを撒き散らす。穢れるのは山だ。山の女神はきっと嘆くはずだ。自分の行いはけして女神を踏みにじるものではない。


 ナホを信じる。


 震える手で戸を押した。できる限り音を立てないよう細心の注意を払いながら、静かに開けた。


 屋内では火がこうこうと燃えていた。春の早朝にもかかわらず空気は暖かくて、冷え切ったノジカの肌を優しく撫でた。


 部屋の四隅に据えられた湯灯の火と、宙に連なる炎の玉が、中央で舞うナホの白い頬を照らし出す。


 足がゆっくり、だがしっかりと床を踏む。伸びた指の先、笹葉の端が、空間に弧を描く。炎がまたたく。黒い瞳が輝き、黒い髪が揺れる。長い睫毛が白い頬に影を落としている。


 幽玄。閑雅。あはれにしてをかし。


 ナホは、美しい。


 まっすぐ伸びた背、まっすぐ伸びた指先、静かで落ち着いた動作、艶やかな長い髪に滑らかな白い肌、何もかも女神に捧げられるにふさわしい。


 見惚れているうちに舞が終わってしまった。ナホが祭壇の前に膝をつき、腰を下ろして、両手をついて深く礼をした。


「かしこみかしこみもうす」


 ナホの声が聞こえてきたことで我に返った。


 しかし、それにしても、ナホの雰囲気が変わった。どことなくたくましくなっている。女物の着物を引っ掛けた肩がしっかりしていて、襟から出る首も前より太くなった気がする。


 彼が振り返った。


 二人の目が合った。


「――ノジカ?」


 ナホが立ち上がった。


「ナホ様」


 ノジカが一歩、ナホに近づいた。


 ナホが駆け寄ってきた。


「ノジカ!」


 ナホの腕が伸びた。ノジカの腕をつかんだ。ナホの方へ引き寄せた。


 彼の力が想像以上に強かったので、ノジカは驚いた。あまりの強さに言葉が出なかった。


 ノジカの胸がナホの胸にぶつかる。ナホの頬にノジカの髪が触れる。


 ノジカは動揺した。


 自分はもっと冷静な人間だと思い込んでいた。彼の一番のお側付きとして彼が何をしても落ち着いて彼をたしなめることができると思っていた。


 厚い胸板に抱き留められている。たくましい腕に抱き締められている。背が高くなった。


「ノジカ」


 耳元で囁く声も記憶にある声より少しだけ低く甘い。


 耳が熱くなる。


 薄暗い中でよかった。きっと今自分は耳まで赤くなっている。


 ナホの大きな手が、ノジカの後頭部を撫でる。


 こんなに大きな手、こんなに優しい手つき、ノジカは何も知らない。


「会いたかった」


 もうノジカの可愛い小さな甘えん坊の男の子はいない。ここにいるのは妖艶な舞を舞うひとりのおとなの男性だ。


「髪が……伸びた……?」


 どう反応したらいいのか分からない。


 体が離れた。改めて腕をつかまれ、ナホの腕の長さ分だけ距離を開けた。


 ナホの背後で、炎の玉が、揺れている。美しい、山の民を守る、穢れを祓い清める炎だ。


「会いに来てくれたのか?」


 それでも、ノジカを見つめる黒い瞳は見慣れたナホの目だ。


 ナホなのだ。


 どれだけ成長しても、彼はノジカのナホだ。おとなになってしまっただけなのだ。知らない相手ではない。


「はい」


 自分でも意識していないうちに頷いていた。ナホの言葉を肯定したいという気持ちだけが動いていた。


 頭の中が痺れている。


「ナホ様――」


 ノジカはナホに向かって手を伸ばした。そして、ナホの頬を撫でた。特に意味はない。なんとなく、ナホに触れたかった。


 ナホの左手が持ち上がって、頬を撫でているノジカの右手をつかんだ。


「なんだか、ずいぶん、おとなになられましたね」


 ノジカがそう言うと、ナホが笑った。


「俺、ノジカの目から見て、成長している?」

「はい、驚きました」

「もうおとなとして認めてもらえる?」


 ナホの顔が近づいてきた。ノジカは呆けた目でそれを見つめていた。


 唇に唇が触れる。柔らかな肉の感触が心地良い。


 胸が高鳴っている。


「ノジカ」


 ナホはノジカの手を離し、ノジカの腰に腕をまわした。ナホのもう片方の手は、ノジカの耳のすぐ横を通って後ろで半開きになっていた戸を閉めた。


 ノジカの背を、閉め切られた戸に押しつける。ノジカは戸に体重をあずけた。後頭部まで戸につく。


 もう一度、唇に唇を寄せられた。


 少しの間、ただ重ねていた。互いの唇の感触を唇で感じていた。


 唇が離れるかどうかというところで、ナホは止まった。


「ノジカに触りたい」


 吐息がかかる。


「ノジカが欲しい。ノジカを俺にくれ」


 不思議と不快でない。むしろ気持ちがいい。


 ノジカは、頷いた。


「ナホ様」


 ナホの肩に手を置いた。


「ノジカはナホ様のものです。ナホ様のものとしてお好きなように扱ってくださいませ」


 そう言いつつ、ノジカは悟った。


 自分はこの日のために生まれてきたのだ。この身は彼と悦びを分かち合うためにあり、この心も彼と歓びを分かち合うためにあるのだ。


 彼の手がノジカの帯をほどいた。ノジカはされるがまま、ただ彼の顔を見つめていた。


 いつかナホの子を産むと約束させられていたことを思い出した。親の決めたことでノジカの意思は介在していなかったが、自分の務めでありさだめであるように思われて拒むことなく受け入れていたものだ。


 放っておけばいつかその日が来るとぼんやり捉えていて、具体的にいつ何をどうすればいいのかは考えたことがなかった。なんとなく年上の自分が甘えん坊のナホを導いてやるのだとだけ思っていた。だが実際にその時が来た今、ナホはノジカが何もできなくてもちゃんとしている。心配することなど何もなかった。


 約束しておいてよかった、と思った。自分は一族の皆に彼と子をなすような行為をすることを許されている――それが嬉しいと思った。


 いじらしく、いとおしい。


 たくさんのいつくしみといたみをノジカは受け入れた。




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