第21話 テフの本音
最初、何が起こったのか分からなかった。理解することを頭が拒否していた。
カンダチの族長の屋敷の中、数名の女たちに囲まれて、一人の少女がうつむいている。大事そうに布袋を抱えて、顔の脇の黒髪で表情を隠し、ひとり縮こまっている。
ひとが増えたことに気づいて、少女が顔を上げた。
大きな黒目がちの瞳、小さな赤い唇、雪のように白い肌の美しい少女は、まぎれもなくノジカのたった一人の妹だった。
「テフ!?」
ノジカの姿を見て、彼女はその花のかんばせに笑みを浮かべた。
「姉さま!」
彼女はすぐに駆け寄ってきた。女たちを肩で押し退けると、布袋を抱き締めたままノジカに体当たりしてきた。
ノジカは混乱した。
テフはマオキの村で兄たちと暮らしているはずだ。一人では山の民の他部族の村にすら行ったことがない。こんなところまで来るはずがない。
だが、甘い声も甘い香りもノジカの頬に触れる滑らかな黒髪の感触も、何もかもすべてノジカがよく知っている妹のものだ。
「姉さま、会いたかったですぅ」
一人腕組みをして様子を見守っていたアラクマが言う。
「本当にお前の妹なんだな」
ノジカは困惑しながらも頷いた。
「確かに私の妹、マオキの族長イヌヒコの娘のテフだ。でも、どうしてここに」
テフの二の腕をつかむ。自分の体から引き剥がす。テフがいつもと変わらぬ機嫌の良さそうな顔で「ええ」と明るい声を出す。
「姉さまに会いたかったからですぅ」
「ふざけるんじゃない。いくらお前でも今マオキ族とカンダチ族がどういう状況なのか分かっているだろう」
たしなめるつもりで、少し強い語調で言った。六つも年下の妹なので、多少のことは大目に見て、さほど厳しいことは言わずに育ててきてしまったが、さすがに今は甘い顔をしていられる状況ではない。
テフは相変わらず笑顔だ。
「父上や兄上はお前がここにいることを知っているのか」
「いえ、知らないと思います。こっそり出てきましたから」
「長老会も?」
「はい」
「ナホ様もか」
「はい、みんな知らないはずです」
こんな状況で父や兄の足を引っ張らせるわけにはいかない。
「すぐに帰りなさい。いい加減おとなになりなさい、みんなに心配させるんじゃない」
テフの表情が曇った。
「そんなこと言わなくてもいいじゃないですか、姉さまはテフに会えて嬉しくないんですか?」
ノジカは右手を振り上げた。
横に振って、テフの左頬にぶつけた。
ぱん、という、大きな音が出た。
許せなかった。
ノジカは、二度とマオキの村には戻れないと、親兄弟や主君のナホにふたたびまみえることはないと思いながら、マオキ族とナホのために一生カンダチ族で暮らす覚悟を決めてここまでやって来たのだ。
その垣根を、テフが難なく越えようとする。そして、可愛く笑ったり口を尖らせたりして許されようとする。
「いつまでも甘えていられると思うな」
テフはしばらく呆然としていた。いつもはすぐに表情を変え声を上げる彼女らしからぬ、目を大きく開けた状態で斜め下を見ていた。
怒りのせいで次の言葉が出てこない。
だいぶ間を置いてから、テフが正面を向いた。
ノジカは驚いた。
テフが表情を歪めた。眉根を寄せ、口を開けて、顔を真っ赤にした。
大きな涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。
テフはよく泣く子だ。少しでも気に食わないことがあると泣く。だが、いつもならこんな泣き方はしない。顔の形を歪めるような真似はしないのだ。声を上げずに器用に涙だけをはらはらと流す。ひとはそのあまりの可憐さにおののいて本当はテフが悪かったとしても謝ってしまうものだ。
しかし、今のテフの泣き方はそんな可愛らしいものではなかった。肩を上下させ、口を開けて嗚咽を漏らしていた。左腕に袋を抱いたまま右手で目元をこすっている。これでは目が腫れてしまうだろう。
こんなテフは初めて見たかもしれない。
ノジカだけでなく、その場にいた女たちやアラクマも黙ってテフを見つめていた。
あまりにも激しく幼い泣き方に、彼女は壊れてしまったのではないかと思った。
「みんなそう言います」
洟をすすって言う。
「テフはバカだから、テフはこどもだから、黙っていなさい、あっちに行っていなさい、甘えるんじゃない、ふざけるんじゃない――そんなことばっかり!」
テフは何も考えていないのだと思っていた。
「誰一人テフがいいとは、テフでいいとも、言わないんです。みんなノジカノジカノジカノジカ!」
ノジカは後悔した。
「どうせ今だって誰も心配なんかしてないですよ、みんな邪魔なテフがいなくなって今頃せいせいして落ち着いて仕事ができるんです、テフが山で野垂れ死にしようが海で野垂れ死にしようが気にする人なんて一人もいません……!」
テフは天真爛漫で後ろ向きなことなどひとつも抱かないのだと思い込んでいた。彼女は生まれたその日から今日に至るまで誰からでも可愛がられて幸せに生きていると思い込んでいたのだ。
テフの心は何を言っても傷つかないと思っていた。
そんなわけがない。十三歳の人間の女の子だ。
「でも……、どうして、そんなこと、今……。昨日今日に誰かと喧嘩をしたりした……?」
テフは首を横に振った。
次の時、しゃくり上げながら笑った。
ノジカは、テフはどんなにつらくても笑うのだということを、たった今知った。
「この前、初めて月のものが来たんです。昨日終わりました」
あまりのことに、思わず自分の口元を押さえた。
「これで赤ちゃんが産めると思って――おとなの女として取引に使えるからだになったんだと思って。テフと姉さまを交換してもらえないかと思って……」
「バカ……!」
腕を伸ばした。テフを抱き寄せた。強く、強く抱き締めた。
「お前はそんなこと言わなくていいのに……!」
テフの腕から袋が落ちた。
ひょっとして、これが彼女の持ち物のすべてなのだろうか。たったこれだけの荷物で嫁に来たつもりなのだろうか。誰よりも衣装持ちで肌の手入れも欠かさなかった彼女が、自分で抱えられるだけのものしか持たずにここまで来たのだろうか。
テフは一人でマオキの村を出たことすらない。それが今回歩いたことのない野を一人でさまよいながら来たのだ。ここまでの道中はどれだけ恐ろしかっただろう。それも、自分自身を人質として、道具として明け渡すためにやって来た。
「だって」
小さな手が、ノジカの着物の背中をつかむ。
「みんなテフより姉さまの方がいいから……! 姉さまがいたらみんなみんな丸く収まるから――だから……!」
「ごめんなテフ。ごめんな」
「ごめんなさいぃ」
泣きじゃくるテフを抱き締めたまま、ノジカは歯を食いしばった。そうでなければ自分も泣いてしまいそうだった。テフを前に泣くわけにはいかなかった。強い姉でいたかった。自分まで泣き喚いてテフを不安がらせたくなかった。
「アラクマ」
だいぶ間を開けてから、口を開いた。
「しばらくこの子をここに置いておけないだろうか。少しの間でいい、落ち着いたらマオキの村に帰すから……、物資が少ないところ、本当に申し訳ないが――ほんのわずかな時間で構わないから、マオキのみんなのいないところでゆっくり自分のことを考えさせたい」
返事はすぐには来なかった。ノジカはそれを、蓄えが少ないからだと思っていた。カンダチ族は先の戦でマオキ族から巻き上げた戦利品を冬の間に消費してしまった。テフ一人を食べさせるのにも事欠くと、そう思っていたのだ。
「まずいな」
アラクマは首を横に振った。
「俺も、いてもいいと言ってやりたいが――」
険しい表情で息を吐く。
「もし――万が一、カンダチ族がマオキの姫君を拉致したとでも言われたら、戦のきっかけになりかねない」
血の気が引くのを感じた。ノジカの腕の中で、テフも目を丸く見開いてアラクマの方を振り向いていた。
「すぐに使者を立てる。姫を返すと、こちらには悪意はないと伝えなければ。今は戦をする余裕がない」
次の時だった。
「アラクマ!」
戸の外から少年の声がした。
「マオキ族からの使者が……!」
最悪の事態だ。
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