第3章 【山】

第8話 オグマ暗殺計画

 族長イヌヒコの意識が戻った。しかし彼の回復を素直に喜んだのは次女のテフだけであった。あまりの不甲斐なさに、山の民のまつりごとの長としての責任を問われることになったためだ。マオキ族としては、彼が生きていると体裁が悪いのである。長老のひとりはあからさまに「そのまま死ねばよかったものを」と吐き捨てた。


 まだ床から起き上がれないイヌヒコを囲んで、長老たちとイヌヒコの長男のシシヒコ、そしてナホが詰めている。


 ナホは今日も女向けの着物を着ていた。正装とは違うが、生前の母、つまり先代の女王が普段着として着ていた高価なものだ。他の村から献上された絹でできている。いつかノジカと二人で暮らす日が来れば彼女に贈ろうと思って大事に保管していた。自分が袖を通す日が来るとは思ってもみなかった。


 カンダチ族が海に帰り、見舞いにやって来る他の部族の者たちが引いても、ナホは女王の装いを解くことができなかった。


 カンダチ族の男がいるからだ。


 オグマと名乗ったカンダチ族の男は、カンダチの族長アラクマの言いつけどおり、マオキの村にとどまっている。


 一応客人としてそれなりにもてなしてはいる。他部族の、それも自分たちに戦で勝った部族の男を簡単に召し使い扱いするわけにはいかないからだ。オグマには最終的な処遇についてはイヌヒコの意識が戻ってからと伝えてもろもろのことを先延ばしにしていたが、今のところはとりあえず丁重な扱いをしていた。


 オグマは、イヌヒコの言葉を待つと言っておとなしく接待を受け続けてはいるが、機嫌はあまり良さそうではない。客人としてといえどほぼ軟禁されたようなものであることを考えると、楽しくはないのだろう。それでも基本的には用意された館に滞在しており、時折女たちに連れられて温泉に行くほかは出歩かないでいてくれる。


 マオキの一同の方がイヌヒコの目覚めを待てない。今に至るまでの数日間、老若男女があちらこちらでオグマの今後について議論していた。だが誰も意見をまとめられない。本来ならまとめなければならない立場にいるにもかかわらず目を覚まさないイヌヒコに苛立ちを募らせていった。


 そのイヌヒコが、本日とうとう目を覚ました。


「ノジカ……」


 彼はまず長女がいないことを嘆いた。両手で自分の額を押さえ、悲痛な顔をして呻いた。


 長老たちの間から、呆れと怒りの溜息が漏れた。


「あの子は死ぬまでマオキの村にいてホカゲ族の繁栄に貢献するのだとばかり――」

「もうおらぬ。死んだものと思え」


 もはやマオキの長老会の関心はノジカにはない。けれどイヌヒコはついていけていない。


「その、オグマ殿とやらをカンダチ族に返して、ノジカを取り戻すことはできぬのか」

「ならぬ。カンダチの族長は嫁を望んだのだ。他のおなごを出すならまだしもオグマ殿とノジカは交換できまい」


 ナホは拳を握り締めた。


 不思議なことに、女の恰好をしていると、意見できない気がしてくる。女王であるナホにはそういう力がないように思えてくる。


 母がそうだったからかもしれない。


 母はマオキ族をはじめとする山の民の言うことを粛々と聞いていた。聞き終わったあと頷くだけで、自分の意見を表に出すことはなかった。


 女王というものはそういうものだと刻み込まれているのかもしれない。


 長老のうちの一人が言う。


「イヌヒコよ。そなたその体ではもう戦えまい」


 右腕が切断手前までいったせいか右手が動かないらしい。腹の傷も深く一時は臓物が露出していた。


「族長の座を息子に譲れ」


 イヌヒコはまったく抵抗しなかった。彼は「申し訳ない」と言ってうなだれ、頷いた。


 傍に控えていたシシヒコが弾かれたように顔を上げた。


「それは、つまり、僕が族長になるということですか」

「さよう」

「そんな。まだ早すぎます」

「ではいつならばよいと言うのだ。そなたももう二十一ぞ」

「ですが、僕には自信がな――」

「嫌だと言うのかえ」


 シシヒコもうつむいた。


「いえ。お受けします」


 ナホも溜息をついてしまった。この親子は父も息子もこの調子だ。この弱腰のせいでカンダチ族に勝てなかったのではないかと思ってしまう。二人とも娘、妹のノジカに頼りすぎていた。だからノジカがいなくなってからこちら話が進まないのではないか。


 あれこれ言ってやりたい。怒鳴りつけてやりたい。大きな声で、しっかりしろと、どうにかしろと、叫んでしまいたい。


 だが我慢だ。それこそこどものすることだ。自分が今もまだそんな調子だと聞いたらノジカはきっと困る。ノジカが心配しなくてもいいようなおとなになると決めたのだ。


 長老たちのうち、神官をしていたおきなが一歩歩み出た。


「オグマ殿の今後の件について、わしらが話し合ったことをそなたたちに話す。心して聞け」


 イヌヒコとシシヒコが居住まいを正す。


「まず何においても大事なのはナホ様が男児だと知られてはならぬということだ。マオキ族の外に漏らしてはならぬ。カンダチ族だけではない、山の民にも、だ。むしろ、山の民にこそ。ナホ様が本来女王たるべきお方ではないことが知れたら、山の民がまとまらぬことになるやもしれぬ。それだけは断じてあってはならぬ」

「承知」

「あの男がこのままマオキの村に滞在を続けようものならば、いつどこでこのことが知れるか分からぬ。否、すぐ傍で暮らしておるのだから、もしかしたらもうすでに知れているやもしれぬ。情報をもって外に出られては困る」


 神官の翁は断言した。


「消すしかない。殺すのだ。ひと知れず葬り去れ」


 ナホは落胆した。アラクマを殺そうと息巻いていた数日前の自分を思い出した。こいつらに育てられたから自分もこうなのではないか。


「幸いのことあれからカンダチ族より使者はない。族長のあの男も好きにせよと言った。素知らぬ顔をして過ごし、季節の貢ぎ物を渡す時は病で起き上がれぬとでも言って、乗り込んでこられたら病で死んだと言えばよかろう」

「だが、それではノジカは――」

「あの娘自身のさだめによるであろう。万が一のことがあっても、ナホ様をお守りするために必要なことであったとなれば当人も承知するであろう」


 ナホは口を開きかけた。けれどすぐに閉ざした。また、拳を強く握り締めた。


「マオキの村によそ者があってはならぬ」


 長老たちの声は力強い。


「排除するのだ」

「最悪もう一度戦になることも辞さぬ」

「いや、もう一度戦をするのだ」

「いつまでも貢ぎ物を贈るようではこちらが支配されているようなもの、マオキ族こそ支配者の一族でなければならぬ」

「そのための族長の代替わり」

「シシヒコのもとで若い戦士たちをまとめ直し、強いマオキ族を取り戻すのだ」


 ナホにも他の意見はない。これではだめだと分かっているのに何も思いつかない。何がどうだめだと思うのかもうまく説明できそうにない。長老たちの決定に従うしかない。


 ノジカだったらどうしただろう。賢い彼女のことだから、何かは考えついたのではないか。


「それでは、いつにしますか」


 シシヒコが震える声で言う。


「あの男を殺すのは僕が請け負います。女王のための、大事な仕事ですから。でも、いつ、どのように」


 神官の翁が自らのあごひげを撫でる。


「祝言の夜にしようぞ」

「しゅうげん?」

「女王ナホの夫にしてやるとそそのかすのだ。どの部族にも知られぬよう取り計らって形ばかりの祝言を挙げ、夜、おなごと二人きりだと思って油断した時を狙って殺せ」

「ナホ様と結婚させるのですか」


 シシヒコがナホの顔を見た。ナホはようやく発言を許された気がして口を開いた。


「どうせ形だけだろう? 床入りする前、シシヒコが来るまでの間、いつもどおりおとなしく女王をやっていればいいんだろう」


 翁が「おおせのとおりで」と答える。


「遅れるなよ。脱がされたらバレるからな」


 シシヒコが神妙な面持ちで「はい」と頷いた。


「ナホ様」


 おうなが険しい顔つきで言う。


「また深くお考えにならずに受けられたのではございますまいな。他の部族には祝言の真似事をすることも知られてはなりませぬぞ、女王の玉体に蛮族の穢れた手が触れたのではと勘繰られてはならぬのです」

「俺だってそれくらい分かる」

「よいですか、シシヒコが行動するまでは決して何もしてはなりませぬ。くれぐれも軽々しい行動は慎まれませ」

「分かってる、分かってる。うるさいな」

「あのぅ」


 一同が一斉に戸の方を向いた。


 テフが土器かわらけの碗ののった盆をもって可愛らしい笑みを見せていた。


「お水をご用意しましたよー! 皆さん飲んでくださいよぅ。お疲れでしょう?」


 長老たちが「おお、気が利くのう」と目を細めて喜んだ。


「ね、ね、何のお話です? テフも交ぜてくださいよぅ」


 シシヒコが溜息をつきながら「お前には関係ない」と言う。テフが眉尻を垂れあからさまに不満を表現した。


「テフはあっちに行ってろ。お子様はいいんだ」


 ナホがそう言って手を振ると、テフは身をくねらせて「冷たいです!」と訴えた。しかしナホに続いてイヌヒコまで「あとで教えてあげるから、今は下がりなさい」と言ったので、彼女は唇を尖らせながらもすぐに出ていった。



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