第6話 ノジカとアラクマの初夜
河の下流に辿り着いた。
ノジカは生まれて初めて目の前で見る海というものに感覚のすべてを奪われた。
どこまでも広がる紺碧の水面、それでもなおすべての水を覆い包み込む蒼穹、寄せては返す白い波、頬を打つ風の香りは塩辛い――遠い山の頂から見ていた海とはまるで別物だった。想像よりずっと雄大で壮大な景色だ。
白い浜辺に木の板の壁でつくられた建物が並んでいる。水面下、おそらく地中深く砂の下まで長い杭を打って柱としているのだろう。すべての建物が海の上に浮かんでいるように見えた。中には大きな舟を浮かべてその上に小さな小屋を建てたものもある。
カンダチ族は海の上で生きているのだ。
河辺にひとびとが詰めかけていた。きっと先触れを出していたに違いない。皆並んで戦士たちの帰りを歓迎している。笑みを浮かべる日に焼けた頬はいずれも健康的だ。全体が若々しく見えた。
女が数人出てきて、ノジカの手を取った。
「ようこそ、カンダチの新しいくにへ」
「最初の王にマオキの姫君を迎えられたこと、心より嬉しく思います」
最初の王、と聞いて、この一族の歴史がまだ浅いことを察する。彼ら彼女らはこの地で一から生活を始めたばかりで、本当に、全体的に若いのだ。
膨らみ切ってこれからしぼむばかりのマオキ族では、とうてい敵うまい。
ノジカは、気を引き締めなければ、と思った。
マオキ族には長年山の民を束ねてきた叡智がある。まつりごとをすべて統括するのはまだ若い部族であるカンダチ族にはできないはずだ。役割分担をすればまだマオキ族の活躍の場を守れる。自分がうまく立ち回ることで、これらの部族の仲立ちをしてふたたび正面衝突しないよう調整していくのだ。
それが嫁の務めだ。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、ある女性の姿が目に留まった。人だかりから距離を置いて浜辺にひとりぽつんと立っている女性だ。どこかぼんやりした目でノジカを眺めている。
彼女は、ノジカが彼女の方を見たのに気づくと、愛想の良さそうな、穏やかな笑みを浮かべた。簡易な貫頭衣に身を包んでいるが、どことなく上品そうだ。
細く長い手足に反して腹部が膨れている。妊婦なのだ。それも相当大きい。産み月が近いのだろう。
少しの間、目が合っていた。
何か言いたいことでもあるのかと思ったノジカは、彼女の方へ近づこうとした。けれど周りの女たちや戦士たちが邪魔で自由に歩けない。
ややあって、彼女は、ノジカに背を向け、海の方、浜辺に建つ家のひとつへ向かって歩き出した。
その背を追う者はなかった。
その日の夜も、晴れていた。
ノジカはひとり、布団の上に正座をした状態で息を吐いていた。
自分のからだを見下ろす。カンダチの女たちに着せられた衣は前合わせで簡単に開ける仕組みになっていた。中は素肌だ。
覚悟は決めていたはずだった。ひとのものになればいつかこういう夜も来る。しかしノジカは長年その相手をナホで想定していた。ナホがもう少しおとなになったら、ナホがもう少し男らしくなったら、などと言って先延ばしにしてきてしまったが、ナホとのその日は遠からず来ると信じていた。ナホのことだからきっと甘えてくるだろう、その時には女といえど年上の自分がある程度導いてやらねばなるまい――そう思い、村の女たちからそれとなく知識を仕入れて支度してきたものだ。
自分の胸を押さえる。
怖い、のだろうか。
ノジカは自分をもっと強い人間だと思っていた。ひとりの戦士として、ナホの守護者として、強くたくましく冷静な人間なのだと思っていた。
それでも、会ったばかりの男と契らねばならぬとなれば、恐ろしく思うのだろうか。
大事な仕事だ。子をなしてマオキ族とカンダチ族の仲立ちをしなければならない。立派に務めなければならない。
まぶたを下ろし、大きく息を吸う。
これは戦だ。女はこうやって戦うものなのだ。
戸の外にひとの気配を感じた。ややして戸を叩く音が聞こえてきた。
「支度は済んでいる。入れ」
落ち着いた声が出た。ノジカは自分の強さにひと安心した。
マオキ族の――山の民のためを思えば、醜態を晒さずに夜を乗り越えられる。
外から戸が引かれた。
すぐそこに、アラクマがひとりで立っていた。
彼は黙って部屋に入ってきて、後ろ手で戸を閉めた。
戸を閉め切ってもなお窓から入る月明かりで部屋の中は明るい。互いの顔がはっきりと見える。
化粧は勇気のまじない、夜着は戦装束だ。相手にとって不足のない、強く美しい女に見えるといい。
覚悟は決まった。
ところが、だった。
アラクマは、無言で部屋の真ん中へ移動すると、ノジカが座っているのとは別の、もう一組の布団の端をつかんだ。そして、戸とは反対側の壁へ寄せるように引っ張り、ノジカの布団との間に距離をつくった。
自分の布団に横になる。
「寝ろ」
アラクマが何をしたいのか分からず、ノジカは目をまたたかせた。
「どういうつもりだ」
「いいから黙ってもう寝ろ」
ノジカは思わず尻を浮かせた。
「貴様何もせずに寝る気か」
「ああ。ここのところ戦続きの旅続きで疲れてるからな。少しでも休みたい」
「初夜だぞ、花嫁に恥をかかせるのか」
「そんなに俺に抱かれたいのか? 意外だな、あの大部族マオキの姫君だからもっと強情で気位が高いお姫様かと思っていたのに、そんなに軽々しくカンダチの野蛮人に身をゆだねていいのか」
「軽々しくではない、マオキ族とカンダチ族の同盟のために子をつくるのではなかったのか? 私はマオキの姫としてカンダチの長の子を産むんだ」
「勇ましいお姫様だな」
枕の上に肘をつき、手の上に頬杖をつく形で顎をのせる。
「これっぽっちの気持ちもない女を犯して悦ぶ趣味はない。お前が損得抜きで俺になついてきたらにする」
拍子抜けして、ノジカは布団に尻をつけた。
「カンダチの族長は世襲制ではないから焦って子をつくる必要はない。自分は母親が嫌々産んだ子なんだと思ったら子供は不幸だ。でもこどもは嫌いじゃない、人は
「なんだか……、お前は意外と浪漫的なところがあるようだな」
「たまに言われる」
姿勢を崩して、足を前に出して膝を抱える。肩から力が抜ける。
相手は、なにも、恐ろしい蛮族の王というわけではないらしい。少なくとも、荒々しくされて痛い想いをするということはなさそうだ。
「お前に何かあったら今度こそ刺される気がするしな」
「誰に」
「マオキの村に泊まった夜、ちょっと面白い出会いがあった」
布団に身を横たえつつ、アラクマの顔を眺める。愛想がないように感じるが、特別攻撃的にも思われない。
「誰かマオキの人間が何かしたのか」
「マオキ族じゃないだろ。追い詰めたら手から炎を出した」
それを聞いた途端、胸が冷えた。
「あれがお前らの言うところの神の力なんだろ?」
ナホだ。
脈が速くなるのを感じる。けれど顔に出すわけにはいかない。
ナホがノジカの知らないところでアラクマに接触している。
「名乗ってはいないのか」
「ああ、問い詰める前に火を噴きながら逃げた。でもあれがホカゲ族だというのは分かった。そんな妖術使いどこを探しても他にいないはずだ」
何と言おうかと考えあぐねていたところ、アラクマはこう続けた。
「ホカゲ族には男もいたんだな。噂では女ばかりだと聞いていたが、王になれるのが女限定というだけで、別に男がいないわけじゃないのか」
ノジカは少し、考えた。
ひょっとしたら、遠くから来た異民族のアラクマは、ホカゲ族がもうナホ一人しか残っていないことを知らないのかもしれない。女王を装っていないナホを女王ナホだと思わなかったのかもしれない。
「知り合いだろ? 心当たりあるだろ」
おそるおそるながらも、ノジカは頷くことにした。
「彼が、何を?」
「あのガキ、俺がお前を連れていくことが不満らしくて、夜中に剣持って俺の寝込みを襲いにきたぞ」
「えっ」
驚きのあまり声を出したノジカを、アラクマが声を殺して笑った。
「あの子が、そんなこと」
「この俺を殺そうとするくらいだ、よっぽどお前に惚れてるんだとみた」
ナホが、自分に惚れている。
胸に熱いものが込み上げてくる。
親同士が決めたいいなずけだからというわけではなかったのだろうか。ナホは本当にノジカをと望んで夫婦になれる日を待っていたのだろうか。
ナホは無鉄砲なところはあるが決して愚かではない。女王としての体裁を考えたら、カンダチの族長の暗殺など無茶だと分かる程度の分別はあるはずだ。それをおしてでもアラクマを殺したいくらい憎むほど、ノジカが奪われることを悔しいと思ったのだろうか。
目の前が涙で歪んだ。
別れる直前の朝、ナホは腫れ上がった頬をしていた。どこで誰に何をされたのかけして言わなかったが、アラクマと揉み合ったのかもしれない。
そんな痛い思いをしてでも、ノジカを取り戻そうとしたのか。
馬鹿、と言って叱ることすら叶わないほど遠くに来てしまった。
アラクマに背を向け、掛け布団で頭を覆う。
それでもナホは耐えた。我慢してノジカを送り出した。ナホはきっと自分の気持ちだけではどうにもならないことを知ったのだ。
今頃きっとひとりで噛み締めている。
すぐに抱き締めてあげたい。
こんなことならもっと早く通じておくべきだった。ナホにそういう気持ちがあったのならせめて思い出のひとつでも作っておくべきだった。
もう会えない。
ノジカは初めて寂しいと思った。ひとりでカンダチの村に来たことを、心細いと、つらいと、マオキの村に帰りたいと思った。
ナホを、愛しいと思った。
あの子も今頃寂しがって泣いているかもしれない。
「……俺が泣かせたみたいになったな」
「申し訳ない」
「まあいい。お前も疲れただろ。すっきりしたら寝ろ」
それきり、アラクマは何も言わなかった。ノジカも声を掛けなかった。溢れた涙をひとしきり流してから、黙って目を閉じた。
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