第6話
ハッキング騒動から1か月が過ぎた頃の午後、滝本さなえは自分の部屋で歯科衛生士のテキストをぱらぱらと開きながら、これからどうしようかと考えていた。
雄一とは、結婚前から長く付き合ってきたけれど、雄一がどんな人間で、何を考えていたのか、私、分かっていたのだろうか。
津田さんは、薬のせいだと言ってくれたけれど、本当にそれだけだったのか。
とはいえ、雄一が死んでしまう前に離婚していないし、雄一に身寄りもないので、多田歯科医院の土地家屋は私が引き継ぐことになった。そうなると、相続税の申告のために資産の洗い出しなどいろいろとすることがあるらしい。
父の高行が銀行時代の知人でそれらに詳しい人に相談してくれているが、正直、あの医院を引き取りたくないし、もっと言えば忘れたい。
あーあ、なんかいやになっちゃうな、と、思いっきり伸びをしたところに、母の香苗が「さなえちゃん、手紙が来てるわよ。入るわよ」と言って、さなえの部屋のドアをノックして入ってくる。
香苗が「はいこれ、差出人の名前がないから、宣伝かしら」と言いながら封筒をさなえに渡し、部屋から出ていく。
さなえは、「ふうん」と受け取り、宣伝なら開けずに捨てようと見ると、表の住所も、さなえの名前も手書きで、切手が貼ってある。宣伝じゃないのかもと、はさみで封筒を開く。
中には、離婚届が入っていた。さなえが書きかけたあの離婚届だ。さなえが自分で書けるところを書き込み、雄一に突きつけるつもりで持っていた。そういえば、無くしたことを今まで忘れていた。
折りたたんだ離婚届を開いて見る。紙はしわがあり、字が滲んでいる。
あの日のことを思い出す。いろいろあったな、そうだ、新大橋だ、鈴木さんとあの女を橋から落とした時だ。きっとそうだ。いや、野川さんが、鈴木さんは隅田川には落ちていないだろうと言ってた。
そうすると、あの、ユウナという女がこれを。
津田さんの言うように、あのユウナがX国に使われている人なら、国が変わってしまった後どうなるのだろう。
考えてみれば、あの女が悪いということじゃないのか。命令されて好きでもない男を誘惑したり、いや、あの女こそ、津田さんの言っていた、よくない薬やなんかを飲まされていたのかもしれない。
そう考えると、あの女を恨むのは間違っている。
この離婚届も、あの時隅田川に落ちたのを、大事な何かと思ってあの女、いや、ユウナさんが拾ってくれ、無理にやらされた役目といえ、私につらい思いをさせたお詫びにと、これを送ってくれたのかもしれない。
この離婚届に書いてある名前と住所のところに、「ごめんなさい」という意味で。甘いかな。
でも、ユウナさん、今どこにいるのだろう。封筒の消印は、札幌という文字が読める。そうか北海道にいるのか。
X国の体制が変わり、前の政府の関係者が処罰されているらしい。ユウナさんは大丈夫だろうか。私にこんな手紙を送ったりして危なくないのか。
そうだ、この封筒と離婚届は一緒に焼いてしまおう。ユウナさんのために。そして、私のために。
完
少女が天使にかわる時(リストラ中年の探偵物語) @sam-o
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