第5話
滝本高行の今日の勤務は午前8時から午後4時まで。午後3時50分になり、日本橋にある帝和銀行電算センター内の運用室の端末にマニュアル通りのコマンドを入力し今日の業務は終了する。
マニュアルに指示されている通りに決められた時間に決められたコマンドを間違わないように入力し出力するメッセージを確認するのだが、高行には実際それらが何を意味しているのか実はよく分かっていない。
45歳の一次定年でどこかへ出向を覚悟していたが、受け入れ先がなかったのか、全く経験のなかったシステム部門へ異動、55歳で一緒に仕事をしていたシステム子会社に転籍、そこで定年を迎え、再雇用で5年、ようやく今月末でそれも終わる。
システムの勉強も以前はいろいろと取り組んだが、覚えた頃にはシステムそのものが変わってしまい、途中であきらめた。ともかく間違えのないようにとだけ注意して今日まで何とか務めてきた。
窓の全くないこの部屋にいると外の様子は分からないが、天気予報では今日は晴れ、この時間ならまだ日は高い。さなえも最近は少し元気になってきたし、どこかでさなえの好きなケーキでも買って帰ろうかと思いながら、最後のコマンドを入力した。
いきなり見たことの無いメッセージが流れ出す。高行はどうすればいいのか分からない。誰かいないかと回りを見渡す。少し離れたところに作業している人を見つける。同じ会社の若い人だ。その人の所へ行こうとして焦ってつまずきそうになる。
「あのう、ちょっと見て頂けるでしょうか」
「はい、どうしました」
「見たことの無いメッセージが出てきて」
めんどくさそうに高行の使っていた端末の所へ行く。
この会社の社長はもちろん、役員の多くも親会社、帝和銀行からの天下りだが、実際に現場で働いているのはこの会社の社員と、外部の支援者の人達。
その人たちが親会社から来て現場にいる、そして役に立たない高行をどう見ているかは、高行も十分自覚している。
だから、出来るだけ、現場に人達の邪魔にならないように遠慮して働いてきた。そんな高行に、銀行同期入社の役員から「帝和銀行出身者が子会社の連中に遠慮することはないだろ」と言われることもあるが「はあ」と言って過ごしてきた。
今回の見たことのないメッセージも、見なかったことにすればよいのだが、まじめな高行にはそれができない。
端末の所に戻ってみると、さっきのメッセージは消えている。
「いろいろなメッセージがすごい速さでたくさん出てきたのですが」
遠慮がちに言う高行に
「一時的なエラーじゃないですか。今、使えるなら大丈夫じゃないですか」と端末を使ってみるように促す。
恐る恐る、高行が知っている表示用コマンドを入力してみる。問題なく正常なメッセージが出る。
「大丈夫ですね。滝本さん、上りの時間でしょ。終了させて上がっていいんじゃないですか」そう言って、自分の席に戻って行く。
「お忙しいところすみませんでした」
高行は歩いて行く後姿にそう言って、ログアウトのコマンドを入力し端末のスイッチを切る。
ロッカー室で作業用のジャンバーから背広に着替え、電算センターを出る。
ケーキでも買ってと言う気持ちはすっかり消え、仕事の出来ない情けなさに真っすぐ家に帰る気にならない。
少し散歩して気分を変えて帰ろうと隅田川テラスへ向かう。
新大橋に近づいた所で「今日は向こう岸に行ってみよう」と橋を渡る。川べりに降り近くのベンチに座る。まだ夕日が残っている。
人付き合いが苦手で口下手、冗談や御世辞が言えない高行は、見た目が細面で生意気に見えるのか、若い頃から、上司に理由なく嫌われ、無視されたり、馬鹿にされたりすることが多かった。
勤めを続けるにつれ、同僚や後輩たちからも軽んじられて行くのがつらかった。今月でそれもようやく終わる。そう思っていたが、今日のことで、これまでのいやな日々を思い出してしまった。
結局、自分は勤め人が向いていなかったのだろうと高行は思う。では、他に何が出来たのか、それも思いつかない。
深いため息が出て、そろそろ帰ろうかと思い妻に電話しようとスマホを背広のポケットから取り出す。
着信が10件、メールが8件もある。いつも、勤務中は着信音をオフにし、勤務が終わるとオンにするのだが、それを忘れていた。歩いたりベンチに。座っている間、バイブに気付かなかったようだ。
メールは全て会社から「すぐに連絡下さい」。電話は、会社からが10件、妻の香苗からが2件。留守電は会社から4件。内容は「すぐに折り返し連絡下さい」2件と、「会社にすぐ戻るように」が2件。
何が起こっているのか。あわてて、会社に電話する。
「もしもし、滝本ですが」
「あっ、滝本さん。課長に代わります」
「もしもし、滝本さん。いまどこですか。すぐにもどりなさい。あなた、どういうつもりですか。まだ、銀行にも、警察にも連絡してません。いまなら、穏便に済ませられます。いいですね、すぐに戻りなさい」
その言葉で、電話は切られた。
何が起こったのだろう。多分、あのメッセージで何かあったのだ。警察に言うといってたな。私は何かとんでもないことをしてしまったのだろう。
ともかく、会社に戻らなければ。高行はもつれる足で河岸から新大橋に向かう。
電話が鳴る。香苗からだ。
「もしもし、わたしだけれど」
「あっ、お父さん。いったいどうしたんですか」
「いや、今まで、電話に気が付かなくて、会社からの。すぐ戻るようにと」
「私にも電話があって、会社から。お父さんはどこにいるのかって。さなえに送金したとかって」
「さなえに送金。何のことだ」
「そう言ってました。課長さんが。どういうことですかって聞いたのですが。ともかくお父さんが見つかったらすぐ会社に電話させるようにって。すごい剣幕で電話をお切りになって」
「私にもよく分からないんだ。ともかく会社に戻るよ」
さなえに送金、何のことだろう。まさか、さなえにも迷惑をかけたのか。ようやく、元気になってきたさなえに。高行はよろよろと新大橋を渡りながら途中で躓いて転び、そこに座り込んでしまった。もうだめだ。きっと大きなへまをしたんだ。ここで川に飛び込んで死んでしまいたい。
その1時間程前、津田の部屋は、津田、西塔さん、子供たち3人の休憩時間。津田の部屋のインタホンが鳴る。モニターの近くにいた百合が、モニターを見て「あっ、さなえさんだ」と言って1階の扉を開ける。
「こら、私の家だぞ。勝手に開けるな」と津田が言うが、百合は無視して玄関に走る。
玄関ドアを開け、さなえが来るのを待っている。
「さなえさん、ここだよ」そう言ってさなえを中に引っ張り込む。
滝本さなえは「お邪魔してよろしいでしょうか」と言い、部屋に入る。
「突然申し訳ありません。津田さんにお世話になったお礼と思いまして」
そう言って津田を見る。
「ええ、まあ、どうぞ」津田はあいまいに答える。
「ありがとうございます。山岡さんに御伺いしまして、百合ちゃん達が夏休みの間、津田さんの所でお勉強されていると聞きまして。お礼のつもりで、これを差し入れに」
そう言って、ケーキの箱をテーブルに置く。
子供たちがケーキの箱を開け「わー、ケーキだ、ケーキだ」と騒ぎ出す。
津田は、「静かにしろ」と子供たちに言い、滝本さなえに「有難うございます。えっと、百合はごぞんじですね。その他は」と聞く。滝本さなえの「いえ」と首を横に振るのを見て順に紹介する。
「こっちの坊主頭が、野川和夫。野川さんの息子です。そして、こっちが、西塔かすみ。二人とも百合と同学年です。こちらは西塔さん。かすみのお父さんで、百合にプログラムを教えてもらってます。そしてこちらは、滝本さなえさん」
滝本さなえは、かすみを見て、思わず「かわいい」と声を出す。
子供たちは、「ケーキの飲み物買ってくる」と言って、部屋の鍵と津田のクレジットカードを持って出て行く。夏休みが始まってしばらくした頃から、鍵とクレジットカードは子供たちが使えるように棚に置いてある。
西塔さんが、滝本さなえに「西の塔と書いて、西塔と言います。ちょっと変わった名字ですが」と挨拶する。
「もしかして、江東総合病院の看護師の西塔さんと御親戚とか」
「ええ、妻です」
「やっぱり。以前、母がお世話になりまして。すごくきれいな方で。だから、お嬢さんもあんなに」
「ええ、まあ、母親に似て良かったです」
そう言う西塔さんも十分男前だと思いながら津田が聞く。
「どこで奥さんと知り合われたのですか」
「私が、以前けがで入院している時に」
「津田さんも探偵してないで、入院すれば誰かとそうなれるかも」
滝本さなえが津田に言う。
「あなたね。お礼に来たのでしょ」
「ごめんなさい。津田さんを見ているとつい」
「なにがついですか」
「津田さんは探偵もされているのですか。その関係でお二人はお知り合いになられたのですか」
西塔さんが二人に聞く。
「ええ、津田さんとは、その関係から始まったのですが、その後で私が振られたんです」
「いい加減にしてください」
そう言っているところに子供たち帰ってくる。
「それじゃ私はこれで」と滝本さなえが帰りかける。
百合が滝本さなえの手を掴んで「えー、さなえさんの分も買ってきたよ。ケーキもほら6個あるし。一緒に食べようよう。ねえ、先生」
「うん、まあ、そうだな」
「それじゃ、皆さんの勉強が始まるまで」と言って滝本さなえは椅子に戻る。
子供たちが、買ってきた紙コップ6個を並べ、紅茶のペットボトル6個を横に置く。百合が和夫とこのようなことを楽しそうにしている。これもかすみの効果なのだろう。
6人でケーキと紅茶を取る。百合とかすみは「半分こしよ」とケーキを分けたりしている。このケーキはどこのお店かとか、津田と西塔さんがケーキは久し振りですねと話したりしている時、滝本さなえのスマホが鳴る。
「ちょっとすみません」そう言って滝本さなえは椅子から立ちみんなから離れスマホを耳に当てる。
「はい、お母さん。今、そう、津田さんの所。えっ、お父さん、ないわよ。えっ、銀行。なにそれ。ちょっと待って、直ぐ見るから」そう言ってスマホを何やら操作する。
「えっ、なに、これ」そう言うと、またスマホを耳に当てる。
「なにこれ、全然分からない。そう、変、変になってる。どうしよう、どうしたらいいの。お父さん、どこにいるの。うん、うん、分かった。私も探してみる」そう言って、スマホを持ったまま呆然としている。そして、そのまま床に座り込む。
津田が駆け寄る。
「どうかしたの」
「父が、お父さんが、銀行のお金を盗んだって。それを私に。どうしたらいいの」
そう言って、滝本さなえがスマホの銀行通帳を津田に見せる。
「えっ、これは、ええっと、50億円振り込まれてる。そして、すぐ、どこかに全額振り込んでる。なんだこれ」
それを聞いた、西塔さんや子供たちも駆け寄ってくる。
「ちょっと、見せて下さい」
西塔さんがそう言ってスマホの画面を見る。
「最初の振り込みは、『タキモトタカユキ』から、えっと50億円ですね。お父さんですか」
「はい」滝本さなえが小声で答える。
「お父さんは、50億円の預金をお持ちですか」
「そんな、そんなこと、絶対ありません」
滝本さなえの言葉に西塔さんが頷きながら続ける。
「そうでしょうね。そして次が、『XXショウカイ XYギンコウホンコン』へ50億円。『XXショウカイ』はご存知ですか」
「いいえ、知りません」
「すべて、変ですね。50億円もの金額を簡単に即時に送金することは普通出来ません。それに、盗んだお金をこんなに分かり易く家族に送りますか。もし、盗んだとしてもですよ。そして、滝本さんは、それを全額、知らないところに送ってる。滝本さんは、ずっとここにいましたよね。間違いありません。これはハッキングです」
「ハッキング」西塔さん以外の皆が声を合わせる。
西塔さんが、みんなに向かって話す。
「ええ、滝本さんのお父さんの口座のある帝和銀行、滝本さんの口座のある友井銀行、そして、このXY銀行、全てにハッキングして、これを行ったのでしょう」
「そんなこと出来るのですか」津田が聞く。
「可能です。簡単ではありませんが」
そう言って、西塔は少し考える。
「思い当たることがあります。2カ月くらい前、変なメールがありました。知らないIT会社から仕事の依頼っぽいもので、その内容が何か怪しい、ハッキング依頼じゃないかと思えるような内容です。調べてみるとそんな会社は存在しませんでした。これは私が以前、ハッキングに関する勉強会でスピーカーをしたのを調べたのだと思います」
西塔さんは紙コップから紅茶を一口飲んで、話を続ける。
「多分、そういったハッキングに関連した人達に同じようなメールが送られているのでしょう。普通はこんなメールは無視します。でも、そんな話に乗り、これだけのハッキングを行える人間が一人います。近川です。いやな奴です。確かに能力はあるのですが、傲慢で、自分の能力を鼻にかけ、回りを見下す。一流大学を出て大手IT企業に就職したらしいのですが、待遇への不満や回りとの軋轢とかで、転職を繰り返し、結局どこの会社も相手にされなくなりました。今は、フリーのプログラマーです。怪しげな、というか、違法のハッキングを請け負っているらしいのですが、生活も派手なので、金に困っているとの噂です。彼ならやるでしょう」
「違法のハッキングなんて仕事があるのですか」
津田がそっと聞く。
「ええ、個人や、企業のパソコンをハッキングしてメールや資料を見るとかですね。ストーカーとか、浮気調査とか、産業スパイとかですね」
「その人が、どうして父や私にこんなことをしたのでしょうか」
滝本さなえが、西塔さんに詰め寄る。
「私に聞かれても。ただ、彼は指示されただけでしょう。指示したものの狙いは、お父さんや滝本さんに罪をなすりつけるためでしょう。思い当たることはありませんか。誰かに恨まれているとか」
滝本さなえが思わず津田を見る。
「滝本さんがある事件に巻き込まれたことがあります。それで、滝本さんや御両親を陥れたいと考える人間がいると思われます。詳しくは言えませんが」
津田が、滝本さなえに頷きながらぼそっと言う。そして続ける。
「何とかしないと」
「私が何とかする。西塔のおじさんどうすればいい」百合が叫ぶ。
「百合さんなら出来るかもしれない。でも、データが無さすぎる。近川を見つければ何とかなるかもしれない。ええっと、確かあいつがフリーになってから名刺をもらったな。どこに置いたかな。確か机の引き出しに」
西塔さんの言葉に、かすみが「私取ってくる」と言って玄関ドアに向かう。西塔さんが、かすみの背中に「確か机の一番上の引き出しだよ。わかるか」「分からなかったら電話する」と言って飛び出す。和夫が「僕も行く」と言ってかすみの後を追う。
10分ほど過ぎた頃、西塔さんのスマホにかすみから連絡が入る。
「うん、そう、それだ。すぐに持ってきて」
かすみと和夫が新大橋そばのマンションから近川の名刺を持って飛び出してくる。その時、かすみが何かに気付いたように立ち止まる。
「どうしたの、かすみちゃん、早く戻ろう」
「和夫君、この名刺持って先に戻ってて」
かすみはそう言って、新大橋に向かって歩き出す。
かすみのただならぬ様子に、和夫は「分かった、先に戻るね」といって走り出す。
かすみは新大橋の真ん中あたりで座り込んでいる一人の男に近づき声をかける。
「おじさん、どうしたの、だいじょうぶ」
滝本高行は新大橋の上で座り込んで動けなかった。隅田川に飛び込んで死んでしまおうと思うのだが体が動かない。時々橋を通る人が、ちらと見て気味悪そうに離れていく。何分、いや何十分そうしていただろう。
「おじさんどうしたの、だいじょうぶ」という声がして、見上げると、女の子がこちらを見て立っている。
なんてかわいい女の子だ。女の子の背中から差す夕陽に包まれ、まるで光の中に浮いているようだ。
「おじさん、タキモトさなえさんのおとうさんでしょ。みんなまってるよ。いっしょにいきましょ」
さなえ、さなえの知り合いなのか。いや、きっとこの子は天使なのだ。天使が助けに来てくれたのだ。
滝本高行は、天使のような女の子が差し出す手につかまりふらふらと歩き出す。
和夫が息を切らして部屋に飛び込んでくる。
「西塔のおじさん。これ」と言って名刺入れを渡す。
「そうそう、これだ。あれ、かすみは」との西塔さんの問いかけに
「直ぐ戻ってくると思う。多分」とあいまいに答える。
「まあいい。えっと、ともかく電話してみます。あれ、住所が『東京都中央区日本橋人形町5丁目1の2 田中マンション301』ってこの近くですか」と津田に聞く。
「ちょっと見せて下さい。えっ、このマンションですよ。ここは303。二つ隣です。そんな人いたのか」
津田の言葉に、西塔さんは「それじゃ、まず電話して、家にいたならここに連れてきます」と言ってスマホから電話する。
「もしもし。あっ、近川くん、西塔です。久しぶりです。今どこですか。家、人形町5丁目の田中マンションですか。ちょっと聞きたいことがあるのですぐ行きます」 そう言って電話を切り、「行ってきます」と部屋を出る。
しばらくして、廊下で争うような声がして、部屋のドアが開く。
「ともかく入りなさい。話を聞きたいから」
西塔さんがそう言いながら一人の男の腕をつかんで連れて来て、椅子に座らせる。
「なんですか、乱暴な」
そう言いながら、30歳半位の瘦せ型で長髪、眼鏡をかけ、不精髭が残る部屋着の男が横向きに椅子に座る。
テーブルを挟んで前に西塔さんが立つ。
「近川君、今から30分位前、何をしていた」
「どうしてそんなことを言わなきゃいけないんですか」
西塔さんは滝本さなえを横に呼ぶ。
「近川君、この人が誰か分かるか」
「知りませんよ」
「滝本さなえさんだ。タキモトサナエ、この名前に思い当たらないか」
「タキモトサナエ、えっ、タキモトサナエ」
近川は驚いたように滝本さなえを見る。
「そうだ。この人が滝本さなえさん、そしてさなえさんのお父さんが滝本高行さんだ。君が犯罪者にした人たちだ」
西塔さんの言葉に近川は再び横を向き「僕は何も知りませんよ」と呟くように言ってそのまま押し黙る。
その時、インタホンが鳴り、「かすみです」と声がする。和夫が「かすみちゃんだ」と言ってエントランスの扉を開ける。しばらくして、部屋のドアが開き、かすみが初老の男を連れて入ってくる。
その男を見て、滝本さなえが思わず叫ぶ。
「お父さん。どうして、どこにいたの」
「さなえ、ごめんよ、お父さん、またへまをしてしまって、お前にも迷惑かけてしまって。もう、死んでしまおうと思ってるところに、この子が、この天使のような子が助けてくれて、ここに連れてきてくれたんだ。お前に会えてよかった。でもどうすればいいのか」
滝本高行はさなえの手を握り涙を流し言葉に詰まりながら話す。
「違うのお父さん。お父さんのせいじゃないの。ハッキングなんだって。誰かがお父さんや私、私たちの家族を悪者にするためにしたらしいの」
西塔さんが、再び近川の前に立つ。
「近川君、誰に頼まれたんだ。全部話しなさい」
近川は横を向いたまま黙っている。
かすみがそっと、近川の前に椅子に座る。そして、近川をじっと見る。やがて、かすみの目から涙がこぼれ出す。横目でかすみを見ていた近川がその涙に驚いたようにかすみを見る。かすみが話し出す。
「おじさんがくやしかったの、かすみ分かるの。でもね、だめだよ、くやしいからって、だめなんだよ。だって、そこにいる滝本さん、死のうとしてたんだよ。おじさんは、そんなつもりなかったのよね。だけど、かすみ、いやだ。おじさんがそんなことするのいやだ」
かすみの言葉と涙につられるように近川の目にも涙がこぼれ出す。
「知らなかったんだ。こんなことになるなんて。僕がこんなこと簡単にできることを見せたかったんだけなんだ。皆、僕がすごいのを無視して、馬鹿にして。だから、『出来るか』ってメールに『当然できるさ』って。それでいろいろ調べて準備して待ってたら、今日、昼頃連絡が来て15時45分に実行しろと。タキモトタカユキもタキモトサナエもXⅩショウカイも実在するなんて思わなかった。訓練か何かと思ってたんだ。本当なんだ。こんなことになるなんて知らなかったんだ」そう言って泣き崩れる。
「誰に頼まれたのですか」
津田の言葉に「分かりません。メールで指示が来るので。僕の銀行口座を連絡するとそこに振り込むって」
「やっぱり金か」西塔さんの言葉を津田が遮り近川に聞く。
「ともかくなんとかしないと。元に戻せないですか」
「すぐにはとても」
その近川の言葉に百合が叫ぶ。
「百合がやる。近川さんアドレス教えて。先生のパソコンも使うよ」
そう言って、百合が、西塔さんの2台のノートパソコンと津田のパソコンのキーを猛烈な勢いでたたき出す。
近川は椅子に座ったままそれを見て「すごい」と呟き、立ち上がり百合のそばへ歩き出す。そして、百合と話し始める。その間も百合の手はキーをたたき続けている。
「今何をしているのですか」津田が小声で西塔さんに聞く。
「あちこちのサーバーを経由して3つの銀行に忍び込もうとしています。すごいですね。さすが百合さんだ」
しばらくして、百合の手が止まる。
「だめだ、これじゃだめだ。どうしよう」
そう言って、近川、西塔さんの顔を見る。だが、二人とも腕組をしたまま「うーん」と唸るだけ。
かすみが、そっと百合に近づき後ろから百合を抱きしめて囁く。
「大丈夫、百合ちゃんならきっと出来るから」
百合は目をつぶりすうっと息を吐く。やがて眼を開け「そっか」と呟きかすみを見る。
「かすみちゃん、ありがとう。もう大丈夫」
そう言うと、ものすごい勢いでキーボードをたたき出す。
西塔さんが3つのPCの画面を見て「なるほど、そうすればいいのか」と叫ぶ。「どうしたのですか」と津田が問いかける。
「最初、百合さんは、近川君にセキュリティホールの場所を聞き、お金を順に元に戻そうとしたのです。でもそれじゃ、また記録が残ってしまう。だから、直接データを書き換えて、今回ハッキングの前の状態に戻し、お金が移動した記録も消す、それを行っています。その時に、ハッキングしているのが見つからないように、銀行システムにシステム障害を起こしながら」
百合はすごい速さで3台のPCのキーボードをたたき続けている。
「今、XY銀行が終わりました。銀行システムは障害中ですが」
西塔さんが小声で皆に向かって言う。
しばらくして「友井銀行も終わったようです」と続く。
あわてて、滝本さなえが、スマホをいじる。
「今はまだシステム障害中だから」と西塔さん。
「ええ、そうみたい」と滝本さなえ。
百合が近川に「最初のお金はどこから滝本のおじさんの口座に入ったの」と聞いている。近川が「帝和銀行の・・の当座預金、そうここ」と答えている。
やがて「帝和銀行も終わったようです。今、ネット上のハッキングの証拠を消しています」と西塔さんの小声が続く。
しばらくして百合の手が止まる。そして近川に向かって尋ねる。
「終わった。近川さん、これでなしだよね」
「うん、そう。すごい、すごいね」近川の声が上ずっている。
西塔さんが近川に諭すよう言う。
「近川君、君は自分が認められないと言っていたけれど、百合さんはハッキングの勉強を始めてまだ3週間にもならないんだよ」
「えっ、そうなんですか。それでこんなすごいレベルに。僕なんか全くかなわない。うぬぼれていた自分が恥ずかしいです。でも、どうしよう、僕はとんでもないことをしてしまった」
頭を抱えている近川に津田が聞く。
「もう、お金を受け取ってしまっているのですか」
「いえ、まだ振り込まれていないと思います。いや、本当に支払われるかどうかも分かりません。でも、そこにいる二人にとんでもない迷惑をかけてしまった」
「あのう」と言って滝本さなえが近川に近づく。
「今、スマホで私の口座を見たのですが、振り込まれたのも送金したのもきれいになくなっています。父のは分かりませんが」
そう話している時、滝本高行のスマホが鳴る。
「はい、滝本です。申し訳ありません、すぐに戻ります。はい、申し訳ありません、すぐに。えっ、戻らなくてもいい。システムのエラー。そうですか。いえ、こちらこそ申し訳ありません。それじゃ、このまま帰宅しても。はい。わかりました。はい、よろしくお願い致します」
滝本高行はスマホの電話を切り、みんなに向かって頭を下げる。
「今、会社からです。私への疑いは無くなりました。ありがとうございます。皆さんのおかげです。ありがとうございます」そう言って涙ぐむ。
滝本さなえが百合に「百合ちゃん、ありがとう、本当にありがとう」というと、百合は「えへへ」と言いながら津田を見て「もしかしたら、ごめんね先生」と小声でつぶやく。
「ん、なんだ。今なんか言ったか」
津田が百合に問いかける。
「なんていうかさ、結局全部、先生のWi-Fi使ったの。つながりそうな他も考えたんだけどさ、パスワードに時間かかりそうだし、ま、いいかなって。いくつかサーバ通したから大丈夫と思うけど、本気で調べられたらここがばれちゃうかも。でも、ほら、先生一人だし、百合や、かすみちゃんみたいに家族もいないから、ま、いいよね」
「ちょっと待て、ばれたらどうなるんだ」
「今回は、不正アクセス、電子計算機使用詐欺、電子計算機損壊等業務妨害などの罪で、懲役と罰金ですね。近川君は前の2つかな」
西塔さんが口をはさむ。
「ちょっと待て、私は何もしていないぞ。捕まるのは百合だろ」
「ひどいな、先生は。生徒に罪を押し付けるんだ。百合、無理やり先生にやらされたって言うもん。いいじゃない、先生捕まったって。一人なんだから」
「うるさい、一人一人って何度も言うな」
「百合ちゃん、それじゃ、先生、かわいそうだよ。かすみがね、大人になったら、先生と結婚してあげる」
かすみが、言い争っている二人に言う。
「かすみちゃんさ、かすみちゃんが大人になった時、先生、完全にじじいだよ」
百合に言葉に、かすみが「そっか、じゃ、止める」とあっさり答える。
「なんだ、お前らは。お前らだって、年取れば、ババアだろ」
津田の言葉に、百合とかすみが「あ、セクハラだ、セクハラだ」と騒ぎ出す。
3人を見かねたのか、西塔さんが笑いながら間に入る。
「かすみ、止めなさい。津田さんも子供相手に止めましょう。それに、多分、大丈夫ですよ。どの銀行も簡単にハッキングされたなんて公表できませんから」
その時、ドアホンが鳴る。和夫がその前に行き、「あっ、お父さんと百合のママだ」と言って1階エントランスのドアを開ける。
山岡さんが「下で一緒になりましたの」と言いながら、野川さんと一緒に部屋に入ってくる。そして、部屋に大勢いるのを見て「まあ、大勢の人」と驚いている。
百合が山岡さんに駆け寄り「百合がね、すごいことしたんだよ」と言いながら、今日のことを話し出す。
山岡さんは、百合の話に相槌を打ちながら、野川さんと共に滝本高行と挨拶したり、西塔さんが野川さんに近川のハッキングを説明したりするのを聞いたりしている。
百合は今日の出来事を話し終え、最後に付け加える。
「それでね、先生がかすみちゃんに振られたの」
「まあ、かすみちゃんにも振られちゃったの」
山岡さんの言葉に思わず津田が言葉をはさむ。
「『にも』ってなんですか『にも』って」
「あら、ごめんなさい。つい」
津田は面白くない。滝本さなえも山岡さんも、津田をどこか見下している。きっと、あのせいだろう。
誰だって、いきなりよく知らない女性に、それも裸の女性に、抱いてくれって言われて、はい、わかりましたってならないだろ。普通の男は。それをなんだ。
それにだ、この頃、山岡さんと野川さんが、下で一緒になったと二人で来ることが多い。それも、面白くない。
百合のしたことで、自分が警察に捕まるかもしれない。野川さんが山岡さんと一緒になるのに邪魔な自分を何とかするかもしれない。なんといっても警察官だから。
津田は、西塔さんと野川さんが話しているところに割り込む。
「これは、やっぱり犯罪として警察が捜査するのじゃないですか」
「銀行が訴えるかな。ハッキングされたことに気付いているかもわからないですね。近川君も百合さんもセキュリティホールからの侵入ですし、その痕跡も消していますから」
西塔さんの言葉に野川さんも続ける。
「警察が独自に動くことはないでしょう。まあ、本社、つまり本庁の担当ですから想像ですが。とはいえ、津田さん、一度、警察で取り調べを受けるのはどうですか、探偵として箔がつきますよ」
「冗談じゃない。やめてください。私はもう探偵なんかしません」
「それは残念ですね。津田さん、探偵向いてますよ。探偵は刑事と違い、事件の解決より、相談しやすさや、なんというか、親しみやすさが大事だそうですよ」
「だから、探偵を続けるなんて言ってないでしょ」
津田と野川さんの話を遮るように、滝本さなえが皆にスマホを見せる。
「友井銀行から『お知らせ』が来ました。『システム障害により一時的に一部のサービスを利用できない状態となっておりました。現在は正常に復旧しております。ご迷惑をおかけしました』ですって」
皆が一斉にスマホのニュースを見る。和夫が声を出して読む。
「『帝和銀行と友井銀行は、本日17時頃、システム障害により一部のサービスを利用できない状態になっていたと発表。現在は復旧している。両行のシステム障害に関連はなく、また、外部からの攻撃によるものでないとのこと』だって」
「これで大丈夫です。津田さんよかったですね」と西塔さん。
「だから、私じゃないって。でもXY銀行は大丈夫ですか」と津田。
野川さんが口をはさむ。
「あそこは国際的に怪しい銀行ですから、損害がなければ、自分から何も言わんでしょう。それに海外の銀行は小さな障害は公表しませんよ」
皆が静かになったところで西塔さんが近川に向かって話し出す。
「近川君、君、これからどうする。百合さんが君のしたことをすべて消したからよかったものの、そうでなければ、滝本さん一家は大変なことになっていた」
「申し訳ありません。でも、自首すると僕だけでは済まなくなるし、それに、お金も振り込まれないでしょうから、もう一度勉強し直してまじめに働いてみようと思います。滝本さんや皆さんが許してくれるのならですが」
近川の言葉に津田が心配そうに
「それより、近川さんも、今回計画した奴らに狙われることになりませんか。滝本さんたちと同じように」
「今回計画したって、津田さんの言う、X国の人達ことですか。それならもう大丈夫かも。ほら」と言って、山岡さんがスマホを見せる。
「えっ、X国で軍事クーデター、大統領他政府要人の多くが死亡の模様、独裁政権崩壊、軍は民主化を表明ですって。これは」
津田の問いに、山岡さんは
「今、入ったばかりに速報ニュースみたいですよ」と笑顔で答える
「これ、大丈夫なのかな、あの」
津田が小声でつぶやく。
山岡さんはにっこり笑って、小声で返す。
「たぶん、大丈夫でしょ、あの人たちを次の政府も使いたいでしょうから」
知ってたんだ、山岡さんは、東郷たちのことを。津田は声を失う。
そうか、百合が連れ去られた時、和夫の『外』という言葉を聞いて、東郷が百合を連れて行こうとしているのに気づき、あんなに必死になったのか。
「あのう、それって、もう私たちは狙われないってことでしょうか」
滝本さなえが、山岡さんに問いかける。
「ええ、たぶん。津田さんの考えが正しければ。探偵さんとしてのね」
「そこは、ちょっと心配だけど。でも安心しました。お父さんよかったね。近川さんも。私たちもう何も思っていませんから」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。許していただいて本当にありがとうございます」
近川が滝本高行とさなえに頭を下げる。
「いやもう結構です。長い人生いろいろあります。一時とはいえ、我が家も50億円の大金持ちになりました。老後の楽しみとしてその使い道を考えますよ。考えるだけですが」
滝本高行はそういって、あははと笑う。みんなもつられて笑いだす。
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