桜霞に、貴方が笑っていられたら。

咲花

MISAKI

 初めて見た時から、目で追わずにはいられなかった。

 切れ長の目にすっと通った鼻筋。どこか愛嬌のある口元。くしゃっとした笑顔がかわいくて、かと思えば、少しツンとした、気高い表情が垣間見えたりする。

 その視線が私を捉えたとき、あっ――、と小さな声が漏れた。貴公子のような顔立ちとはどこか不釣り合いな、丸っこくて甘えてくるような瞳とぶつかった。

 春薫る、中学の入学式。式が始まる直前、トイレを済ませ慌てて廊下に出た私は、一人の男子とぶつかりそうになった。

 「――ごめんなさい!」

 すんでのところで回避して相手の方を見ると、品の良いブラウンの瞳に吸い込まれそうになった。

 「…新入生ですよね!何組?」

 「一組」

 「私も一組!何番?」

 「十九番」

 「わぁ、すごい!私二十番!」

 「前後じゃん。よろしくっす」

 そう言って彼は少しはにかんだ。

 私の胸が、甘い音を立てて高鳴る。

 ふと、彼の手にあるハンカチに目が留まった。薄い綺麗な青色で、花の刺繍がしてあった。

 「それ、綺麗だね」

 会話を続けたくて思わず言ってしまってから、男子はそういうこと言われたくないかなと焦った。けど、彼は予想外に顔をほころばせて「ありがと」と言った。

 「その刺繍が素敵!」

 「これ、はすの花。俺の名前、はすって書いてれんなんだ」

 照れ臭そうに話す彼の表情は、一見静かで孤高な印象とはアンバランスで、なんとなく、猫みたいだなと思った。

 物心ついた時から、花は桜が一番好きだった。けれどこの日、その座は蓮に取って代わられてしまった。

 どんなに絶対的だと信じていたものでも、貴方の手にかかれば、いとも容易く世界が塗り替えられていたあの頃。泥の中で凛然とした輝きを放つ、蓮の花のように華やかな。優しく透き通る桃花色の、蓮の花びらのように柔らかな。

 これは、そんな貴方と出逢って恋をした、私の春風のような物語。




 私は中学に同じ小学校からの友人がいなかった。が、すぐに莉子という親友ができた。明るく人懐っこい人気者。小柄で、丸顔にくりっとした目、長い睫毛。つやつやした黒髪に大きな白いリボン。思わず抱きしめたくなってしまいそうな、小動物のような女の子。

 親の仕事の都合で、幼い頃は海外を転々としていたという莉子の話は、どれもとても新鮮で面白かった。外国に興味があった私は、英語が得意な彼女に憧れる部分もあった。

 莉子と、蓮と、蓮とはご近所さんで幼馴染の瞬太郎と、私は、すぐに仲良し四人組になった。朝挨拶を交わして、休み時間にお喋りをして、放課後にコンビニに寄ってアイスを食べて。何をするにも、気付けばほとんどこの四人でずっと一緒にいた。そして、きっと莉子も蓮のことを好きだろうと気付くのに、そう長くはかからなかった。

 夏休み、莉子とふたりでプールへ遊びに行った時。

 「ねぇねぇ、莉子って蓮のこと好き…だよね?」

 「え?いや、ないない、私好きな人いないよ」

 浮き輪にもたれかかって水上を漂う私たちは、目を合わさないまま会話をする。

 莉子の長いポニーテールは、押しては引いていく波に合わせて、振り子のように規則正しく揺れていた。私の眼前で 、白い大きなリボンと一緒になって。

 「嘘ついてるでしょ!蓮と喋ってる時の莉子、めっちゃ笑顔だし」

 「ちーがーうって。ほんとに、私恋愛とか興味ない。したくないし」

 それ以上の追及を、拒絶しているような響きがあった。意地を張って認めようとしない莉子にうんざりした私は、その時彼女に差していた暗い影に、気付かなかったのだ。

 なんとなく嫌気が差したから、打ち明ける気だった私の恋心も、言わずに仕舞っておくことにした。莉子は私のことを「親友」と言うくせに、時々どきっとするほど冷めた眼をして、深く心を閉ざす。

 一ヶ月ほど前の、授業参観の時のことはよく覚えている。初めて見た莉子のお母さんは、彼女にそっくりな小柄で可愛らしい人だった。挨拶をした時、これまで嗅いだことのない、上品ないい匂いがした。私のお母さんは香水なんてほとんど使わないから、鼻いっぱいに吸ったその空気の芳しさが、とても印象的だった。

 「莉子、お母さんとそっくりだね!めっちゃ美人~」

 授業が終わってから莉子にそう話しかけたのだが、 返って来たのは氷のような視線だった。

 「いや、似てないから」

 そう言って莉子は口を引き結んだ。お母さんの話題は、それ以上続けられなかった。

 ――口では否定しても、蓮を見つめるときにできる莉子のくしゃっとした笑くぼは、その恋心を何よりも雄弁に語っていた。蓮が莉子を見つめる視線にも、私に注がれるものとは別の何かが、含まれているような気がした。




 あっという間に中学最初の一年が終わり、やって来た春休み。

 家でぼーっとテレビを眺めていたら、香霞川こうかがわの桜並木が見頃を迎えるというニュースが、目に飛び込んできた。

 ――これ、行きたいな。蓮と一緒に。

 逸る気持ちが、無意識にスマホを握らせた。

 「今度お花見行かない?香霞川沿いの桜がきれいみたいだよ」

 少し震える手でメッセージを入力する。

 「四人で?」

 「ううん、ふたりで」

 「いいよ」

 その三文字を見たときのドキドキは、蜂蜜よりも甘かった。

 約束の日、私は朝からずっとそわそわしていて、とにかく落ち着かなかった。天気は快晴で、この春一番のお花見日和だった。土手の土くさい香りが風に乗って、私たちに届く。その青臭さが、青春真っ只中の私たちに、あまりにもぴったりだった。

 普段はどちらかと言うと無口な蓮が、よく喋った。家族の話、小学生の頃の話、今まで旅行で行った場所の話。

 「おばあちゃん家がすごい田舎にあってさ、秋になると毎年、収穫のために親戚がみーんな集まるんだ」

 「すご、そんなに大掛かりなの?」

 「うん、ど田舎で土地が安いから、畑がばかみたいに広い。都築家全員集合して、夜は毎晩宴会みたいになるよ」

 「めっちゃ楽しそう、私そういう機会無いから羨ましいな。従兄弟とかはいる?」

 「上に三人と下に五人いる。俺がちょうど真ん中くらいだから、みんなと話が合って楽しい。いっつも真夜中まで一緒にゲームしてる」

 その賑やかな様子が、ありありと目に浮かんできた。ああ、いつかその様子を、実際に見ることができたらな。私も一緒にゲームしてみたい。従兄弟にも会ってみたい。そんなことを、ぼんやりと考えた。

 隣を見れば、彼は長い腕を天に向かって真っ直ぐに伸ばして、気持ち良さそうに欠伸をしていた。

 この気持ち、今、君に伝えてもいいかな。

 「すき、蓮のこと。中学入った時から、ずっと好きでした。」

 そう言って、そっと蓮の方を向く。

 私たちが交わす視線の真ん中に、桜の花びらが一枚、柔らかに舞い降りた。

 蓮は目を少し見開いて、三秒ほど私を見つめた。どきまぎしながら見つめ返した。私は、そのブラウンの瞳が、どこか翳ったのを認めた。

 「……気持ちはめっちゃ嬉しい、ありがとう。…でもごめん、美咲とは友達でいたいと思ってる」

 「うん――わかった」

 蓮がいる方と逆向きに顔を反らし、斜め上四十五度くらいにこっそりと傾ければ、涙に歪んだ顔を見られずに済んだ。




 新学期が始まり、私は蓮や莉子とクラスが離れたのを理由に、別の友達と一緒にいるようになった。時々蓮を見かけると、やっぱりまだ辛くて、その痛みに耐えられそうになかったから。莉子は悪くなかったけど、どこか壁を作り続ける彼女の真意を考えれば考えるほど、疲れが澱のように溜まっていったから。

 そんなある日、瞬太郎に、話がある、放課後教室に残ってほしいと言われた。

 「瞬、改まってどうしたの?」

 「…蓮のことで。本人には絶対内緒だけど、美咲に言っておきたいことがあって」

 お調子者の瞬が、いつになく強張った面持ちで私を出迎える。

 蓮の名前を聞いて、鼓動がドクドクと鳴り出すのを感じた。

 「俺、蓮は莉子のことが好きだと思うんだ。」

 瞬のその言葉は、聞き取ることはできても、お腹のあたりまで言葉が降りてくるまでに、すごく時間がかかった。続きが気になるような、でも聞きたくないような気持で、私はこの居心地の悪さをやり過ごさなければならなかった。

 「――あいつさ、妹がいたんだけど、小さい頃に病気で亡くなったんだ…それで、莉子は、その妹にびっくりするくらい似てるんだ。俺、初めて莉子を見たとき、まじで蓮の妹の生まれ変わりかと思ったもん…」

 言葉を詰まらせながらも、瞬は一気に喋った。

 「でも、どうして急にそんな話…」

 私は呟くような声で問うた。

 「蓮から直接聞いたわけじゃないんだ。でも俺は幼馴染だから、あいつの目を見てたらわかる。それでさ、あの………」

 「……なに?」

 「……美咲、蓮のこと好きだよね?」

 「え…」

 「……蓮はやめといた方がいいんじゃない?」

 そう言って遠くを見つめた瞬の表情は、少し強引とも取れる言葉とは裏腹に、悲しく歪んでいて。

 彼もきっと、誰かに叶わぬ恋をしているんだろうと思わせた。




 私はどうしたらいい?

 相手が病気で亡くなった妹じゃ、嫉妬もできないのに?

 瞬の話を聞いてからというもの、私の頭にはぐるぐると、そればかりが渦巻いていた。

 蓮は過去に囚われてるんじゃないの?

 蓮が莉子を想う気持ちは本当に恋愛感情なの?

 瞬が言う「好き」って、本当に好きなの?

 莉子は言っていた、「恋愛したくない」と。でもきっと莉子も蓮が好き。つまりふたりは「両想い」。

 ――私はどうしたい?

 ――やっぱり、蓮と一緒にいたい。莉子の、良い友達でありたい。あの四人組が好き。大好き。

 振られたけど、まだ蓮が好き。許されるなら、友達としてでも、蓮との思い出を重ねたい。




 結局、皮肉にも瞬の忠告は、私を四人組に呼び戻した。

 咎められるかと思っていたけど、彼は私がこうすることを知っていたかのようなしたり顔で、特に何も言ってこなかった。

 そう簡単に諦められるものではないと、分かっていて言ったのだろうか。

 四人で今まで通り――とはやっぱりいかなくて、私と蓮も、私と莉子も、最初はぎこちなさがあった。でもとりなし上手の瞬のおかげか、気付けば表面上は自然に振る舞えるようになってきた。

 表面下ではいつも、私は陸上で呼吸ができない魚のようだったけど。

 好きな人と一緒にいるために、私が選んだことだから。




 そんなある日のことだった。莉子と同じ委員会に入っている私は、月に一度の委員会活動の後、学校の最寄り駅までふたり肩を並べて帰っていた。長時間の作業に疲れ果てた私たちは、あまり言葉を交わさなかったが、不意に莉子が問いかけてきた。

 「ねぇ美咲の家ってさ、中村通りの近くだったよね?」

 「うん、いつもそこ通って帰るよ」

 「私昨日ニュースで見たんだけど、最近たまに盗撮犯が出てるらしいよ。気を付けて!」

 「え、ほんとに!?初めて聞いた」

 「ネットニュースだったからな。美咲あんまりスマホ見ないもんね。そこ通らないルートとか無いの?」

 「うーん、あるにはあるけど、ラブホ街だからあんまり通りたくないな…まぁでも仕方ないよね」

 「うん、とりあえず今日はそっちにしとこ」

 莉子は私と別れるまで、やたらと念を押していた。

 素直に提案に従った私は、その三十分後、足早に駅近くのホテル街を突き進んでいた。けれど歩き始めて早々、後悔していた。おぼつかない足取りで、ぴったりと身体を密着させて歩く男女たちと、ぶつからないようにかわすのはこれで何度目だろう。盗撮犯なら、こっちの通りの方が出そうなものだ。

 噎せ返るような甘い匂いが充満するその空間の中で、ふと、場違いな清らかで上品な香りが鼻腔に流れ込んできた。――この香りは…。驚いて振り返った。小柄で艶やかな黒髪、長い睫毛が際立つ横顔。見間違えであってほしくて、目を凝らしたけど――あれは、莉子のお母さんだ。その隣で歩いている金髪の男は、写真で見たことのある莉子のお父さんでないことは明らかだった。

 見てしまった光景を振り払うようにぶんぶんと頭を振って、私はまた足早に歩き始めた。しかし、いくら取り払おうとしても、莉子のお母さんが着ていた鈴蘭柄の黒いワンピースが、頭から離れない。可憐な鈴蘭が、ひどく毒々しく見えた。

 家に帰って、中村通りの盗撮について調べたけど、莉子が話していたようなニュースは出てこなかった。家族に尋ねても、何も聞いていないという答えが返って来た。




 表面上は上手くいっていた私たち四人の関係がはっきりと変化したのは、夏のある日の、莉子の発言がきっかけだった。

 「…あのさ、私、みんなに言わなきゃいけないことがあるの」

 長い睫毛を伏せがちにして、莉子は少し口ごもった。

 「どうしたの、急に」

 「お父さんの転勤で、夏休み中に引っ越すことになっちゃったの」

 三人の間に言葉にならない衝撃が走る。

 「どこに?」

 蓮が静かに沈黙を破って問いかけた。

 「…アメリカ」




 莉子の出発の日。私はぼろぼろ泣いていて、瞬も半泣きだった。

 なぜか私に心を開いてくれない、私の好きな人の好きな人。

 そんな肩書を持つ莉子には、微妙な気持ちでいっぱいというのが率直な感情だった。

 でも、莉子のアメリカ行きを聞いた時、最初にやって来た感情はやはり、親友が遠くに行ってしまう寂しさ――だった。

 蓮は、夏風邪をこじらせたと言って見送りに来なかった。

 久し振りに会った莉子のお母さんは、見覚えのある鈴蘭のワンピースを着ていて――見間違えであったらという私の僅かな希望は打ち砕かれた。

 初めて会う莉子のお父さんは、商社勤めのビジネスマンだと聞いていたイメージの通り、ビシッと決まったスーツが印象的だった。でも、いつか写真で見た時よりも、穏やかで、どこか疲れている眼をしていると思った。

 飛行機に乗る前にトイレに行っておく、という莉子に、じゃあ私も、と言って、特に行きたい訳では無かったけどついて行った。手を洗った後莉子が鞄から取り出したハンカチは、薄い綺麗なピンク色で、花の刺繍がしてあった。

 「そのハンカチ、かわいい。でも珍しいね、莉子がリボン柄じゃないなんて」

 そう言いながら、莉子の頭に、いつもの白いリボンが無いことに気が付いた。

 「ほんと?――もらい物なんだけど。今日初めて使ったんだ」

 莉子は、くりっとした大きな目をすっと細めて、虚空を見つめるように笑った。そして、ごく小さな声で呟いた。

 「蓮に…告いたかったな」

 「え?」

 「ううん。何でもない」

 莉子は鏡の中の自分自身に目をやって、またちょっと切なそうに微笑むと、そのまま静かにトイレを出て行った。取り残された私は、しばらく頭の整理がつかなくて――取り敢えず自分もトイレから飛び出した。

 混乱する頭でひとつだけ理解していたことがある。それは、たった今、やっと莉子が少し心を開いてくれた気がする――ということだった。

 三十分後、大きな目から粒のような涙をいっぱい流しながら、莉子は搭乗ゲートの奥に消えていった。瞬と二人で、泣きながら見送りつつも――どこか晴れやかに見えるその背中が、忘れられなかった。




 アメリカに渡った莉子は、最初こそ大きすぎるハンバーガーや、大自然を写した写真を送ってくれていたけど、やがて、何も送られてこなくなった。こっちから連絡しても、返信が来るどころか、既読もつかなかった。

 もどかしくて、どうして、と何度も問いかけた。でも頭のどこかでは、その答えを知っているような気もしていた――やっぱり莉子は、私に心を許していなかった。むしろこれは自然なことなんだと、黒い靄のようなものが、私に繰り返し語りかけてくる。

 莉子は、「親友」の私に、彼女が作る壁を突き破ってくることを望んでいたのだろうか。あの委員会の日の帰り、莉子が「中村通りに出る」と言った盗撮犯の話は、ひょっとすると、お母さんの不倫現場を目撃させるための嘘だったのだろうか…?もし仮に、それが真実だとしたら――莉子はどんな思いを抱えてアメリカに飛び立ったんだろう。

 私の頭をもたげていることがもう一つあった。

 (蓮に…告いたかったな)

 トイレで聞いた莉子の言葉は、いくら洗っても取れないシミのように、私の心にこびりついていた。

 スマホを開いて、そっと写真のアプリをタップする。莉子から送られてきた数枚のアメリカの様子と、見送りの日に空港で撮った三人での自撮りが、目に飛び込んできた。何度も見たから、この写真の莉子の表情は脳裏に焼き付いている。そして何度見てもやはり、莉子はどこか吹っ切れたような、爽やかな泣き顔を浮かべているのだった。




 中高一貫校における高校生活の始まりというのは、なんだかすごくあっけない。

 変わったことと言えば、外部生が入ってきてクラスの数が増え、同学年が一つの階では収まらなくなり、瞬とは同じ階になったけど、蓮とは階が離れたことだ。

 莉子がいなくなってから、なんとなく蓮とは一緒にいづらくなった。気まずさは無くなったとはいえ、やっぱり私たちは、振られた側と振った側という関係から抜け出しきれない――そう感じた。中三でクラスが別々だったこともあり、これと言って関わる機会もなく、自然に、でも確実に、私たちの間には距離ができた。

 それでもなお、蓮と一緒にいたいという私の強い意志があれば、未だに蓮と瞬と三人でいたのだろうけど、そこまでの覚悟は持てなかった。莉子への罪悪感のようなものも、少しあった。

 高校に入って階が離れてからは、もはや姿を見かけることもなくなった。

 でも、きっとこれでいいんだ。そろそろ、この気持ちに区切りを付けなきゃいけないから。

 そうする、はずだった。タイミングというのは、つくづく意地の悪い悪魔のようだ。

 中三の夏休みにイングリッシュキャンプに参加したのをきっかけに、私はそれまで以上に英語に興味を持ち、英語部の新設に乗り出していた。

 私は英語を話している時の自分がとても好きだった。私というちっぽけな存在が、英語を通じて、世界中の人と繋がれることに感動を覚えた。

 その働きが認められ、学校が正式に「英語部」を作ることを決定したのは、高一の夏のことだった。まだ始まりに過ぎないとはいえ、自分の力で道を切り拓いたという確かな達成感と、これからへの期待に胸を膨らませながら、私は入部希望者ミーティングに向かった。蝉がうるさく鳴き始める、七月の放課後のことだった。

 そこで、思ってもみなかった人と再会したのだ。

 「蓮…英語部興味あるの?」

 戸惑いつつ、空いていた蓮の隣の席に腰掛ける。

 「うん。 …喋れるようになっておきたくて」

 そう答える蓮の表情が、どことなく硬いのが気になったけど、その時顧問の先生が教室に入ってきたから、訊くタイミングを失ってしまった。むろん、私は部長をやることになった。

 「それじゃ、部長は高橋で…副部長は?誰かやりたいやついるか?」

 視界の端で長い腕がそっと天井に向かって伸びて、私の口からは危うく声が漏れそうになった。

 「やりたいです」

 「他に立候補は無しだな。よし、じゃあ副部長は都築に決定~と。高橋のこと、しっかり支えてやれよ」

 「はい」

 その返事に、不覚にもどきりとしてしまった自分がいた。

 私は、口をあんぐり開けたままだったことに気付き、慌てて閉じた。

 そもそも、蓮が英語に興味があるなんて初耳だし、ましてや副部長なんて、絶対にやるキャラじゃないのに。私が知らなかっただけで、関わらなくなってから、何かのきっかけで好きになったのか。理系のイメージばかり持っていたから、本当に意外だった。

 ――ひょっとすると…莉子がアメリカに行ったからなのだろうか。

 



 夏休み明け。部活が本格的に動き始めた。その日、英語部の部室と化した英語研究室には、蓮と私のふたりしか残っていなかった。いつの間に、みんな帰ってしまったのか。焦って帰り支度をしながら、相も変わらず猫のような横顔をそっと盗み見る。

 澄んだブラウンの瞳が、遠くを見るように揺れていた。その様子は、ミーティングの日の強張った表情を思い出させた。

 「蓮、鈴木くんたちと帰らなかったの?」

 「…あんまり、帰りたくなくて」

 「どしたの。親と喧嘩でもした?」

 逡巡するような三秒間の沈黙の後、蓮がぽろりとこぼした。

 「…母さんに、癌が見つかったんだ」

 「え…」

 「もともと、うちの母方の家系は乳癌が多くて、覚悟してなかった訳じゃなかったんだ。でも、そうは言ってもやっぱり…」

 香霞川の桜の下で聞いた話が、フラッシュバックした。

 家族のことを楽しそうに話してくれた蓮。きっと妹さんを失ったからこそ、その大切さをより強く感じているはずで。

 残された家族さえ失ってしまったら――そんな仕打ちは、高校生には惨すぎないか。

 お母さんは入院が決まり、家に帰っても一人だという蓮に、私はひとつ提案した。

 「――じゃあ、これから部活の後…そのまま教室に残って、勉強していかない?運が良ければ、先生掴まえて質問もできるし…」

 「うん。いいね」

 そう答える彼の表情が、少しほっとしたように見えたのは、私の気のせいじゃなかったと思う。

 部活後に毎日一緒に過ごすようになると、蓮はゆっくりと、私に気持ちを打ち明けるようになった。莉子がいなくなってから、私たちの間に確かに存在していた距離は、急ぐことなく、でも着実に、縮まっていった。

 ふたりきりになると、時々蓮の頬を涙が伝った。気付いていないふりをしたけど、静かに泣く蓮を見るのが悲しかった。私にできることがあれば、力になりたい。心臓が、細い糸でぎゅうと縛りつけられているかのような感覚があった。




 ちょうどそのくらいの時期、たまたま瞬と廊下ですれ違った。

 いつもは「よー美咲!」と明るく手を振ってくれる彼が、ちらりと私を一瞥して、それから下を向いた。瞬が私を無視した。はっきりと、私の存在に気付いていたのに。

 どうしたんだろうと気になったけど、部活へと急いでいた私は、彼を呼び止めることができなかった。

 その晩、悩んだ挙句、私は瞬にメッセージを送った。

 「何か私に怒ってたりする?」

 しばらくして返事があった。

 「怒ってるとかじゃないよ」

 …じゃあ、なんで?

 「でも今日すれ違ったよね?」

 すぐ既読がついたが、返信は無い。

 諦めてお風呂に入ることにしたが、出てきてスマホを見てみると、一件の新着通知があった。

 「蓮と付き合ってるの?」

 危うくスマホを床に落としそうになった。

 「え!?付き合ってない!!」

 「鈴木たちが噂してたけど」

 「部長と副部長だから一緒にいる時間が長いだけだよ」

 返信を打ちながら、それに、と思う。

 今蓮は、誰かと付き合うとか付き合わないとか、きっとそれどころじゃないよ。

 「なんだーーー俺の勘違いかよ!!」

 「ほんっっっっとにごめん美咲」

 「今度なんか奢るわ」

 瞬が怒っていなかったことにほっとしつつも、なぜかちょっぴり切ない気持ちになった。

 次の日の休み時間、瞬は私の教室までやって来て、謝りながら私の好きな抹茶チョコクッキーをくれた。




 季節は、無常に巡ってゆく。

 それは、もう三月だと言うのに冷たい雨が朝から降り止まない、寒々とした春の始まりのことだった。

 「――昨日さ、検査結果がわかって」

 「うん」

 「…余命二、三年だって」

 少し掠れた声で、蓮が教えてくれた。

 その日は偶然部活がオフだったことを、私はちょっと気にし過ぎて、どうにかして蓮を学校に引き留められないかと考えたけど、結局その必要は無かった。

 「今日は、父さんの出張が入っちゃったから、瞬の家で泊まってもいいって言われたんだ」

 「そっか、それなら、ちょっと安心かも…」

 そう言いながらも、微妙にがっかりしている自分がいた。

 同時に、蓮の瞼がいつもより少し腫れぼったいことに気付く。

 「体調悪そうだよ。熱あるんじゃない?」

 「ああ、そういえば、今朝からちょっと頭痛いかも…」

 しばらくの沈黙、そして。

 「ねぇ、家、来る?」

 「え?」

 耳を疑った。

 「瞬の家には、夜行けばいいから。」

 「あ、そうなの……」

 うるさいくらいに音を立て始めた心臓を自覚しながら、蓮は今どんな表情かおをしているんだろうと思って、そっと視線を上げる。

 ――辛いんだよね?誰かに居てほしいんだよね?

 「うーん、行こうかな。しんどそうだし。」

 外は相変わらず雨が降っていて、蓮の家に到着するまでに身体は底冷えした。けれど心はむしろ熱さを増していくようで、そのコントラストは何とも形容しがたい感じがした。

 三人暮らしには広すぎる豪邸だった。家に入ると、改めて、いつも蓮が一人で家に居たがらない理由を、分からされたようだった。冷たい大理石に囲まれたこの空間に一人閉じ込められたら、吸う空気を見つけられなくて、窒息してしまうかもしれない。

 自分の部屋に入ると、蓮は少しだるそうに、頭だけベッドに預けた。私は床の隅っこで、遠慮がちに体育座りをして彼を見つめた。

 しばらくそうしていると、蓮がにわかに口を開いた。

 「…英語部ができるって話を聞いた時、癌が見つかったすぐ後だったから、ほんとは入るつもり無かったんだ。自分だけ好きなことやるの、申し訳ない気がして。」

 私は彼にできるだけ真っ直ぐな視線を注いで、話の先を促す。

 「でも母さんが、病気のせいで俺のやりたいことを制限しちゃうのが一番辛いって、言ったんだ。だから、せめて爪痕を残したいと思って、キャラじゃないって分かってたけど、副部長立候補したんだ。」

 彼の言葉がストンと胸に落ちてきた。

 「……癌が分かった時点でステージ四だったから、長くないことは知ってた。でも、やっぱり、キツイな…」

 蓮はベッドに倒れ込むようにして、私に背を向けて静かに泣き始めた。いつもは少し遠いその背中を、今日ばかりは、なぜか、近くに感じた。だから、私はそっと駆け寄って、隣に並んだ。小さく見える背中を、優しく叩いた。

 ゆっくりと顔を上げた蓮と、至近距離で目が合う。切れ長の目が。すっと通った鼻筋が。薄茶色の瞳が。ずっと求めて止まなかった姿が、こんなにも近くにある。

 互いの息の音が聞こえてきそうな静寂の中で、ふたりの唇がそっと触れ合った。 

 ――ああ、キスってこんなに温かくて、甘いんだ。

 涙が頬を流れるのを感じた。

 その時だった。机に立てかけてある幼い少女の写真が、目に飛び込んできた。

 瘦せ細っていて、透き通るような白い肌で、毛糸でできたピンク色の帽子を被って――ああ、瞬の言っていた通りだ。本当に、驚くほど――莉子に似ている。

 そして写真立ての隣には、見覚えのある、白い大きなリボン。

 ――だめだ。蓮が好きなのは、私じゃないから――




 衝動的に立ち上がって、自分の荷物を引っ掴んだ。

 「――やっぱ帰らなきゃいけないんだった。ごめん」

 蓮の目を直視できないまま、逃げるようにして家を出た。冷たい大理石の孤城に彼を一人置いていくことの罪深さを、知っていながら。

 外はまだ雨が降っていた。でも、傘は差さなかった。

 ずぶ濡れになって歩きながら、背中に、よく知っている気配を感じた気がした。

 でも、それが蓮じゃなかった時に失望したくないから、振り返らなかった。

 そこから、どうやって自分の家まで帰ったのか、覚えていない。

 ただ、やっと決心がついた。

 この恋を、終わりにしなければと。




 週明けの月曜日。

 朝がやって来た。

 蓮の風邪が感染るかと思ったけど、熱は出なかった。

 カーテンを開けたら、零れ落ちる光はすっかり春の陽射しを帯びていた。

 約半年間の英語部活動の集大成であるディベート大会が、今週末に迫っていた。

 私は決めた。大会が済んだら、部活を辞める。これでやっと、お終いにするんだ。

 毎朝の習慣でテレビをつけると、アナウンサーの滑らかな声が流れ込んできた。

 「――今年は平年よりかなり気温が高く、香霞川の桜並木は、今週末にかけて満開を迎えるそうです――」

 蓮とふたりで、もう一度、見に行きたかったな。

 涙が流れる前に目をぎゅっと瞑って。

 一歩一歩を踏みしめて、私は学校に向かった。




 部活後、私たちはいつものようにそのまま教室に残った。

 すぅっと一度息を吸ってから発した私の言葉は、少し上ずっていた。

 「私ね、今度のディベート大会が終わったら、部活辞めることにしたの。部長なのにごめんね。他の部員とか、先生にはこれから伝えるつもり」

 「……急になんで?」

 「なんか、帰ってくるのが遅すぎるんだって。ほら、うちの門限厳しいから。これまでは良かったけど、高二になったら受験勉強も、ちょっとずつ始めなきゃいけないし」

 切なさでいっぱいになるのを必死に堪えながら、私は言葉を紡ぐ。

 「――先週は、突然帰ってごめんね。あのね、蓮が英語部入ったのはほんとに予想外だったけど、でも、よかった。この半年間は――私の一生の思い出だよ。お母さんのことも、いっぱい話してくれて、ありがとう」

 踵を返す前に、大好きだったその姿を、強く強く目に焼き付けた。

 じゃあね、と言って離れた後は、決して、振り返らないようにした。

 大丈夫。私がいなくても、蓮にはお父さんが、瞬が、他にも沢山のいい人たちが、周りにいる。彼らが、ちゃんと蓮のことを守ってくれるはずだ。

 一心不乱に帰り道を歩いていると、遠くからの声に呼び止められた。

 「――風邪!!引いてない?」

 ほんの僅かな期待を胸に振り返ると、大きく手を振る瞬の姿が見えた。

 「えー??引いてないよ!なんでー?」

 瞬は歯を見せて大きく笑って、口の形だけで「な・ん・と・な・く」と言った。

 「意味わかんなーい!」

 私も笑顔で返して、ばいばいと手を振って、今度こそ帰り道を辿り始めた。

 よく分からなかったけど、少しだけ口角が上がるのを感じた。




 私はディベート大会で個人賞を受賞し、三か月間のアメリカ留学への切符を手に入れた。高二になってからは、勉強と留学準備に明け暮れる日々を過ごした。瞬と同じクラスになって、何かとつるむことが増えた。瞬は蓮とも、よく一緒に過ごしているようだった。




 蓮と一緒にいると、いつもの自分よりも少し、強くなれる気がした。

 世界がきらきらして見えた。

 蓮と一緒にいる時の自分が、好きだった。

 そういう意味で、英語と蓮、ふたつは似ているのかもしれない。

 英語を話す自分が好き。普段より、勇気を持てる気がする。

 だから、できるだけ留学生活に想いを馳せることで、辛い気持ちにならないようにすることができた。




 留学を二か月ほど先に控えたある日。勉強に疲れた私は、SNSを開いてみた。英語や、留学関連のアカウントで画面が埋め尽くされている。

 その中でも、特に最近お気に入りなのは、エミリというインフルエンサーの投稿だった。彼女は私たちと同い年で、政府から奨学金を貰って、アメリカの高校に留学している。その様子を事細かにSNSにアップしており、彼女の投稿を見てモチベーションを上げるのが、近頃の私の日課だった。


 『なんと、日本人が経営している"消える"タトゥーショップを発見!一週間くらいで消えるらしいから、気軽にできて最高~!せっかくなので、現地で知り合った日本人の友達と、行ってきました!』


 文章に添えられた写真を見た私は、目にしたものが信じられず、しばらく固まってしまった。でも、これは、間違いない。エミリの隣で、くりっとした目で微笑んでいるのは――莉子だった。腕に、小さく蓮のタトゥーが咲いている。画面の中の莉子と真正面から目が合って、思わずどきっとした。

 莉子のアカウントも探してみたけど、見つからなかった。




 エミリの投稿の話は、誰にもしなかった。

 莉子はアメリカに行ってから、私たちだけでなく、少なくとも学校の友達全員と、連絡を絶ったらしい。

 それなら、私からこのことを広めるべきじゃないと思った。

 出発の日が近づいてきた。

 瞬や、英語部の顧問、その他にもお世話になった人たちに、何か贈り物をしたい。そう思って、駅前のこじゃれた雑貨屋さんに来た。そういえば、ここは莉子のお気に入りだったから、莉子へのプレゼントを買う時はいつも来ていたっけ。

 店にはかわいいハンカチが沢山あったから、いくつか選んでかごに入れた。

 ふと、花の刺繍がしてあるハンカチに目が留まった。色は薄い青とピンクの二種類。手に取ってよく見てみると、蓮の花のデザインが施されていた。

 頭の中で、パチンと、何かが弾ける音がした。過去のシーンが、走馬灯のように流れ始める。

 入学式の日、初めて蓮と喋った時のこと。莉子の出発の日、トイレについて行った時のこと。

 いつもリボン柄しか使わない莉子が、そうじゃなかった。「今日初めて使ったの」と言った時の、意味深な微笑み。あの日、蓮は見送りに来なかった。夏風邪だと言っていたけど、冷たく見えても情に厚いところのある、蓮らしくない。莉子の持っていたあのハンカチは…

 ――気付けて、余計に、あの日帰ったことに対して、やっぱりあれで良かったんだ、と思えたのだった。




 その晩、私は無我夢中で探し物をしていた。

 言わば、最後の砦。これさえも無視されたら立ち直れないからと思ってずっと仕舞ってあった、莉子のアメリカの住所が書いてあるメモ。

 「――あった!!」

 近々アメリカへ留学すること。できれば会って話したい。もしそれが無理なら、電話でもいいから話したい。そう書き記して、一刻も早く届くように、急いで近くのポストまで駆けた。

 そうして、私が帰国する直前、私たちは会うことになった。




 「お邪魔します…わぁ、すごい、三階建てだ。暖炉もある。ザ・アメリカの家って感じ!」

 「ステイ先はこんな感じじゃなかった?」

 「フロリダだったからね。ホストファミリーの家も、友達のも、平屋だったなぁ」

 顔を合わせる前よりも、合わせてからの方が、ごちゃごちゃと色々なことを考えずに済んだ。

 莉子が抱えていた思いについて、あるいは蓮の莉子への気持ちについて、あれだけ悶々としていたのが嘘のように、いざ会ってみると、案外あっけない再会だった。

 莉子はお父さんの運転で、空港まで迎えに来てくれた。家に到着すると、かわいいラブラドールが出迎えてくれた。

 「パパ、スウィートティー買ってきてくれる?あれは絶対日本じゃ飲めない味だから、アメリカにいるうちに美咲に飲ませときたい!私の部屋に行ってるね」

 お父さんにそう呼びかける莉子の態度は、日本にいた時よりも、柔らかなものだった。




 十分も経たない間にスーパーに行って帰って来たお父さんからスウィートティーを受け取って、莉子はそっと、部屋のドアを閉めた。

 フロリダでも、何人かの友達の家に遊びに行ったけど、莉子の部屋にはそのどれとも違った雰囲気があった――きちんと整頓されているところなんかは、やはり日本人的な部分が出ているのだろうか。でも、写真を何枚もコルクボードに飾っているところとか、ベッドの上にやたらと人形が並べられているところとかは、何だかアメリカ人っぽいなと思えて、おかしくなってふふっと笑った。

 「さて――美咲、わざわざ寄ってくれて、本当にありがとね。手紙も。…ずっと連絡できなくて、ごめんなさい。話したいって言ってくれて、本当に嬉しかった。――今日は美咲に話したいことが、いっぱいあるの。」

 莉子の長い睫毛は綺麗にカールされて、上を向いていた。

 彼女は一度深呼吸すると、改まったように私に向かって微笑みかけた。

 

 蓮のことね、好きだったよ。嘘ついてごめん。

 でも、恋愛したくなかったのはほんと。

 ママのことが嫌だったから。

 ――美咲、あの委員会の日の帰り、ママのこと見た?

 盗撮犯とか変な嘘ついて、怖がらせてごめんね。

 誰かに知って欲しかったのに、それを自分で言う勇気が出なかったの。

 美咲なら、見ちゃっても私に気遣って、言ってこないだろうなと思ってた。

 その距離感が、ちょうど良かったんだ。

 ――ママのこと、心の中では軽蔑してたけど、仲良しのフリしてた。パパは仕事人間でほとんど家に居なくて、どうしてもママと過ごす時間が多かったから。

 嫌うより、受け入れちゃった方が楽だったの。


 中二の、六月くらいだったかな。ママの浮気がパパにバレて。でもパパは、ママを強くは責めなかった。仕事ばっかりになって、家庭を疎かにしてた自分も悪いって、謝ってた。

 三年くらいずっと、パパにはアメリカ転勤の話があったの。でも私は中学受験することに決めてたし、もし転勤することになっても、単身赴任かなって言ってたんだ。でもこれがきっかけで、パパは、家族皆でアメリカに行かないかって。この国で、また一からやり直せないかって。

 でもふたりは最終的に、私に判断を委ねたの。せっかく希望の中学に合格できたんだから、莉子の気持ちを優先したいって言って。

 本当に悩んだ。美咲とも、蓮とも、瞬とも、離れたくなかった。

 でも、ふたりがもう一回やり直せるかもしれないって思ったら、その可能性に賭けたくなった。


 そんなに上手くいくものでもなくてね。

 今ふたりは別居してるの。ママはここから歩いて5分くらいのアパートに住んでる。私は週の半分はママのとこに行ってるんだ。

 こっちでは結構、こういう家族は沢山いる。離婚しても協力して子ども育ててたり、再婚も多いし。だからって言うのもあるのかな。私も今は受け入れられるようになったし、ふたりの関係も悪くないから、近々また、三人で暮らせる未来もあるかもしれない。

 それにね、ちゃんとふたりから、愛されてるって感じるんだ。日本にいた時の方が、分からなかった。


 ずっと、連絡できなかったのは…

 アメリカに行くことを決めたのも、蓮への気持ちを認めなかったのも、全部私の判断なのに、それでもやっぱり、なんか辛くなっちゃって。

 こっちに来てから、ゆっくりだけど、ちょっとずつ上手くいき始めたパパとママを見てたら、――私も気持ちに蓋する必要無かったのかな、とか思えてきて。

 それに、会えなくなって改めて、好きだったなって思っちゃった。

 だんだん返信が面倒になって、日本との関わりそのものが、疎ましくなってきて…

 ――嘘ばっかりつくし。わがままだし。

 こうやって謝るのだって、美咲から連絡くれてなきゃ、多分できなかったと思う。

 本当にごめんね。

 今更かもしれないけど……美咲はいつも明るくて、優しくて、私のこと気遣ってくれて。

 私いつも救われてた。ほんとにありがとう。


 あのさ、もう一つだけ、わがまま聞いてくれないかな。

 もうできるだけ、後悔したくないから…

 これ、蓮に手紙書いたから、日本に帰ったら、渡してもらえないかな。

 美咲、ほんとにありがとう…


 言い終わると、莉子は堰を切ったように泣き始めた。

 私は駆け寄ってハグした。私の目からも、涙が溢れてきた。

 ふたりでひとしきり涙を流した後、用意してくれたスウィートティーを口に運んだ。

 「――やっぱり、甘い!!」

 「ほんとにさ、日本では有り得ない甘さじゃない!?」

 莉子と私は顔を見合わせて、同時に噴き出した。

 スウィートティーの甘さは、ふたりの間に流れる空間をじんわりとほぐし、温め、過去をゆっくりと押し流していくようだった。 




 帰り際、廊下の花瓶に鈴蘭が生けてあることに気付いた。

 「わ、きれい」

 「これ、ママがこっちに来た時、生けて帰ったの。ママの家には、もっと大量の鈴蘭があるよ」

 莉子は、慈しむような視線をその花に注いだ。

 匂いが鼻を刺激して、閃いた。

 ――莉子のお母さんのあの香り。鈴蘭だ。

 莉子にも少しその匂いが移っていることに、彼女は気付いているのだろうか。




 三ヶ月間の留学はあっという間に終わった。

 久し振りに吸った日本の空気は、まだ冬の冷たさを帯びていて、ひんやりと、でもすっきりとしていた。

 高三に進級し、少し経ったある春の日。

 躊躇いは、全く無かったと言えば噓になる。

 でも、過去を打ち明けてくれた莉子の、最後のわがままに応えたい。

 意を決して、私は蓮のクラスに足を踏み入れた。

 「蓮」

 ――こうして向き合うのは、一方的に別れを告げてしまった、あの日以来か。

 私の姿を認めると、ブラウンの瞳が潤んだように揺れた。

 「美咲…おかえり」

 「ただいま。あのね私、莉子に会ってきたんだよ」

 そう言って、鞄から薄ピンク色の封筒を取り出す。

 蓮は状況を飲み込めていないような表情で、少し震える手でそれを受け取った。

 「………留学先で、中国人の友達ができてね」

 「うん」

 「はすの話を聞いたの。愛蓮説って、知ってる?」

 「いや…」

 「菊とか牡丹よりも、清廉な蓮が一番好きだって文章なんだけどね。友達が言ったフレーズが、すごく頭に残ったんだ。」


 I love the lotus alone—it grows from the mud yet stays pure.


 「私ね、蓮は―― 莉子のこと、ちゃんと莉子として見てると思うよ。」

 静かに笑顔を作って、じゃあね、と手を振った。

 これが、蓮が前に進めるきっかけになることを願いながら。




 今でも雨の日は息が詰まる。特に今日みたいな、冷たい雨が朝から降り止まない日は。

 蓮に手紙を渡してから、三か月ほどが経った。

 しかめっ面で数学の問題集に向き合っていた私の前の席に、瞬がやって来て腰掛けた。

 「美咲、顔怖いよ。美人が台無し」

 思わず顔を上げた。面と向かって美人だなんて言われたのは、いつぶりだろうか。

 なんとなく気恥ずかしくて、返事の代わりに私はシャーペンを置いて天井を仰いだ。

 「だって難しいんだよ、この問題…」

 「ガリ勉もいいけど、たまには息抜きが必要だと思わない?」

 こくりと頷いて同意した。

 「じゃあ決まり。今日の放課後、空けといて」

 そう言い残して、瞬は席を離れていった。何か用があるのかもしれない。いずれにせよ、勉強漬けの日々が続いていたから、少し気分転換したい頃合いだった。




 放課後、午前中の冷えた雨が嘘のように、空はカラッと晴れ上がった。「着くまで内緒」と言って瞬が連れてきてくれたのは、香霞川沿いのサイクリングロードだった。

 重い鞄を土手に放り投げ、自転車をレンタルした私たちは、そよ風に乗って、力強くペダルを漕ぎ出した。足がパンパンになるまで、漕ぎ続けた。ゾクゾクするような非日常感の中で、憑き物が落ちたように、ふたりで大声で笑った。

 自転車を乗り捨てて、帰りはもと来た道をゆっくり歩いた。ちょうど陽が傾き始めていたから、並んだふたりの陰が、長く長く伸びていた。




 橋の欄干にもたれ掛かり、燃えるような夕焼けを眺めた。

 「連れてきてくれてありがとう。サイコーだった。私香霞川って、桜の時期しか来たこと無かったよ。川沿いのサイクリング、こんなに気持いいんだね」

 長かった今年の梅雨が、終わったようだった。大空は、梅雨明けを喜ぶかのような快晴だった。

 「ちょっとは元気出た?」

 え、なんで、と目で問いかける。

 「美咲のこと、いつも見てるし。ここずっと、なんか辛そうだったでしょ」

 いつになく真剣な目をした瞬に、じっと見つめられた。彫りの深い、落ち着きと優しさを湛えた目。猫のような切れ長の目とは、まるで違っていた。

 「美咲のこと、ずっとずっと好きだった」

 心が、きゅうっと縛られるのを感じた。

 「………まだ、蓮のこと好き?」

 涙がとめどなく溢れてきて、どうしようも無かった。

 私、蓮には一度も、泣き顔を見せたこと無かったのに。

 瞬が控えめに、私の肩を抱き寄せる。

 「そんなに思い詰めなくていいよ」

 私の泣き声は、やがて嗚咽に変わった。




 しばらくして、やっと私が泣き止むと、瞬はゆっくりと身体を離した。慈しみに満ちた瞬の顔を見上げて――私は覚悟を決め、口を開いた。

 「瞬、ありがとう。ほんとにありがとう。瞬のことが大事だからこそ、気持ちに応えられない。ごめんね。」

 目の淵いっぱいにまた溜まってきた涙を、言い終わるまでは流すものかと踏ん張る。

 「私、まだ蓮のことが好き。こんな気持ちじゃ、ずっと一途に思ってくれた瞬に向き合えない。ごめんね。ごめんね――」

 これ以上優しさに甘えたらだめだと思って、瞬が胸を貸してくれるよりも先に、欄干にもたれてしゃがみ込んだ。すると瞬も隣で小さくなり、いつしか私が蓮にやったように、ポンポンと、優しく背中を叩いてくれた。

 大きく息を吐いて、私はもう一度彼に向き直った。

 「――ありがとう。瞬みたいないい人が好きになってくれて、私、自分のことがちょっと好きになれた」

 「うん。…自信持ってよ」

 瞬は少しだけ眉尻を下げて、笑った。

 ゆっくりと立ち上がり、私たちは夕日に背を向けて歩き出した。

 心が、たっぷりの綺麗な水で、優しく洗われたかのような心地がした。瞬は私に、桜でもない、蓮でもない美しさを、教えてくれた。




 季節は巡り、共に六年間を過ごした仲間と校舎に、別れを告げる日がやって来た。新しい春はもう、すぐそこまで来ている。澄んだ空の青が綺麗な、穏やかな日だった。

 式が終わってから、トイレを済ませて廊下に出ると、この最後の日に一番、会いたかった人と出会った。

 「蓮。写真撮ろうよ」

 これが私たちの最後の会話になるだろうと、確信に近い予感を胸に抱きながら、話しかけた。

 「うん」

 春の始まりに似合う、少しはにかんで笑う蓮の表情は、六年前にここで初めて見た時から、変わっていない。

 でも、六年という時間と、彼が経験したことの重さのぶん、どこか大人びたような気がした。

 卒業証書と一緒にふたり写真に収まり、蓮の方を見た。彼の丸い瞳もまた、私をまなざしていた。

 「進路、決まった?」

 「ううん、まだ合格発表待ち」

 「そっか。地元は出る?」

 「うん、東京に行くつもり。美咲は?」

 「私は一足先に推薦で決まったよ」

 「さすがだ、おめでとう。学部は?」

 「外国語学部。通訳になりたいんだ」

 「美咲ならぴったりだ。ディベート大会すごかったもんね」

 「ふふ、ありがとう」

 私たちの間に、いつぶりか分からない、温かな時間が流れていた。

 「蓮は、どういう分野に進むの?」

 「俺は宇宙系かな。受かってたらいいけど」

 「大丈夫だよ、きっと」

 「うん、信じてる」

 ふと、学ランに輝くボタンに目が留まった。もらっても、いいかな。私は今まで、蓮にわがままを言ったことが無い。最初で最後のお願い。これくらい、きっと許してくれるよね。

 「あのね。第二ボタン。もらっても、いい?」

 「うん。いいよ」

 ボタンは意外なほどあっという間に外れた。その様子をどきどきしながら見守る一瞬が、永遠のように感じられた。




 ボタンが私の手に渡るその瞬間、蓮がそっと口を開いた。

 「――俺、春休み中に、アメリカに行くんだ」

 「…そうなんだ」

 「…莉子に会いに。」


 ――瞬から聞いてるかもしれないけど、俺、妹がいたんだ。俺が六歳の時、白血病で亡くなった。

 …莉子は、凛に――妹に、本当によく似てる。だから、自分の気持ちに気付くのが遅くなっちゃったんだ。

 美咲、手紙渡してくれて、本当にありがとう。それだけじゃない。俺が一番辛い時、側にいてくれて、どれだけ救われたか分からない。


 「――うん。」

 私は目をぎゅっと瞑るようにして笑った。

 「最後に一つだけ、気になってたことがあって。…お母さんの調子はどう?」

 「治療が上手くいってて、あと五年、もしかしたら十年くらい、生きられる可能性が高くなってきてるって、この前お医者さんが言ってた。残された時間、無駄にしないために、自分の時間も、母さんとの時間も、大切にするようにしてるんだ。」

 「それなら、よかった…」

 「母さんには、本当に感謝してる。いつか自分の子供ができたら、母さんが自分にしてくれた以上に、色んなことさせてあげたい。――それが一番、母さんの喜ぶことだと思うから。」

 蓮はちょっとだけ顔を歪めて、笑った。

 今までで一番、大人びた表情だった。

 「じゃあ、クラスの奴らに呼ばれてるから、そろそろ行くわ」

 「うん、じゃあね。ありがとう」

 「こっちこそありがとう」

 その姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。


 ――自分の子供ができたら、色んなことさせてあげたい。それが一番、母さんの喜ぶことだと思うから。


 彼の思い描く未来で、隣に居るのは私じゃないけれど。

 蓮の言葉を全部、じっくりと噛み締めて、ゆっくりと飲み込んだ。そして願った。


 どうか貴方が、貴方自身の愛する人の隣で、心から笑っている未来が、待っていますように。




 数年後。

 私は通訳になるという夢を叶え、仕事でアメリカに来ていた。

 空き時間ができたので、この国では珍しく桜並木が植えられているという通りに、行ってみることにした。

 春薫る、三月の終わり。通りには川が流れていて、どことなく、あの香霞川と似た空気を感じる。

 前の方で、日本人の三人家族が、私と同じように散歩をしていた。小さな女の子が、こちらに向かって歩いてくる。三歳くらいの、きれいな女の子だった。

 くりっとした目。丸いブラウンの瞳。幼いながら、すっと通った鼻筋。つやつやとした黒髪を三つ編みにして、白いリボンで留めていた。

 「リリカ、どこ行くの。こっちだよ」

 女の子は両親の方へと、よちよちと歩いてゆく。戻ってきた女の子を、小柄な母親がぎゅっと抱き締めた。女の子そっくりの母親は、艶のある長い髪をリボンでまとめている。その隣で、背のすらっと高い父親が、ひょいと女の子を肩車した。きゃっきゃとはしゃぐ女の子を、見上げるようにして笑っている、猫のような彼の横顔を。私が今まで見た中で一番輝いている彼の笑顔を、目に焼き付けて。私はそっと踵を返した。

 ――ああ、私の願いは、叶ったんだ。

 その時だった。胸ポケットのスマホが震えて、着信を告げる。

 「――もしもし瞬、どうしたの?うん、仕事はバッチリ。ああ、来週末は空いてるよ。どこにしようね――」

 土手から吹いてきた土くさい風が、柔らかな香りをもたらす。

 私は、次なる季節に向けての、確かな一歩を踏み出したのだった。


 Our story was a spring wind — brief, tender, gone. You were the blossom I could never gather, only admire from afar. And still, you bloom — not for me, but beautifully all the same.

 To my eternal love

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桜霞に、貴方が笑っていられたら。 咲花 @cherry_pompom

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